公式サイトはこちら 下北沢「劇」小劇場 10日まで
100を越える応募作品から第1次、第2次審査を経て最終審査に残った4人の演出家と作品は以下のとおり。
*サリngROCK作・演出/突劇金魚 『絶対の村上くん』
*鈴木アツト作・演出/劇団印象 『青鬼』 (1,2,3,4 5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16)
*中村房絵構成・演出/天辺塔 『箱』
*日澤雄介演出/劇団チョコレートケーキ 古川健作(1)『親愛なる我が総統』
この4作品が2度ずつ上演され、最終日には公開審査によって最優秀賞が決まる。
公演期間中は4作品を次々に上演する形式のため、コンクール実行委員長の大西一郎さんいわく、「1時間で仕込んで上演が終わったらすぐにばらす」を繰りかえすことになる。参加する劇団のスタッフさんはじめ、関わる方々は大変な労苦をこなしていらっしゃるのではないか。ひとつの劇団が続けて2度上演し、それから次の劇団という流れならば少しは楽だろうが、できるだけ複数の作品を観劇しようとすると、このシステムのほうがありがたい。
4作品中2作品は主宰が作と演出を兼ね、天辺塔の『箱』は複数の劇作家の脚本をコラージュした作品で、初日の『親愛なる我が総統』は座付作家である古川健の脚本を日澤が演出するもの。当日リーフレットによれば日澤の演出歴はここ2年あまりで、本作はこのコンクール用に古川が新しき書きおろし、あえて劇団員を配役せずに客演俳優のみで上演する意欲作だ。
アウシュヴィッツ収容所の初代所長であるルドルフ・フェルディナンド・ヘースと予審裁判に関わるふたりの判事とひとりの精神科医を描く60分である。
取り調べ室を上手寄りに置き、上手と下手の出入り口を巧みに使って時間の経過や空間のちがいなどをみせる。ナチス関連の資料や映像などはあふれるように存在するであろうから、そのなかからどの材をどのように取捨選択するか、どう舞台で表現するか、まずは劇作家の技量裁量が問われることになる。
劇作家・古川健は、作品の核をユダヤ人の大量虐殺の指揮を執ったヘースが「人間であるか否か」の1点にしぼった。これが功を奏している。
予審のやりとり、取調室とはべつの空間で判事たちや精神科医がかわすやりとりなど、会話が続く劇である。東欧系特有の覚えにくい人物名やナチス犯罪にかかわる語句(当日折り込みのなかに本作観劇の資料集あり)など、上演台本を猛烈に読みたくなった。
みかたを変えると、本作は上演台本じたいが強い魅力をもつ。わかりにくいところは読みなおすなど、読み手が自分のペースで自由に読み、自分の想像において劇世界をつくるほうが楽しくなってしまう可能性も高い。読んでこれだけ惹きつけられるのだから、ぜひ舞台をみたいという気持ちが掻き立てられるだろうが、ひょっとすると上演台本読みで満足、完結するかもしれない。
戯曲は上演されることを前提としたものだ。紙上だけでは完成しないものといってよい。どこに上演の必然性、重要性を見出すかが演出家の手腕である。
このコンクールは「演出家コンクール」であり、上演されている舞台の演出面を審査するものだ。しかし改めて考えてみると、戯曲、俳優など劇場で行われているすべてが作品であるから、ことさら「演出」だけを選んでみることはむずかしい。指定されたひとつの戯曲を4人の演出家が競作するならまだしも、前述のように作・演出を兼ねる人もあれば、複数作品をコラージュしたりなど、それぞれの劇団がこれはという自信作をもってくるのである。
上演台本はすばらしいが演出がいまひとつのためにじゅうぶんな舞台成果に結びついていなかったり、逆に演出家の読み込みや俳優とのやりとりによって、いささか難のある台本から生き生きと劇世界を立ちあげることに成功する場合もあるだろう。
今回の『親愛なる我が総統』の舞台には、同じ劇団でともに舞台をつくる仲間として劇作家古川健に対する演出家日澤雄介の信頼と敬意が伝わってくるものであった。俳優陣もそれに対して誠実に応えている。演出は手法に走ること、舞台の絵面にこだわることではなく、まずは作品に対して誠実に向き合うことだ。それが舞台上にきちんとあらわれていて、内容は逃げ場がなく重苦しいが、気持ちのよい作品である。
静かなる闘志。劇団チョコレートケーキの心意気であろう。
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