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あの人たちはどこにいるのか

2005-11-26 14:45:11 | Weblog
新共同訳、ヨハネによる福音書8章1から11節に登場する女性には、「姦通の女」という名がつけられている。(私の持っている聖書では1987年改訂版ではそうなっているが、最新版においてはその呼び方は変えられた。)

この女性は「イエスを試して訴える口実を得るために」使われたのだと思う。姦通罪は当事者双方に罪が問われるはずなのに、女性の方だけ捕まった。男性はどこに行ったのかと思うと、捕まえた側の策略を感ぜずにはいられない。私が今日ここで気になったのは、この女性を訴える側の人間の気持ちである。彼女を捕まえ、イエスのところに連れてきたのは、律法学者とファリサイ派の人たち。私には彼らの気持ちがよく分る。「我々は正しいが、この女は罪にまみれた悪人、最低の人間。この女は石で打ち殺されて当然。」

律法学者やファリサイ派はイエスを神様の子と信じていなかった。訴えている相手が本当は誰だか知らなかった。訴える相手が人間であるからこそ、自分達の正当性を主張した。
しかし、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」この言葉の前で彼らは屈服するしかなかった。イエスが誰であろうと、この言葉は真実で、どんなに悔しくとも、どんなに自分達と比べて彼女が立派な人間ではないと思っても、石を投げることはできなかった。

「初めにことばがあった」神様はことばだ。目に見えなくても絶大な力をもつ。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
この真実のことばがこの女性を救った。それはどんな同情のことばや思い遣りよりも彼女にとって助けとなったことだろう。

愛をもって真理を語ることが、人にとって一番の助けとなることをイエスから学んだ。それは、勇気がいることだ。相手の罪が見えたなら指摘して、悔い改められるように助けてあげたい。けれども親しい相手ほどそうするのは難しい。勇気がいる。自分の心も吟味される。相手を単に裁くためだけに言おうとしているのか、愛しているからなのか。そのときに「わたしもあなたを罪に定めない。」と言ったイエスの謙虚さを思い出す必要がある。イエスこそが唯一彼女を罪に定めることができる存在なのにイエスは赦しを与えた。私には石を投げる資格はないけれども、相手を助けてあげたいという思いが真実を語る勇気を生み出すと思う。

私は自分のことを振り返って思う。自分の正当性を訴え出る時、いったい誰に向かって訴え出ているのかを考えるべきだと。神様の前では誰も正しくない。他の人の過ちを見て、他の人より自分が優れていると思うのはおろかだ。間違いだらけ、罪人だらけの人々とつきあい、その人たちを心から愛していたイエスからもっと学びたい。


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