架空の仏とよく言われる阿弥陀如来。 梵名の「アミターバ」「アミターユス」。
アミターバは、「ゾロアスター教」の、「無量の光」(永遠の光)。 アミターユスも、「ゾロアスター教」の、「無量の寿命」(永遠の時間) 。 「実在の人物ではない」。観念の存在である。
真言密教における解釈は、 「五智如来」における西方・阿弥陀如来。すなわち、中央の「大日如来」の変化 (へんげ)で、「妙観察智」の智慧を現す。 ここで大切なのは、「大日如来」も「人ではない(歴史上実在した人物としての仏ではない)」。大日如来とは、「宇宙の理法 (真理)」そのものであり、阿弥陀如来も「妙観察智」と言う「智慧」そのものであること。 すなわち、「救済者では無い」。
天台宗では、全ての仏は、実在の「釈迦牟尼仏」の変化と考える。前述した「釈迦・大日同一説」である。(以前までは、そのように解釈していたはずであるが、最近は公式HPでも見ない) どのみち、天台宗の総本尊が、釈迦牟尼仏であることには変わりない。
曹洞宗(禅宗)は、釈迦牟尼仏が御本尊であるが、阿弥陀如来を祀ることもある。以前、知り合いの曹洞宗の方丈(住職)が、阿弥陀如来とは、上述と同じ意味のことを話していた。(無量の光、無量の寿命)と。すなわち、「救済者では無い」。「観念的な存在」である。お釈迦様が何度も仰られたように、「自分を救うのは自分自身である。それが真理である。他人を清めることはできない」。
同じ禅宗でも、臨済宗は、はっきりといくつかの寺の住職が読み物で書いていた。 「阿弥陀如来も観音様も、すべての仏さまは、実在の仏様・釈迦如来の「徳の現れ」だ」と。
私論ではあるが、日本独自の「神仏習合」により、真言や天台の古い名刹寺院 で祀られる仏像には、「日本の神々が習合されている」ことが多々あるように思う。 「阿弥陀如来」は、「スサノオノミコト」(熊野権現・八幡神)。「薬師如来」は、「ニギハヤヒノミコト」。 「十一面観音」は「ニギハヤヒノミコトの妃神」と言うように。(十一面観音は、ニギハヤヒノミコトが習合されておられることもある) こういった、「日本の神々が」入っておられる仏像は、かなり強いエネルギーを私は感じる。いくら真言宗や天台宗で、「開眼作法」がなされた仏像でも、「日本の神々が」入っておられない(習合していない)仏像は・・・「エネルギー」をあまり感じない。 (今、これ書いている最中、近くでハシブトガラスの「リキ」が何度か鳴いた)
今まで何百と言う寺院 (主に真言・天台) を巡って来て感じたのは、「神仏習合」している仏像は、「救済者」と言えるだろう。もちろん、真理は「自分を救うのは自分自身」と言う大原則は変わらない。神仏は「祈願をかなえるために存在しているのでなく」、「お祀り」「供養礼拝」するための存在であるから、「私心無く」「邪心無く」「透明な心をもって」祭祀を、供養礼拝を続ければ・・・「正しい智慧を授かる」。われら人間にとって、一般人にとって、最大の功徳ご利益は、「正しい智慧を授かる」ことである。
この考えに到達するまでに、私は30年かかった。
真言宗では、阿弥陀如来根本陀羅尼 (あみだにょらいこんぽんだらに。発音はあみだにょらいこんぽんたらんじ) や、小呪の真言と観法・・・すなわち修法そのものが阿弥陀如来であると考えてよい。
ちなみに、西方極楽浄土と言う考えが生まれたのは・・・
お釈迦様が涅槃に入られる時、「頭は北向きで、西に顔を向けた」状態で亡くなられたところから、「西方には仏がおられる」と言う考え方が生まれたのではないかと思う。原始仏典で、お釈迦様が「その体勢で入滅するのが仏の定法である」と仰られているのであるが、なぜ西に顔を向けて入滅されたのかと言えば・・・
「太陽は東から上り西に沈む」からではないかと思う。東は日が昇る方位だから、生まれるというイメージがあり、西は日が沈む方位だから、「死」または「終わり」をイメージする人は多いだろう。人間含め、あらゆる生物は「死ねばまた生まれ変わる」とお釈迦様は説き、悟りを開いた方だけが、生まれ変わりが無くなった「涅槃」に入ると説かれる。
ではまた。
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