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夏目漱石を読むという虚栄 4420

2021-08-20 10:12:14 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4400 『二百十日』など

4420 脳内会議

4421 デーモンたち

 

 自問自答が成果を挙げないのは、理性的で公正なMを招聘できないからだ。

 

<或声 お前はそれでも夏目(なつめ)先生の弟子(でし)か? 

僕 僕は勿論夏目先生の弟子(でし)だ。お前は文(ぶん)墨(ぼく)に親しんだ漱石(そうせき)先生を知っているかも知(ママ)れない。しかしあの気違いじみた天才の夏目先生を知らないだろう。

或声 お前には思想と云うものはない。偶々(たまたま)あるのは矛盾(むじゅん)だらけの思想だ。

僕 それは僕の進歩する証拠だ。阿呆(あほう)はいつまでも太陽は盥(たらい)よりも小さいと思っている。

或声 お前の傲慢(がうまん)はお前を殺すぞ。

(芥川龍之介『闇中問答』一)>

 

言うまでもなく、「矛盾だらけの思想」は「思想」のうちに入らない。

芥川のDは複数いた。この「或声」の持ち主は「天使」だ。次にやってくるのは「悪魔」で、最後に「僕等を支配するDaimôn」(『闇中問答』三)がやってくる。三者ともDだ。

デーモンは、「いつかまたお前に会いに来るから」と言い残して去る。

 

<僕 (一人(ひとり)になる。)芥川龍之(あくたがわりゅうの)介(すけ)! 芥川龍之介、お前の根をしっかりとおろせ。

(芥川龍之介『闇中問答』三)>

 

「僕」のDは、またやって来た。ところが、「僕」はそのことに気づかない。「僕」がDに乗っ取られてしまったからだ。自分を「お前」と呼んでいるのは、そのせいだ。

 

<モジュール理論を自己欺瞞に当てはめると、私たちの精神的な生活は、専門別のいくつものチームが運営していて、このチームを構成しているのは「デーモン」(オリヴァー・セルフリッジが用いた魅力的な名称を使うことにする)(注37)である。従来の考え方、つまり意識されている心がすべてを管理し、情報処理システムのヒエラルキーの頂点から末端の下働きに命令を下している、という思い込みは捨てる必要がある。それよりもタフツ大学の哲学者ダニエル・C・デネットが説く心の捉え方のほうが求めるものに近い。デネットによると、私たちの心にはさまざまな現実が同時に存在し、それぞれが支配権を握ろうと、もみくちゃになって争っている。「心(メ)の(ン)中(タ)に(ル・)ある(コン)もの(テンツ)は、その争いでほかのものに勝ち、行動を支配する力を持ったとき初めて意識される」というのだ(注38)。

心という広大な部屋いっぱいに忙しく働く人がひしめいているようすを思い描いてみよう。

(デイヴィッド・リヴィングストン・スミス『うそつきの進化論 無意識にだまそうとする心』)>

 

「モジュール」は「脳内会議」(ETV『ベーシック国語』2016)みたいものだろう。

 

 

 

 

 

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4400 『二百十日』など

4420 脳内会議

4422 「迷信の塊」

 

何四天王の小説や慢語三兄弟の評論などを面白がる人は、会話の基本を身に着けていない「淋(さび)しい人間」だろう。主に男たちだが、女子会から弾かれた紅一点、聖母で魔女のマドンナも混じる。紅が二点でも三点でも、事情は変わらない。

 

<私は突然死んだ父や母が、鈍い私の眼を洗って、急に世の中が判然(はっきり)見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世に居なくなった後でも、居た時と同じように私を愛してくれるものと、何処(どこ)か心の奥で信じていたのです。尤(もっと)もその頃でも私は決して理に暗い質(たち)ではありませんでした。然し先祖から譲られた迷信の塊も、強い力で私の血の中に潜んでいたのです。今でも潜んでいるでしょう。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」七)>

 

「その頃」が年齢のことなら、おかしい。「質(たち)」と「頃」は無関係だろう。〈「理に暗い質(たち)」の人がまだ多かった「その頃」〉のつもりか。ただし、「理に暗い」は意味不明。

「先祖から譲られた」は不可解。〈「父や母」「から譲られた」〉のではないらしい。「迷信」は怪しい。自分が信じていることを「迷信」とは、普通、言わない。自嘲か。「塊」は意味不明。たとえば、〈欲の塊〉は強欲な人のことだ。〈好奇心の塊〉は好奇心の強い人のことだ。だから、「迷信の塊」は、普通、〈迷信家〉といった意味になる。ホムンクルスのようなか。

〈「強い力で」~「潜んで」〉は意味不明。「血」が「質(たち)」の比喩だとすれば、矛盾めいている。「血の中に潜んで」は意味不明。血栓か。「潜んで」というのなら、「迷信の塊」は動物か。これはだろう。「迷信の塊」としてのDは、〈Sの両親は、存命中にSを愛さなくても、死後にはSを愛する〉といった、ありそうにない物語を語ったのだろう。ありそうにない物語だから、Sは「迷信」と呼び、「塊」にして正体不明にしてしまったようだ。少年Sは、理想の両親の霊魂などと出会うために、現実の両親の他界を願っていたのに違いない。「潜んでいるでしょう」という推量の根拠は不明。あるいは、〈「今」から後「も潜んでいる」こと「でしょう」〉などの不当な略だろう。〈父母の霊魂はSを守護する〉という物語の枠組みはあるが、その中身はまったくない。中身のない物語を語るSの魂胆は、かなり怪しい。

 

<知識人のハムレットは亡霊の素性を疑い、王の本心を探るため国王殺しの芝居を見せるが、王は顔色を変えて立ち上がる。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「ハムレット」小津次郎)>

 

「王」のこの反応が「亡霊」の告げた「国王殺し」の情報の正しさを証明するとは限るまい。だが、ハムレットは一応探ってみたのだ。

一方、Sは「亡霊の素性」を疑わない。彼の考えでは、「亡霊」そのものが実在しないからだ。ところが、「亡霊」の働きは疑わない。Sは、守護霊の物語を「迷信の塊」として封印しつつ温存しているので、近代主義的な〈もう一人の自分〉といった概念に思いが及ばない。亡霊との問答も、自問自答もできない。ほとんど何も考えていない。

 

 

 

 

 

4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで

4400 『二百十日』など

4420 脳内会議

4423 『ホームレス中学生』

 

都合のいいDが出現したら、奇跡のようなものだ。Nの小説の語り手は〈奇跡が起きないのは変だ〉といった構えでいる。〈鬼退治に出かけた少年が桃太郎のような英雄でないのは変だ〉みたいな構えだ。

 

<パン売り場の前に行き、よだれを垂らした。体力の限界がきてパン売り場の前にしゃがみ込んだとき、店の人から死角になっていた。

こんなに腹が減っているのだから一個ぐらい盗ったってバチは当たらないだろうと、いけない考えが浮かんできた。かなり葛藤(かっとう)した。

お兄ちゃんの働く店だからという考えは一切浮かばず、ただ罪を犯すか犯さないかで迷っていた。腹の虫と理性が戦っていた。

そのとき、お母さんの顔が浮かんだ。

もしお母さんが見ていて、そんなことをしようとしていると知ったら、どんな顔をするだろうか。

それを考えると、とても盗む気にはなれなかった。

腹の虫が負けた。

(田村裕『ホームレス中学生』「空腹の果てに……」)>

 

ここには数々のDが登場する。

「店の人」「お兄ちゃん」「腹の虫」「理性」「お母さん」だ。「店の人」は冷たい世間の一例であり、まだ被害者にはなっていない。「腹の虫」は悪魔だ。司会をすべき「理性」が「戦って」も、「こんなに腹が減っているのだから一個ぐらい盗ったってバチは当たらないだろう」という考えには理がある。盗人にも三分の理。この理を無視すれば、「理性」は神のようになる。この神は「店の人」と区別できない冷酷な神だ。「渇しても盗泉の水は飲まず」という。冷酷な神と切実な悪魔の戦いは尽きない。そこへ死んだ「お母さん」が天使になって舞い降りた。すると、「理性」が素直に働いた。「理性」は天使に軍配を上げる。このとき、〈「理性」が天使を召喚した〉とも言えるし、〈天使が「理性」に仕事をさせた〉とも言える。

少年田村がこのように分析的に考えていたわけではない。語り手田村が反省した結果、Dたちがある程度の輪郭を獲得したのだ。彼が食欲について丁寧に語ったから、「理性」が登場できた。彼が丁寧に語れたのは、少年田村が母親とうまく話しあえていたからだろう。

 

<最後の晩餐(ばんさん)というものがあって、死ぬ前に何でも好きなものを食べさせてやるから三品自由に選べと食の神様に問われたら、一品は迷うかもしれないけれど、二品は即答する。

お母さんのカレーと湯豆腐。

(田村裕『ホームレス中学生』「空腹の果てに……」)>

 

Nの場合、こうした「お母さん」のようなDは出現しなかった。いや、出現しないのではく、存在しなかったのだろう。

(4420終)


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