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逃げることさえ許されなかった――ハンセン病患者の沖縄戦 吉川由紀・沖縄国際大学非常勤講師
一部引用
敗戦から70年を経た今日、沖縄戦のみならず戦争体験の継承は体験者の減少
とともに難しい局面を迎えつつあります。
私たち非体験世代は、体験がないからこそ、体験者が遺して下さる言葉や資料を頼りに、
それぞれの視点で戦争の教訓を見出し、今日化し、何をどのように継承するのか模索し続ける必要があります。
今回ご紹介する「ハンセン病患者の沖縄戦」は、沖縄戦記録の中でもあまり知られていません。
しかし、圧倒的少数者であったハンセン病患者の沖縄戦を辿るとき、戦時体制が弱者の上
にどのように構築され、どのように切り捨てられ殺されていくのか、凝縮された戦場の実態
を見ることになります。また、ハンセン病をめぐる差別や偏見の歴史から、市民の加害責任を問われることにもなります。
戦争を単純化せず、戦争への想像力をはぐくむためにも、個別具体的な被害や加害の
事象を地道に積み上げていかねばなりません。ハンセン病患者たちの沖縄戦被害を知ることは、その一助となるはずです。
ハンセン病を生き、沖縄戦を生き抜いた体験者の証言に、耳を傾けてください。
ハンセン病は「国辱病」
「隣近所から、『お前は国のために兵隊もできなかった。役立たずだ』
と言って笑われて、とても苦しかったよ」
(『沖縄県ハンセン病証言集 沖縄愛楽園編』2007年 銘刈**さん(男性)証言)
ハンセン病は、らい菌によって末梢神経と皮膚が侵される病気で、戦前はらい病と呼ばれていました。
らい菌は病原性がきわめて弱いために、感染しても抵抗力があれば菌との共生状態が続き、発症しません。
何らかの原因で発症すると運動麻痺や知覚麻痺を起こし、特効薬のない時代は患者の身体に重い障害をもたらすことがありました。
日本はハンセン病患者の存在を国の恥ととらえ、患者を隔離する方針をとりました。
1907年の法律「らい予防に関する件」に始まり、1931年にはそれを「癩予防法」と改めて、
全ての患者を死ぬまで療養所に閉じ込める政策を推進したのです。
1938年に設置された厚生省(現在の厚生労働省)は、戦争遂行のために「健民健兵」政策を実施し、
強い兵隊の確保に力を入れる一方で、ハンセン病と近視と花柳病(性感染症)を「三大国辱病」とし、
これを「撲滅」するために多額の予算をつけ積極的に活動しました。
「昭和19年、あのときは兵隊さんが激しくなってね、友軍の兵隊が『兵隊のおるところに病者は置けない』と言った。
『愛楽園まで行きなさい。急ぎなさい』されてね。怖かったよ、日本の兵隊よ。兵隊の靴の音聞いたらね、すぐ隠れた」
(前掲書、渡口忠榮さん(男性)証言)
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戦争とハンセン病 (歴史文化ライブラリー)
弱い発症力にもかかわらず生涯隔離されたハンセン病患者たち。
戦地で発症した兵士の処遇、植民地療養所など、隔離政策と戦争の関係を解明。
日本の戦争責任とハンセン病患者への人権侵害にひそむ、差別の構造を追及する。
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特別企画 戦争と障害者 「オリオンの哀しみ」戦時下のハンセン病療養所
*実家の近くにハンセン病の国立療養所
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があり小学生の頃、よく出入りしてました。
この中の映画館で映画(無料)みてました。
重度の人から軽度の人まで、東北各地出身のハンセン病の方々が住んでいます。
軽度の人たちは、近隣の家庭の増改築等のボランティアを(実家にも手伝いに来ていただきました)
2016-08-30の再掲