感じるままに・・大人の独り言

日頃感じる事や、国内外の行く先々の美味しいグルメや観光スポットを独自の目線と本音で発信して行きたいです。

昭和の思い出⑦「近くて遠かった京都の思い出🌠」

2017-07-17 10:47:00 | 昭和の思い出
三連休の初日の一昨日は、主人と一緒に息子の一足早いお誕生日のお祝いと、私達の結婚記念のお祝いを兼ねて一泊二日のお泊まりに京都に行って来た(^^)d

今回も息子のリクエストでホテルビュッフェを楽しんだ後、私と主人だけ坂本龍馬縁の町、伏見にお出掛け👍
残念ながら到着したのが夕方だったので、十石船も酒蔵見学も間に合わなかったけど、ショップでビールやお酒を楽しんだりして伏見の街を堪能🎵

今回は主人もお泊まりだったので、車ではなくJRで京都にやって来た私達(*^。^*)
帰りの電車が忍者電車になっていて、ワクワクしてしまった💕


小さな男の子じゃあなくてもときめいてしまうよね(*^。^*)


息子が京都の大学に進学したお陰で、こう言う形で京都を楽しめるなんてホント夢にも思っていなかったf(^^;

私の中では近くて遠い街だった京都。初めて京都の街を観光したのは小学校の修学旅行の時だったと思うけど、その直後の6年生の夏休みにも、二泊三日か三泊四日で東京の二歳上の従姉妹と一緒に当時京都に住んでいた伯母の所にお泊まりに来た事がある。

この伯母は私と従姉妹の母親達の妹で、生涯独身で破天荒な人生を送っている母方の姉妹の中でも変わり種の人物なのであるf(^^;

どう言う経緯かは分からないが、その当時この伯母はクリスチャンで、カトリックの教会のシスターとして神様にお仕えしており、同時に京都にあるカトリック系の幼稚園から大学まである学園の幼稚園の先生もしていたのだ。

そう言う訳で、京都に住んでいた伯母より私達二人は呼び寄せられ、三日間程この伯母の元で過酷な京都観光の為の合宿をさせられる羽目となった(*_*;
JR忍者電車の中の様子↓


私達が寝泊まりしていたのは、その当時伯母が住んでいた大学の寄宿舎だったのだけど、クリスチャンの大学だけあり、西洋風の綺麗な建物だったのは記憶にあるが、京都のどの辺だったのかは全く覚えていない(*_*;

伯母はハッキリとした男勝りの性格なので、私達二人にも当然厳しく、京都で過ごした数日間は楽しい観光なんて言うのとは程遠く、本当に過酷な神社仏閣巡りだったと言う記憶しかないのだ、、(((^^;)

1日にバスや電車を乗り継いで10箇所以上見て回る様な、とにかくタイトなスケジュールだったので、今となっては拝観した神社仏閣の名前すらも覚えてない私、、(^o^;)

当時小学校6年の私は神社仏閣なんて全く興味もなかったし、せっかくの夏休みに何でこんな目に遇わないといけないのォなんて、観光と言うより修行に来ている感じだった💨

唯一覚えているのが、嵐山と比叡山に行ったかなと言う記憶だけf(^^;
何故って、どちらも記憶に残るくらいヒドイ目に遇ったからだ(^o^;)


嵐山では3人でボートに乗ったのだけど、慣れない従姉妹がオールを漕いだ為、オールの水をまともに被った私は全身水浸しになってしまったのだ😅
夏だったので、直ぐに乾いて風邪を引くこともなく済んだが、その記憶だけは今でも鮮明に覚えているf(^^;

比叡山の記憶の方は、交通のアクセスが悪くてバスに乗り遅れたのか、待ってる時間を無駄にしたくない伯母にスゴい坂道を延々と歩かされた記憶である(((^^;)
先頭を切って歩く伯母の後ろ姿を追いかけながら、私と従姉妹はこの時ばかりは半泣き状態で聞こえない様にブツブツ文句を言いながら重い足を引きずって歩いていたのを覚えている、、

15日の日に、伏見から乗った電車の中から京都市内の景色を見ていたら、この時の記憶が突然甦って来て懐かしくなってしまった。

あの時の私は心身ともに疲れきった状態で電車に乗って、電車から見える京都の街並みをボーッと見ていたものだ。
そしてもう一つ、鴨川を挟んだ向こう側のネオン街が綺麗だなぁと思いながら電車を待っていた記憶も同時に甦って来た。
写真は河原町の祇園際の様子↓


伯母は伯母で私達の為を思って計画し、折角なら出来るだけ多くの神社仏閣を私達に見せてあげたかったのだろうと思うf(^^;

スパルタ式の修行の様な観光だったからか、私の記憶の中には悲しいかな、シスター姿の伯母の後ろ姿だけが強烈に刻まれてしまっているが、それも伯母なりの愛の形だったのだと、今となっては伯母に感謝している😅

余談だけど、私が一時キリスト教にハマったのは、この伯母の影響も大いにあると思う(((^^;)

ただ一つ言えるのは、詰め込み式よりはゆとりがある方が記憶には残ったんじゃあないかな、、と。
余りにも色んな神社仏閣を見て回った為、拝観した神社仏閣の記憶が殆んど残っていないのだけが、不甲斐なく残念で仕方ない、、

あれから何十年が経ってしまったが、近くて遠かった京都にこうやって又ご縁が持てたのが何より有り難い🎵
息子が在学している間に、あの過酷な数日間に回った神社仏閣を越える数の神社仏閣巡りをし、しっかり記憶に留めたいと思っている(*^。^*)

昭和の思い出⑥「東大文一にストレートで合格した秀才K君との思い出」

2017-03-04 00:13:00 | 昭和の思い出
一昨日、明石家さんまと現役東大生が出ている「さんまの東大方程式」を観ていて、東大生って本当にスゴいって改めて思ってしまったf(^_^;
彼らの脳ミソは一体どんな構造をしていているのだろうか、、まるで最新式のスーパーコンピューターが内蔵されているかの様だ(^^;

それと同時に、ヤッパリ東大生はちょっと変わっているとも思いながら、高校の時の同級生、K君の事を思い出してしまった(^_^;)
(息子から送られて来た、インド洋の写真↓)


自慢じゃあないが、私は中学までは勉強大好きで成績も優秀の生徒だった(^o^;
なので、私の出た高校は当時県下でも有数の進学校だった。今は無くなっているが、県内で3つの地域に1つずつ存在した学校群の1つで、第3群と呼ばれた2つの高校の内の1つに在籍していたのだ。ややこしいけど、、f(^_^;

受験する際は第3群として受けるのだが、合格者は上から順番に2つの高校に振り分けられていって、両校の偏差値が均一になる様にすると言う訳なのだ。

だから、2つの内のどちらの高校になるのかは、蓋を開けてみないと分からないから、必ずしも希望の高校に行けるとは限らない、、

かく言う私も、希望校とは違う高校に行く結果になってしまった内の一人である(/_;)/~~

今は学校群制も廃止されて、其々が独立した高校となっている為、私の出身校はもう1つの高校に偏差値も進学率も大きく差をつけられてしまっていて、悲しい、、(;_;)


K君はウチの母のお友達の息子で、超秀才だった。
成績は常に学年だけじゃなく、県下でもトップクラスで、特に英語が飛び抜けてよく出来た( ^ ^)r゛゛

高校に入学して直ぐの実力テストで、余り勉強しなかった割には良い成績をとった私は、「勉強しなくても出来るじゃん🎵」ナァんて調子に乗って、ちょっとイイ気になって油断して勉強をサボった挙げ句、あれよあれよとあっと言う間に落ちこぼれてしまった、、( ̄▽ ̄;)

なので、そんな落ちこぼれの私は母からいつも、「K君は本当に良く出来るらしいわね、でもK君がまだ男の子で良かったわ」と、比べられては嫌な思いをしたものだ(-""-;)

当時、ウチの高校は1学年が10クラスもあって、その内の2クラスが男子グラスだった。

私と彼は御縁が深かった様で、3年間に2回も同じクラスになってしまった(^_^;)

母親同士のよしみもあり、私の顔を見る度、「オマエさぁ、もっとまじめに勉強しろよ~」とか、「もっと真面目に進路考えろよ~」などと説教されるので、正直私は彼の事がうっとうしかった、、(-_-;)


そんなある日、休み時間に彼が英語の辞書を見ているので、「何を調べてるの?」と聞くと、「単語を全部覚えてる」との返事が返って来た。
「ス、スゴイ、、と言うか、何考えてるんだろ」と、私は呆れ返ってしまい、開いた口が塞がらなかった事がある( ̄▽ ̄;)
「さんまの東大方程式」でも、確か同じ事をした東大生が出ていて、その子は途中で止めてしまった様だけど、私の記憶ではK君は辞書全部を暗記した筈だ(;゜∇゜)

そんな彼だったから、全国模試の結果が出る度に、みんなが彼の結果を見に行って大きなどよめきが上がったものだ。
だって、英語の偏差値なんて98なのだ(ノ`△´)ノ
点数じゃなくて、偏差値が、だ💨

成績の順位なんて、いつも教科別や総合でも県下で1,2番、全国でもトップ10入りしているくらいの強者だった。

卒業間近のある授業中に、私は誰かの視線を感じ、振り向くとK君と目が合った。「なぁに?何かついてる?」と、聞くと彼はニヤッと笑って、「勝気そうな横顔だなっと思って(-.-)」なんて言うのだ、、( ̄▽ ̄;)

その時の私は、頭だけじゃなく顔の事まで言われてしまったと悔しくて、「余計なお世話よ!(*`Д´)ノ!!!」と言って、しばらく口も聞いてやらなかった(苦笑)


2年の頃から3年生に混じって大学模試を受けていた彼は、結局東大文一(法学部)にストレートで合格👍

風の噂で、大学在学中は家庭教師のアルバイトで月に何十万も稼いではブランド物ばかり身に付けていたとか、就職は今の文科省に入省したものの現在は国際弁護士に転向し、グローバルに活躍していると聞いている。

高校時代、とにかく彼はずば抜けて成績が良かったが、グループでいつも遊んでいた他の子達も、何のかんの言っててもみんなちゃんと国公立大に受かってて、本当にサボってて私立の短大にしか行けなかったのは私だけだった、、( ̄▽ ̄;)

今更後悔しても仕方ないのだけど、もう少しちゃんと勉強して真面目に進路を考えれば良かったと、これまで何度思った事だろう(/´△`\)

K君の忠告に聞く耳を持たなかった私は、「後悔先に立たず」と言う言葉をずっと噛み締めながら、「K君、ヤッパリ君は正しかった、ちゃんと君の言う事を聞いておけば良かった」と認めざるを得ないのである、、(-""-;)
トホホ、、

昭和の思い出⑤「お蝶婦人」と呼ばれてた憧れの先輩🎵

2017-01-28 23:36:00 | 昭和の思い出
私の小・中学校の2年先輩に、英子先輩と言う美人で頭が良くて、独特のオーラを放っている女性がいた。

英子先輩は地元でも名士のオウチに産まれ、お祖父様はお医者様、お父様は会社を経営しているお嬢様で、おまけにお母様もお母様の妹に当たる伯母様もスゴい美人だったので、そのDNAを引き継いだ先輩も小さい頃より人目を引く美少女だった。


英子先輩は頭も良かったので、高校は地元の進学校に進んだのだけど、最寄りの駅から高校まで利用してた電車の中では、「エースを狙え」に登場する" お蝶婦人 "みたいだと言うことで、" お蝶婦人 "と言われてちょっとした有名人だった😉

小学生の頃より先輩に憧れていた私は、高校は違う高校だったけど、通学するのに同じ電車を利用していたので、とにかく先輩に近づきたくて、先輩の真似ばかりしていたものだ(^^;

私が高校1年の時に3年生だった英子先輩は、いつもロングの巻き毛に制服のセーラー服がとてもよく似合ってて、エレガントな出で立ちは遠くからでも光輝くオーラを放ってたので、どこにいても直ぐに分かるくらいだった(*^。^*)


世の中には、美人で頭が良い人は沢山いると思うけど、それに加えて上品で独特の雰囲気を持っている人に出会うのは本当に少ない(^^;

そんな低い確率の中、英子先輩は全てを兼ね備えていた上に、背も高くてスタイルも抜群だった👍

なので、英子先輩が近づいてくると明らかにその付近の空気が変わったし、英子先輩の周りには、少女漫画で描かれる様な薔薇の花が舞っているみたいな華やかなオーラが漂っていて、皆を魅了していた(*^ー^)ノ♪


私の在籍していた高校は、一応基本のブレザーとスカートがあったが、お勉強さえキチンとしていたら、中に着るブラウスやソックス、持ち物等は何でも良くて、周りの高校の様に服装チェック等もされる事もない自由な校風の高校だった。
なので、英子先輩に憧れていた私は英子先輩の様になりたくて、時々セーラー服も着て行ったり、近眼でもないのに銀縁の眼鏡まで買って貰って、すっかり先輩になりきっていたものだ、、(^o^;)

先輩は高校卒業後、関西のお嬢様大学に進学した後に、アメリカに渡って風水をベースにしたインテリアデザイナーになられたそうだ(^^)d

インターネットが普及した便利な世の中になったので、雑誌やテレビでも紹介されているくらい活躍されているのも観る事が出来て、未だに刺激を与えてくれる有難い存在なのである🎵

今は、あの頃のトレードマークだったロングの巻き毛はストレートにしてるみたいだけど、相変わらずエレガントさは失われてなくて、流石だなって感心してしまう(*^。^*)

昭和の2枚目俳優として人気があったと言う鶴田浩二さんの娘で、鶴田さやかさんと言う女優さんが以前テレビに出てた時に、英子先輩に似てるなぁと思って観てた。
英子先輩には女優さんに負けない" 華 "があるのだ(^^)d
鶴田さやかさんはこちら↓


いつかアメリカへ、英子先輩に会いに行けると良いなぁ…
小さい頃から英子先輩の背中を追いかけてた私だったけど、益々距離を離されてしまった気がするのは残念だけど、、(ToT)

先輩に会う夢が叶う時に、恥ずかしくない自分でいられる様にこれからも自分磨きしなきゃと、思う私なのだ( ̄▽ ̄;)

昭和の思い出④「予期せぬクリスマスプレゼント」

2016-12-20 22:26:00 | 昭和の思い出
私がまだ小学校低学年だったクリスマスのこの時期に、サンタさんから届けられるプレゼントにリカちゃん人形をお願いして、その日が来るのを毎日楽しみに過ごしていた年があった。


そして、25日の朝、目が覚めるとすぐに枕元に置かれてある包装紙の包みを発見(^o^)v
ワクワクしながら包みを開けてみると、中から出てきたのはリカちゃん人形ではなくレコード付きのモーツァルトとベートーベンの分厚い図鑑だった、、( ̄▽ ̄;)


期待外れの予期せぬプレゼントに私は暫くワケが分からず、図鑑を持ったまま呆然としていたのを覚えている。
そして、漸くサンタさんからのプレゼントが欲しかったリカちゃん人形ではなかった事実を受け入れた私は、大声で泣き続けたのだった゜゜(´O`)°゜
「私が欲しかったのはリカちゃん人形なのにィ~こんなオジサンの本なんて要らないヨォ〜o(T□T)o」と、、

暫し泣いた後に、ハタと「サンタさんはもしかしたら、プレゼントを間違えたに違いない❗」なんて思い付いた私( ̄∇ ̄*)ゞ

急いで二冊共包装紙に包み直して元の場所に置き、その日から毎晩祈る様な気持ちで眠りに着いた。「朝になったらこのオジサン達の本が回収されて、代わりにリカちゃん人形が置いてあります様に。。」と。


だけど、一週間経っても一向に事態は変わらず仕舞いで、、(T_T)

子供心にも、これ以上待ってもリカちゃん人形がやって来てくれる事はないと悟った私。
先日の" ササ先輩 "に負けず劣らず転んでもタダでは起きない私は、こうなったら開き直って図鑑に付いていたレコードを毎日聴いてやる事にした、、( ̄▽ ̄;)

今となっては私がクラシック好きになったのは、この苦い出来事もあったからかも知れないなとも思ってるf(^^;

大人になって母にこの時の事を聞いてみたら、クラシック好きの母にしたら、きっとこれ以上にない素敵なプレゼントだと思っていたらしく、「何でこの子はこんなに怒っているんだろう、リカちゃん人形だって沢山持ってるのに(--;)」と不思議に思ってたらしい(((^^;)

考えてみたら、全部カラーでレコード付きの分厚い図鑑は、当時でも結構高価だったと思う(^-^;
でも、私は新しいリカちゃん人形が欲しかったのだ、、。。(〃_ _)σ∥

親の心子知らず、そして、子供の心親知らずだ、、

今の時期になると、この時のサンタさんからの予期せぬプレゼントを思い出してほろ苦い気持ちになってしまう私。

だから、息子にはこの教訓を生かし、事前に欲しいクリスマスプレゼントを聞き出しておいて、落胆させないように願いを叶えてあげる様にして来たf(^^;

ヤッパ、クリスマスはハッピーであって欲しいから(^^ゞ

クリスマスまで、あと5日だ。
どうぞ世界中の子供達の所にサンタさんが願い通りのプレゼントを届けてくれます様に。。。












昭和の思い出③「ハチャメチャだけど憎めない先輩( ̄▽ ̄;)」

2016-12-18 19:00:00 | 昭和の思い出
私が社会人3年目の配置替え先で一緒になった同僚で、忘れられない先輩と後輩がいる。

後輩は、その年に入ったばかりの3歳年下の" コバ "と呼ばれてた、日本画の美人画家・松井冬子そっくりの超が付く程の美人で、彼女の事もいつか書こうとは思っているが、とにかくお互いに気が合った私達はいつも一緒に行動してた。松井冬子はこちら↓本当にこの写真なんてそっくりだ。


もう一人は、今日のヒロイン、" ササ先輩 "だ。
この人、私が未だかつて会ったことがない、これからもおそらく出会わないタイプの女性で、そんな人に出会った事自体が私の人生において貴重な体験❔と言えるだろう、、(((^^;)

記事にするにも憚れる様な、破天荒な性格と人生(と言っても、私はホンの数年しか知らないが、、)なので、今どんな風になってて、どんな風に生きているのかを考えるのも恐ろしいくらいだ😱

彼女はその当時では珍しい小顔で、松田聖子や中森明菜に似ていると評判の可愛いタイプの女の子だった。

でも、女子力の強かった先輩のお顔は念入りなメークの賜物で、オフの日にスッピンの先輩と会った時に識別出来なかった私に、「○○ゥ〜(私の名字)、ウフフ、私だよ、私、ササ👍」と可笑しそうに笑いながら話しかけて来た先輩は全くの別人だった😱
なので、私は、素顔とアフターメイクの顔がこれ程違う人にも出会った事がない( ̄▽ ̄;)

彼女は鼻にかかった甘ったるいハスキーな声と上目遣いで、少し首をかしげながら話すのが特徴で、小悪魔的な妖しい魅力もあったし、男性には人気があったと思う(^-^;
当時の先輩はこんな感じだった↓


ちょっとおバカな一面もあったけど、動物的な天性の勘の持ち主だった先輩は、仕事はそれなりにこなしていたので、そう言うところはスゴいといつも思ってたf(^^;

この人、全てが裏腹と言うかアンバランスと言うか、何処に本心があって何を考えて行動しているのかがサッパリ解らない掴み所のない人で、常に周りを振り回して引っ掻き回していた、、

そんな" ササ先輩 "に気に入られて?引っ張り回されていたのが、私とコバで、いつも仕事帰りに先輩のお供させられていたのである(((^^;)

彼女の何がスゴいって、先輩の名誉の為にも全部はとても書けないけど、上昇志向が人一倍強くて、恋愛に関しては特に奔放で、いわゆる" バイセクシャル "だったし、狙った獲物は逃がさない「女ハンター」そのもので、相手に彼女がいようが妻帯者であろうがそんな事はおかまいなしで、どんな手段を使っても落としてしまう強者だった😱
多分、落とすまでの過程を楽しむタイプだったのかもしれないが、狙われた相手としたらたまったもんじゃぁないと思う、、( ̄▽ ̄;)

一人っ子で寂しかったのもあると思うけど、夜な夜な飲みに誘われるので、仕事が終わるとそそくさと帰ろうとすると、「○○ゥ〜、今日も行くヨッ❕(* ̄∇ ̄*)」と言って、首根っこを捕まれ連れていかれちゃうのだ(-_-;)


その頃、一人暮らしをしていたマンションの隣の男性からストーカーみたく、部屋の前や地下鉄の入り口で待ち伏せされていた事もあり、あまり定時に帰りたくなかった私は結局先輩のお供をする羽目になっていた。

先輩は飲み代は奢ってくれるし、帰りのタクシーチケットも気前良くくれるのでありがたかったけど、その軍資金はどこから捻出していたのかは?だった( ̄▽ ̄;)

宝塚も大好きで、名古屋で講演があるとお気に入りの劇団員を何名か呼んでは飲み会を開いたり、私なんて宝塚市まで講演を観に泊まりがけでお供させられた事もあった。

飲むとハチャメチャに拍車をかけるので、危なっかしくて放っておくことも出来ない私達は、それからも仕方なくお供せざるを得なかった。

「ササ先輩は、一体何を目指しているんだろうねぇ、、」なんて、私達は呟いてたもんだ(--;)

マァ、どれだけ飲んだ次の日もちゃんとお仕事には出て来てたし、法に触れる事はしなかったので、私達も一緒にいられたのだとは思うけど、本当にハチャメチャでモラルと言う言葉なんて彼女の辞書にはなかったくらい劇的な人生を送っていたササ先輩( ̄▽ ̄;)


私が三重に帰って来てからは、会うこともなくなって音信不通となってしまったが、風の便りで聞いた話では、その後は益々破天荒な生活をしていたらしい。
暫くは、何故か先輩の事が心配で「大丈夫かなぁ」なんて思ってたが、直ぐに結婚して子育てに追われてたので、すっかり先輩の事は忘れたまま今まで来てしまった(^-^;

最近になって、昭和の思い出シリーズを書くようになって先輩の事を思い出すようになり、どうしているかなぁとは思っても、コンタクトは取ろうとは思えない私(^-^;

今、先輩と連絡が繋がったら、きっと又あの甘ったるいハスキーな声と名古屋弁で、「○○ゥ、子供も大学に行ってどうせ暇なんでしょ、出てこや〜(* ̄∇ ̄*)」なんて呼び出されるのに違いないから、、

ハチャメチャで破天荒で、散々振り回されたけど、何故か憎めなくてキライになれなかったササ先輩。今、平野ノラが先輩に出会ったら、きっと" オッタマゲー "と叫んだに違いない( ̄▽ ̄;)

今では良い思い出となってはいるけど、先輩が現在どうしているのか、どんな風に生きているのかは恐ろしくて考えたくない私なのだ、、😱😱

だけど、大丈夫_(^^;)ゞ
転んでもタダでは起きない先輩の事だから、何があってもきっと逞しく生きているだろう( ̄∇ ̄*)ゞ