仏と神、どっちが偉いか尊いか。
神 (天) には、ランキングがありますが、
仏にはありません。
アマゾンで買った原始仏典を読んでいると、ゴータマ・ブッダ (お釈迦様) は、転生を繰り返しながら、徳を積み続け、成道を目指しながら、最後の「生」となる今生で、完全円満なる悟りを開き、ブッダと成られました。要するに、「天 (神々) 」と、「人」を転生しながら、最後の生で「覚者」となったのです。
天 (神々) の世界も、様々な天上界を経験し、人間としての修行も経験し、最後の生で成道したのです。
仏も「人」であり、神 (天) も、生前は、「人」です。(人以外の生物の神霊もいるでしょうが、ここでは「人の神」だけの話にします)
お釈迦様は、「私は、人間に生まれ、人間に長じ、悟りを開いてブッダと成った」と仰っておられます。
生悟りの人間に限って、やたら比較したがり、幕末の国学者・平田篤胤とその仲間たちは、「仏教は悪魔の宗教」とまで断じていました。
仏教の「ぶの字」でもかじったら、悪魔どころか、第一「宗教」でさえ無い。神道も本来、宗教ではない。宗教じゃないと言われると激怒する神職もいるが、これは、別に蔑視しているわけでもなく、神道は「道」だと言っているだけなのである。
仏道とか神道とか、「道」とつくものは、本来、宗教ではない。「道」である。
さて、仏側からすれば、「どっちが偉いか尊いか」は、お釈迦様の態度を見れば判ります。お釈迦様は、様々な神々に対しても、ヤッカ (夜叉。半神。鬼神) に対しても、人に対しても「友よ」と言われる。
これが、「人としても、天 (神) としても、すべてが完全に成就した、円満な、完成した、ブッダ」の態度だと思います。上も下も無い。
さて、アマゾンで買った原始仏典を読むと、そこには「生のお釈迦様のお言葉が」あります。
お釈迦様の言葉は、「宇宙の核」が、人の姿をとって話しているみたい」です。すべてにおいて、完璧です。出家のお弟子に対しても、サーリプッタ尊者との会話と、若い弟子への説法では、話し方が違います。若い弟子たちには、「かみ砕いて、様々な比喩を用いて、理解しやすいように説明し、時には質問を投げかけて」説明したりしています。
相手の機根=レベルに応じて変化する説法=「対機説法 応病与薬」と言うお釈迦様の説法は、「水」のように、相手の器に応じて変化する、完璧なものです。
ただ、原始仏典に収録されている説法集は、ほとんどが「出家者」に対する説法で、在家のわれわれとしたら、なかなか難しいものであります。
私のような者が好むのは、ある国の大王が、死んだ後、四天王のおられる天上界に生まれ変わり、定に入って集中しているお釈迦様に、「お釈迦様ー、私でございます。○○でございます。死んで、四天王の支配する天上界に生まれ変わったのは、これで○度目でございますー」と話しかけたのち、神霊としての姿を現して、お釈迦様と会話するシーンとかです。(いつか詳しく書きます)
また、菩提樹下での、「お釈迦様の壮絶な悟り」のシーンが好みです。
「精神が統一され、純粋で透明で、不動の境地に至った時、過去世の様々な生涯を思い出した。1の生涯、10の生涯、100の生涯、千の生涯、百千の生涯・・・無数の生涯を思い出した。また、他の人々に目を向け、他の人々の、1の生涯、10の生涯、100の生涯、千の生涯、百千の生涯・・・無数の生涯を見た。また、他の生物に目を向け、彼らの無数の生涯を見た。宇宙の成立期、宇宙の破壊期、宇宙の成立破壊期・・・宇宙の無数の転生も全て見た」
「一身にして多身となり、多身にして一身となり、あるいは隠れ、あるいは現れ、日月に手を伸ばして触れることもでき、肉身のまま、大梵天界に行き、身を持って、大梵天界を支配することができた」
「結跏趺坐したまま、空中を飛ぶこともでき、城壁をも、なんなく通り抜け、水中を移動すること自在・・・」云々・・・(いつか詳しく書きます)
など。
お釈迦様の「2500年前に描かれた肖像画」のコピーも持っているので、いつかアップします。
ではまた。
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