タツノヒノエ

神仏への道-神社仏閣巡りから、古代の神々との出会い

石鎚山真言宗総本山「極楽寺」・・・

2022-02-19 16:45:31 | 神社仏閣 神仏 御神霊 ウカノミタマ女神 ニギハヤヒノミコト 

118社寺目です。

愛媛県の、石鎚山真言宗総本山「極楽寺」。

www.mandala88.jp/gokurakuji

日付書いてないですが、平成9年だと思います。

ウィキより、伽藍画像もウィキより、

Isidutisanɡokurakuzi0ɨ.jpg蔵王殿金剛閣大師堂

極楽寺(ごくらくじ)は、愛媛県西条市大保木にある石鎚山真言宗総本山の寺院。山号は九品山(くぼんざん)。本尊は阿弥陀三尊・石鎚蔵王大権現石鎚山信仰の根本道場であり、約1300年前から山岳宗教の一大修験道場でもある。

納経印:四国八十八箇所番外(南無石鎚大権現)、四国36不動霊場(波切不動)、新四国曼荼羅霊場(弥陀三尊)、石鎚山法起坊(石鎚法起坊 天狗堂)、四国(東予)七福神・福禄寿」

石鎚神社から、車で20分くらいですかね。

今は道路近くに駐車場があり、道路挟んで信徒会館と「蔵王殿」があります。

蔵王殿から本坊へは、ものすごく急な石段を、結構上っていくとたどり着けた・・・と、記憶しています。

蔵王殿では、護摩祈祷を修していただきました。

クライマックスで、石鎚金剛蔵王大権現像の「おミス」が、「するするするするするする」と上がっていき、石鎚金剛蔵王大権現像が拝めました。

今はどうかは知りませんが、

付近は、あまり集落も無く、風光明媚なところでした。

石鎚山の鎖禅定は有名で、「毎年死人が出る」と聞いたことがあったため、当時の院代さんに聞いたところ、「いや、死んだ言う話は、わしら地元では聞かんなあ。岩がゴツゴツしとるから、たとえ落ちても、どこかに引っかかる。足の骨折とかはあるけど、死んだりはせんぞぉ。ただ、上っていくには結構テクニックがいるんや」と、話していました。

ただ、修験の霊場ですので、「物見遊山」での鎖禅定登拝は、やめた方がいいです。

実際、石鎚山全体、霊気に満ちています。

石鎚山の登山は、独特の挨拶があります。

「登山者に出会った場合、相手が下りなら「おくだりさん」、相手が上りなら「おのぼりさん」という独特の挨拶があります」

慣れないと「こんにちは」と言ってしまいます。

野蛮な私の一面の話ですが、

極楽寺には何度か行ったことがあり、帰りに山道を車で下っているとき、狭い道で大型観光バスと出会いました。私が下りですが、大型バスは下がれないため、私が譲って、「くねくね道の」上りをバックしました。

ただ、バスの運ちゃんが「どチンピラ」みたいな風貌で、目の前を「ぐいぐい」押してきます。「プシュー プシュー」と排気音を出しながら。

こっちは、「上りのくねくね道」を、バックで下がっているため、たださえ神経使うのに・・・いつまでも「ぐいぐい」押してきます。無遠慮に。

若かった私はブチ切れ、一旦停車して、「どチンピラ」みたいな運ちゃんに怒鳴りつけました。

運ちゃんの顔は、困惑でいっぱいになった顔でした。

やっとのことで、広い道に出て、バスはすれ違いざまにクラクションを軽く鳴らして挨拶しましたが、私の怒りはおさまりませんでした。(相手が譲ってくれる時は、相手が安全な場所に下がるまで待ちましょう)

余談でした。

www.mandala88.jp/gokurakuji

ではまた。

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石鎚神社・・・

2022-02-19 16:14:41 | 神社仏閣 神仏 御神霊 ウカノミタマ女神 ニギハヤヒノミコト 

117社寺目です。

愛媛県「石鎚神社」。

四国には、最低3つの信仰形態が存在しています。

「四国遍路 (弘法大師信仰)  四国全県」「金刀比羅宮 (こんぴらさん。大物主大神) 香川県 」「石鎚山信仰 愛媛県」。石鎚山信仰は、主に「石鎚神社」「前神寺」「極楽寺」「横峰寺」ほか。

平成9年12月7日御朱印いただいております。

ウィキより、伽藍画像もウィキより、

Isidutizinzya honsya.jpg

石鎚神社(いしづちじんじゃ)は、愛媛県西条市にある神社西日本最高峰石鎚山神体山とする神社で、山麓に鎮座する本社(口之宮)、山腹の成就社(中宮)と土小屋遙拝殿、山頂の頂上社の4社の総称である。旧社格県社で、現在は神社本庁別表神社。石鎚山総本宮と称し、宗教法人石鎚本教の総本宮でもある。神紋は丸に石の字。

祭神 石鎚毘古命(いしづちひこのみこと・古事記では石土毘古、石鎚大神とも称する)

石鎚山は古くから日本七霊山の一つとして名高く、日本霊異記には「石鎚山の名は石槌の神が坐すによる」とある。 伝説で紀元前63年のこと崇神天皇第35年石鎚の峯に神を勧請す(長寛勘文による)とある[2]。また、685年に役小角(神変大菩薩)が開山、引き続き、寂仙法師(上仙とも呼ばれていて石仙の弟子)が開山したと伝えられる。その後、空海自作の『三教指帰』に「或ときには石峯に跨りて」と記されていることから空海も修行したことは異論のないところである。さらに伊予国風早郡の出身の光定といった高僧たちも修行した。以来、石鈇山蔵王権現と称され、神仏習合・修験の道場として繁栄した。

明治に入って、1869年(明治2年)に神仏分離につき取調が始まり、翌年には石鈇権現号が廃止され、奉斎像の取り調べが命ぜられたため、石鈇山蔵王権現を仏体として届け出た。その結果、神祇官により「石鈇山蔵王権現改称、石鉄神社ト相称シ然ルベク、在来権現ノ像ハ、別二祭祀二及バザル事ト存候」との裁定が下った。さらに翌年の1871年(明治4年)4月5日に石鉄神社(祭神石土毘古命)となり、同年7月4日には県社に列格された。それでも、時の住職は石鈇山頂上鎮座の姿に模して権現像を山上に奉斎し民心を得ようとしたり裁判を起こすなどして抵抗するが、その際中、1872年(明治5年)2月に本殿と庫裡は焼失し、寺方は無住寺になっていた塔頭の医王院(現在の前神寺の場所)へ転出する。また、同年東照宮は西条市大町に西條東照宮として移転した[3]。そして、前神寺の境内は当社となり、現在の祖霊殿を本殿とし、石鈇山常住社は当社の成就社となり、横峰寺は西の遙拝所横峰社とされた。その後、1875年(明治8年)前神寺横峰寺に廃寺通告が来る。社名は1902年(明治35年)3月8日に石鉄神社から石鎚神社に変更が決定される。しかし、発足当初の当社は神社としての態勢が不十分で、神仏分離の混乱のため信者が減少し、長らく不振の時代が続いたが、1912年(明治45年)第10代社司に就いた越智勝丸により各地に崇敬講を組織し、財政の再建や社殿の修復・新築に尽力し現在の当社の基礎を築き発展していった。なお、前神寺と横峰寺はその後復興されている。」

神仏習合の歴史を色濃く残すため、神社にしては珍しく、頂上社に御神像が三体お祀りされている。

確か、「智」「仁」「勇」の三体の御神像だったと記憶しています。

本社は、本殿より下の方が、強い気・・・神気と言うより「神仏の気」が感じられます。摂社の「厳島社」が、優しい「神気」を感じました。

ishizuchisan.jp

ではまた。

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「神か、鬼神か、悪魔か」 バッディヤ長者・・・

2022-02-19 16:11:05 | 神社仏閣 神仏 御神霊 ウカノミタマ女神 ニギハヤヒノミコト 

現代語佛教聖典 (釈尊篇) 日本仏教文化協会より

お釈迦様ご在世時のインド。

王舎城に、バッディヤと言う長者 (金持) がいた。しかし、吝嗇 (りんしょく。ケチ) であった。

あるとき、長者が自室で密かに餅を食べていると、突然アヌルッダ尊者が現われ、托鉢の鉢を差し伸べ施与を求めた。

長者は仕方なく、僅かな餅を与え、門番を呼んで厳しく叱った。

ところが、門番は「門は固く閉ざされており、彼らが入るはずがない」と答えた。

次に、煮魚を食べていると、いきなり、今度は大カッサパ尊者が戸口に立った。

長者は渋々小魚を分与し、重ねて門番を呼んで叱った。

が、答えは以前と同じであった。

長者は腹を立て、「彼らは幻術を使う」と罵った。

長者の妻は、チッタ長者 (前述した、チッタ居士と維摩居士のチッタ居士) の妹であったが、夫に「そのような悪口してはよくありません。先に来られたのは、カピラ城のスッドーダナ王の子アヌルッダですし、後に見えられたのは、王舎城外の大富豪カッサパ家の息子、大カッサパです。お二人がこの家に来られたことは、光栄ではありませんか」

話の最中に、モッガラーナ尊者が来て、空中に坐した。長者は驚いて、「神か、鬼神か、悪魔か」と、たずねた。

モッガラーナ尊者は、「ブッダの弟子、モッガラーナである」と答えた。

長者は、「布施を求められても断ろう」と考えた。

モッガラーナ尊者は、「長者よ、恐れるにおよばぬ。施与には二つある。それは、法施と財施であるが、如来 (お釈迦様) は、法施として五つの大施を説かれている。

即ち、「生き物を殺さない。他人の物を盗まない。他人の婦女を犯さない。噓いつわりを言わない。酒を飲まない。この五つである。長者よ、この五つの戒を生涯守るならば、これまた大きな布施である」

長者は、法施が何物も要しないことを知って、仏教とはこんなものかと感じ、あらためてモッガラーナ尊者を招いて、初めて自ら施した。

食事の後、一反の布を供養するため倉庫に入ったが、あれは惜しい、これはもったいないと、取捨選択に迷っていると、声がした。

「施さんとて、心と闘うは、賢者のなさざるところなり。施与は闘うにあらざれば、心のままになすこそよけれ」

長者は、自分の心中を見抜かれたことを知り、急いでそこにあった白氈 (しろもうせん) を取って、モッガラーナ尊者に献じた。モッガラーナ尊者は法 (真理) を説いて、心の眼を開かせた。長者は、生まれ変わったように喜び、五戒を守って、生涯信者たることを誓った。

(昭和33年8月10日 第一版発行)

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愚者と賢者 法句抄14

2022-02-19 10:36:13 | 神社仏閣 神仏 御神霊 ウカノミタマ女神 ニギハヤヒノミコト 

現代語佛教聖典 (釈尊篇) 日本仏教文化協会より

ブッダ 「愚をさとった愚者は、それだけ賢い。自らの愚を知らない愚者こそ、真の愚者である。行い悪しく、心を修めずして、百年生きるよりも、戒律をたもち、心を修めて、一日生きる方がよい。

自己を愛する者は、自己を守るべきである。青年時、壮年時、老年時のいつか一度は、目覚めるのが賢者である。

悪をなせば自ら汚れ、なさざれば自ら浄まる。浄不浄は自己による。他から清められるものではない。小楽を捨てれば、大楽を得るであろう。智者は、大楽を見て、小楽を捨つべきである」

(昭和33年8月10日 第一版発行)

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