大乗経典の「維摩経」。
主人公の 維摩居士には、実在のモデルがいる と言われます。
それが、前述した「チッタ居士」。(チッタ長者)
在俗の人間でありながら、お釈迦様に会ったこともない時に、サーリプッタ尊者の説法を聞いて不還果の覚りに達していたと言います。
「ローマは一日にして成らず」こういう天才的な方は、前世からの功徳の果報です。
前世、前々世、過去世で「サボってばかり」いた人が、突然「悟りを開く」ことなどありません。チッタ居士の天才的な頭脳も、過去世からの功徳の果報です。
お釈迦様は後に、「在家に善き弟子を得た」と仰っています。
「善き信者を得た」ではなく、「在家の善き弟子を得た」と。
チッタ居士は、在俗の人間でありながら、「不還果の覚り」と言う高い悟りの境地に至っていて、「出家の弟子」にさえ、仏法を説くほどだったと言います。
また、経済的にも優れていて、長者と言われます。
孔子の十哲のうちでは、子貢さんがチッタ居士に似ていると以前前述しました。
そのチッタ居士が、「維摩経」の主人公「維摩居士」のモデルではないかと言われます。
維摩経は、はっきり言ったらあれですけど、実際のチッタ居士を「極大解釈」したようなお経です。「維摩経」から先に学んだ人にはあれですが、原始仏典を読んでから維摩経を読んだら、「読めたものじゃありません」。「こんなん、ウソにきまっとるやろ」になります。
私は原始仏典は、アマゾンで買ったものを「かじり読み」くらいしかしてませんが、実際のお釈迦様の説法 (原始仏典) と、大乗経典では比較になりません。
原始仏典のお釈迦様の説法は、「なめらかで詩文調で、柔らかく、わかりやすく、水のように流麗」。読んでいて、イメージが沸く。大乗経典は、「文体もカクカクし、表現が固く、難しい言葉の羅列で」、読んでいて「肩がこる」。イメージが全然わかない。
大乗経典は、中国や日本で作られたお経も、その範疇に入れ、「諸仏礼拝のための、読経で読む」のに適していて、「勉強には向かない」。諸仏礼拝のためなら、大乗経典は適していると思います。観音経・心経など。日本で作られたお経では、聖不動経・南無三十六童子など。特に、「諸仏の功徳を礼賛するタイプのお経」が良いと思います。
中国で作られたお経では、「十句観音経」「舎利礼文 (しゃりらいもん) 」。特に、「舎利礼文」は簡潔であるが、完成度は高いと思います。
仏教を勉強するのに適しているのは「原始仏典」。諸仏を礼拝供養するのに適しているのは「大乗経典」。いかがですか?
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