【源太郎】登場人物や設定はすべて架空です。
源太郎が一人で飲むことは一義も長い付き合いだが知っていない。源太郎は不忍池の近くのSEGRETOという店のカウンターにいた。店は彼の好きな音楽がいつも流れ、一番端の壁際の席で飲むことが定番だった。彼が来ない日は、その席に予約プレートが置かれ、他のお客は座ることはない。ママの絵里香と年老いたバーテンダーだけの店で、絵里香はチーク材の磨き上げられたカウンター席に座っている二人の中年のカップル客の相手をしている。源太郎が座り煙草を燻らせ吸い終わる頃を見計らって、モルトウイスキーと見事にカットされたアイスボールが満たされたベネチアングラスが出された。源太郎は、琥珀色のウイスキーを自分で注ぎ、絵里香に向かって軽くグラスをあげ、飲み始める。絵里香はその仕草だけ確認すると、又客の相手に戻った。
それまで流れていた曲が終ると、絵里香はCDからアナログプレーヤーに切り替え、スピーカーを選択して、整理された棚からレコード盤を取り出し、フエルトのクリーナーで軽く埃を払い、照明の灯りにかざし、そっとターンテーブルに置いた。そしてセンターウエイトのオモリを置いて、電源を入れた。ターンテーブルはゆっくり回転を始め、回転が落ち着くのを確認してから、絵里香はそっと針を載せ、アンプのボリュームを少し上げた。
いつもの絵里香の仕草を源太郎は楽しんでいる。針が最初の音を出す前の溝のノイズが、古いダイアトーンのモニタースピーカから聞こえ、そして、アナログ音源のバルバラの哀愁感のあるNantesという曲が店に流れた。二人の客は、その間それを気にすることもなく会話の時間を楽しんでいる。絵里香は振り返り、源太郎の顔を見て微笑み、また会話に戻って行った。
二人が店から出ると、店内は音楽だけになった。
「源さん。今日も一人ね」「ああ」「若い奥さまをお連れになったら」と絵里香はからかい半分に言った。
「馬鹿いうなよ。昔の彼女のところに細君を連れてくるわけないだろ」「あら、私はもう昔の女というわけね。捨てられた場末のおばさんかしら」角が取れて丸くなりすぎた氷のグラスがあく時を見計らって、バーテンは同じデザインのグラスに新しいカットボールを入れ、会話を遮ることなく差し出した。絵里香の前にもギブソンが置かれた。透明なグラスの底のパールオニオンが白い。
「また強い酒を飲むんだな。男の酒だよそれは」「ええ、捨てられた女が飲む酒とも言うのよ」「聞いたことないよ」「いま私が言ったのよ。おかしいの」
絵里香はそれとなく店を閉めるようにバーテンに言い、グラスを棚にそろえた後、トイレを確認し、店のネオンを消して帰って行った。「今日はどうされるの。捨てた女でよろしければお相手するわよ」と絵里香が皮肉交じりに言うと、源太郎は笑って、着替えてくるように右手を払って合図した。源太郎がこの店に来る時は、必ず決断に悩んでいることを絵里香は知っていた。だから、店では絶対に余分なことは聞かないし、源太郎も話さなかった。
店から、絵里香の家までは女の足でも十分ぐらいだが、途中歓楽街があるため、この時間帯は、大通りに出て明るい道を通るのでもう少しかかった。源太郎は空腹ではなかったが、絵里香におなかがすいたといい、少し食べて帰ろうと誘った。絵里香は帰れば疲れているのに料理をしなければならない。それはさすがに大変と思って何回かは食事に誘った。絵里香は生魚が嫌いなのに、源太郎の好きなおすし屋でいいと言ったが、源太郎はそこのラーメン屋に行こうといって赤い暖簾をくぐった。絵里香は髪の毛を束ね、おいしそうに野菜ラーメンを食べ、源太郎は小瓶のビールをパリッとしていない餃子をつまみに飲んだ。
部屋のドアを開けると、犬が駆け寄り、絵里香に甘えた。その尻尾の勢いが収まるのを待って、バスルームの準備と源太郎の着替えをそろえて、源太郎にシャワーを浴びてくるように言い、源太郎のスーツをハンガーにかけ、飲み物の準備をして待っている。その間犬は絵里香の足元を前に後ろについて歩いた。源太郎が風呂から出ると、温めたオードブルの缶詰をさらに置き、缶熱いわよと言って、ワインを注いで、乾杯する仕草をしてシャワールールに向かった。源太郎は見るわけでも無いが、テレビの電源を入れると若い芸人たちのたわいもない番組が流れていた。
「なあ。絵里香。今日はちょっと考え事があってさ」と話しかけた。絵里香は少し酔った振りをして「別れ話」と切り返した。「真面目に聞けよ」と源太郎が言うと、そんなこと解っているわという顔をして、源太郎の眼を見つめた。源太郎は、時期が来たら病院を辞めたいと言った。想像はできていたが、絵里香は院長が変わるし、今が大事な時だと諭したが、源太郎の気持ちはすでに決まっていると思っていた。「でも、子供も生まれるんでしょ。奥様は何て言っているの。一義さんは」とあえて尋ねた。源太郎は誰にも話していないと言い、貯えがあるから生活には困らないし、絵里香の店の支援も全く今まで通りに出来ると説明した。そして生まれてくる子には、この都会ではなく田舎暮らしで育ってほしいと言った。「やめて、どこで暮らすの」と絵里香が聞くと、源太郎は富山に移住したいといった。富山は篤の弟がやっている製薬会社の工場があり、それを支援してほしいというものだった。絵里香は、それでは今の病院の経営者に誰を据えると聞いたが、彼は黙ってしまった。絵里香はそれ以上、この話は聞かなかった。
「ねえ。起きて」と絵里香が安心して寝入っている源太郎の枕元でいった。昨夜は遅くまで語らい、久々に心を通わせ、疲れているはずの絵里香だが、朝食の準備を整え、着替えも揃えていた。源太郎は起き上がると、シャワーを浴び、着替えが終えると暖かい朝食を食べた。「源さん。私、富山で暮らしてもいいわよ。製薬工場なら、従業員もいっぱいでしょ。お店開けば、新しい彼もできるかも」「無理だよ。無理・無理」と暮らすことよりも、彼は出ないという意味で茶化したが、源太郎の気持ちはこの一言で固まった。玄関先まで絵里香は源太郎を見送り、なにも言葉を交わさずに別れた。
一義は、週末の院長夫妻への挨拶も終わり、朝食を済ませ、今日の香の会社の退職送別会の時間を確認し病院に向かった。香は主婦業に専念することで航空会社に辞表をすでに出していて、今週いっぱいで退職することになっていた。新婚旅行の職場の仲間たちへのお土産を大きな袋に詰め、片づけや洗濯を済ませて家を出た。
源太郎が一人で飲むことは一義も長い付き合いだが知っていない。源太郎は不忍池の近くのSEGRETOという店のカウンターにいた。店は彼の好きな音楽がいつも流れ、一番端の壁際の席で飲むことが定番だった。彼が来ない日は、その席に予約プレートが置かれ、他のお客は座ることはない。ママの絵里香と年老いたバーテンダーだけの店で、絵里香はチーク材の磨き上げられたカウンター席に座っている二人の中年のカップル客の相手をしている。源太郎が座り煙草を燻らせ吸い終わる頃を見計らって、モルトウイスキーと見事にカットされたアイスボールが満たされたベネチアングラスが出された。源太郎は、琥珀色のウイスキーを自分で注ぎ、絵里香に向かって軽くグラスをあげ、飲み始める。絵里香はその仕草だけ確認すると、又客の相手に戻った。
それまで流れていた曲が終ると、絵里香はCDからアナログプレーヤーに切り替え、スピーカーを選択して、整理された棚からレコード盤を取り出し、フエルトのクリーナーで軽く埃を払い、照明の灯りにかざし、そっとターンテーブルに置いた。そしてセンターウエイトのオモリを置いて、電源を入れた。ターンテーブルはゆっくり回転を始め、回転が落ち着くのを確認してから、絵里香はそっと針を載せ、アンプのボリュームを少し上げた。
いつもの絵里香の仕草を源太郎は楽しんでいる。針が最初の音を出す前の溝のノイズが、古いダイアトーンのモニタースピーカから聞こえ、そして、アナログ音源のバルバラの哀愁感のあるNantesという曲が店に流れた。二人の客は、その間それを気にすることもなく会話の時間を楽しんでいる。絵里香は振り返り、源太郎の顔を見て微笑み、また会話に戻って行った。
二人が店から出ると、店内は音楽だけになった。
「源さん。今日も一人ね」「ああ」「若い奥さまをお連れになったら」と絵里香はからかい半分に言った。
「馬鹿いうなよ。昔の彼女のところに細君を連れてくるわけないだろ」「あら、私はもう昔の女というわけね。捨てられた場末のおばさんかしら」角が取れて丸くなりすぎた氷のグラスがあく時を見計らって、バーテンは同じデザインのグラスに新しいカットボールを入れ、会話を遮ることなく差し出した。絵里香の前にもギブソンが置かれた。透明なグラスの底のパールオニオンが白い。
「また強い酒を飲むんだな。男の酒だよそれは」「ええ、捨てられた女が飲む酒とも言うのよ」「聞いたことないよ」「いま私が言ったのよ。おかしいの」
絵里香はそれとなく店を閉めるようにバーテンに言い、グラスを棚にそろえた後、トイレを確認し、店のネオンを消して帰って行った。「今日はどうされるの。捨てた女でよろしければお相手するわよ」と絵里香が皮肉交じりに言うと、源太郎は笑って、着替えてくるように右手を払って合図した。源太郎がこの店に来る時は、必ず決断に悩んでいることを絵里香は知っていた。だから、店では絶対に余分なことは聞かないし、源太郎も話さなかった。
店から、絵里香の家までは女の足でも十分ぐらいだが、途中歓楽街があるため、この時間帯は、大通りに出て明るい道を通るのでもう少しかかった。源太郎は空腹ではなかったが、絵里香におなかがすいたといい、少し食べて帰ろうと誘った。絵里香は帰れば疲れているのに料理をしなければならない。それはさすがに大変と思って何回かは食事に誘った。絵里香は生魚が嫌いなのに、源太郎の好きなおすし屋でいいと言ったが、源太郎はそこのラーメン屋に行こうといって赤い暖簾をくぐった。絵里香は髪の毛を束ね、おいしそうに野菜ラーメンを食べ、源太郎は小瓶のビールをパリッとしていない餃子をつまみに飲んだ。
部屋のドアを開けると、犬が駆け寄り、絵里香に甘えた。その尻尾の勢いが収まるのを待って、バスルームの準備と源太郎の着替えをそろえて、源太郎にシャワーを浴びてくるように言い、源太郎のスーツをハンガーにかけ、飲み物の準備をして待っている。その間犬は絵里香の足元を前に後ろについて歩いた。源太郎が風呂から出ると、温めたオードブルの缶詰をさらに置き、缶熱いわよと言って、ワインを注いで、乾杯する仕草をしてシャワールールに向かった。源太郎は見るわけでも無いが、テレビの電源を入れると若い芸人たちのたわいもない番組が流れていた。
「なあ。絵里香。今日はちょっと考え事があってさ」と話しかけた。絵里香は少し酔った振りをして「別れ話」と切り返した。「真面目に聞けよ」と源太郎が言うと、そんなこと解っているわという顔をして、源太郎の眼を見つめた。源太郎は、時期が来たら病院を辞めたいと言った。想像はできていたが、絵里香は院長が変わるし、今が大事な時だと諭したが、源太郎の気持ちはすでに決まっていると思っていた。「でも、子供も生まれるんでしょ。奥様は何て言っているの。一義さんは」とあえて尋ねた。源太郎は誰にも話していないと言い、貯えがあるから生活には困らないし、絵里香の店の支援も全く今まで通りに出来ると説明した。そして生まれてくる子には、この都会ではなく田舎暮らしで育ってほしいと言った。「やめて、どこで暮らすの」と絵里香が聞くと、源太郎は富山に移住したいといった。富山は篤の弟がやっている製薬会社の工場があり、それを支援してほしいというものだった。絵里香は、それでは今の病院の経営者に誰を据えると聞いたが、彼は黙ってしまった。絵里香はそれ以上、この話は聞かなかった。
「ねえ。起きて」と絵里香が安心して寝入っている源太郎の枕元でいった。昨夜は遅くまで語らい、久々に心を通わせ、疲れているはずの絵里香だが、朝食の準備を整え、着替えも揃えていた。源太郎は起き上がると、シャワーを浴び、着替えが終えると暖かい朝食を食べた。「源さん。私、富山で暮らしてもいいわよ。製薬工場なら、従業員もいっぱいでしょ。お店開けば、新しい彼もできるかも」「無理だよ。無理・無理」と暮らすことよりも、彼は出ないという意味で茶化したが、源太郎の気持ちはこの一言で固まった。玄関先まで絵里香は源太郎を見送り、なにも言葉を交わさずに別れた。
一義は、週末の院長夫妻への挨拶も終わり、朝食を済ませ、今日の香の会社の退職送別会の時間を確認し病院に向かった。香は主婦業に専念することで航空会社に辞表をすでに出していて、今週いっぱいで退職することになっていた。新婚旅行の職場の仲間たちへのお土産を大きな袋に詰め、片づけや洗濯を済ませて家を出た。