神話とは、「私論」で言えば、史実に基づいて構成された「物語」であると思う。
日本神話は、「古事記」「日本書紀」「各地に伝わる風土記」によるものだと思う。
他の国の神話と比べれば、日本神話は、史実織り交ぜながら、よく構成されていると思う。
ただ、通り一辺倒に傾倒するとわからなくなるだろう。
あくまで、神道で主だった神々は、
元は「人間」である。
もともと、古代の日本には、形のない「精霊信仰」があり、
国が成立し始め、大きな国になっていく過程で、「首長霊信仰」が整っていった。
神が、最初から人間や他の生物と異なる「神」だったわけではない。
れっきとした、実在の人物である。この国の基盤を作られた方々が、今「神々」として祀られているのである。
ただ、記紀神話に出てくる神々の系譜には、「複数の歴史的事象が」合わさってできたような神話もあると言う。
たとえば、スサノオノミコト。
「泣きじゃくる姿」、「荒ぶる神」、「英雄の神」、はたまた「優しい好々爺の姿」と、多面性に富むが、それらは、複数の神話が構成されていると指摘する人もいる。すなわち、複数のスサノオノミコトが歴史上いたことになる。
一番最初頃記述した、テレビで「スサノオノミコトのルーツを探る」番組・・・「古代朝鮮と古代出雲の歴史に詳しい韓国の大学教授」が、「3世紀の古代出雲に、スサオと言うシャーマンの男王がいて、この方がおそらくスサノオノミコトではないかと思います。ただ、個人名ではなく、古代出雲では、男王でシャーマンのことを、スサオと呼んだのです」と話していた、その「スサオ」=「古代出雲の男王でシャーマン」が、スサノオノミコトのモデルならば、複数のスサノオノミコトがおられても不思議ではない。
複数おられても、お一人であっても、大切なのは、神を神として、お祀りする、われわれの「心」であると思う。
神々が、神として祀られてから長い時が経ち、仏教、特に密教寺院でも「仏像」として祀られる、いわゆる神仏習合の長い時の間で・・・神々は、もとよりひじょうに強力な神々へと昇華されたのだと、「私論」では思う。
実際、あちこちの社寺巡りをした中で、「雷 (いかづち) 」も「風」も「雨」も自在に操れる神通力をお持ちである印象が強い。われわれ参拝者、信者の「頭の中身」など、すべてお見通しである印象も強い。
だからこそ、この国の礎を築き上げた、「古代の神々」を、尊敬・感謝の念で祀らなければならない。
私が何度も書いた「物見遊山で」は、神仏どちらも、嫌われると思う。
神々の神使 (しんし) は、鳥獣や昆虫ばかりなのは、彼らは弱肉強食の世界の生き物であるが、神仏に対して、また、「生きる」と言うことに対して「純粋」であるからに他ならない。
今の日本では、様々な事象により失った信仰心が、真逆の方向へと向いている。
昔、ある名刹寺院の管長から、「インドの神=天部も、日本の神さんも、人間界の一個上やから、好き嫌いあるぞー」と習った。
私論では、日本の神々は、「純粋無垢な心が好き」で、「傲慢」「驕慢」「物見遊山」「ふざけ半分」「面白半分」的なのが・・・「嫌い」な感じがする。
またまた私論であるが、
「神仏は今でも習合しておられる」。
「宮司・社家・神職」と、「住職・寺族・僧侶」が、別れ別れになった「だけ」である。
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