きままな旅

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2017/07/26 近江八幡市を訪ねる。

2017-08-01 | 尾張文化の会

2017/07/26(水) 近江八幡市を訪ねる。

○近江八幡
 安土城が焼失してから、城下に安土に集めたれた多くの商人たちが移住し、商業が発展しました。ところが間もなく、時代は徳川時代へ代り、近江八幡は幕府直轄の転領地となると商人は幕府の「通行手形」を手に全国を商いして廻って発展したと云われる。

○八幡堀めぐり
 八幡堀は八幡山に築城した際、琵琶湖を結ぶ運河で重要な役割り、内堀として軍事的機能とともに、廃城となった後は琵琶湖との連絡用の水運交通として利用された。

   八幡堀入口の石標
  

 

 

 
船より観る八幡堀風景          荷揚げ場     常夜灯と白雲橋

○八幡城跡
 豊臣秀次(秀吉の甥)18歳で領地を拝領し、天正13年(1585)に八幡城を築いた。天正年(1590)秀次は尾張清洲に移り、京極佐々木高次が領主として入城した。翌年、秀次は文禄4年(1595)謀反の疑惑をかけられ自害に追い込まれた。同年、京極高次も大津へ転封となり八幡城は廃城とされた。
  
          旧八幡城の野面積みに石垣

○村雲御所瑞龍寺(日蓮宗)
 豊臣秀次の菩提を弔うため、生母日秀尼(にっしゅうに)が京都の嵯峨の村雲に創建し、「村雲御所」とよばれ、昭和37年(1962)この地へ移された。
 
     石標     山門

     本堂
○日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)
 祭神は誉田別尊で他二柱です。
 
     楼門

     拝殿

鬼瓦(右三つ巴)・飾り打ち出し板金(左三つ巴)何か深い意味が有りそうです。
○明神鳥居(県重文)
 元和2年(1616)の造営された木造の鳥居
 
          明神鳥居
 
          白雲橋
 
     八幡堀一望スポット

○白雲館
 明治10年(1887)に八幡東学校として建築された。現在は観光案内所と市民ギャラリーとして利用され、国重文である。
 
   白雲館
○ウォーリズ像
 明治13年(1880)アメリカのカンザス州に生まれ、明治38年(1905)に英語教師として八幡商業高校に赴任してきた。後に多くの建築を残した。近江兄弟社の創設者の一人でもありキリスト教の伝道者でもあった。
 現在現存する建物は、一柳記念館、旧八幡郵便局、池田町洋風住宅街、旧伊庭家住宅が残っている。

   ウォーリズ像
○歴史民族資料館付近(旧西川家住宅と森五郎兵衛宅)
 

 
○西村太郎衛門宅址 (バックは資料館)
 屋号を「綿屋」と称し蚊帳・木綿の商いをしていた。また日牟禮八幡宮への奉納した絵馬「安南渡海船額」(国重文)がある。
 
     西村宅石標(安南屋西村太郎衛門宅址と刻印)     西村宅石標の裏側の交差点(後方は資料館)
○旧伴家住宅
 天保11年(1840)の建築住宅は朝鮮人街道(京街道)に面した場所で、蚊帳・畳表・ろうそくなどを商っていた。
 
     入口     石碑(國學学家伴蒿蹊宅址と刻印)
○朝鮮人街道 道標
 朝鮮通信師が江戸まで通った道で「朝鮮人街道」と呼ばれた。


○本願寺八幡別院(浄土真宗)
 本堂(県重文)享保元年(1716)、表門(県重文)明和4年(1767)、鐘楼は文政8年(1825)頃に建造された。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利した家康は、上洛の途中この別院に宿泊したと云う。
 
    表門          本堂


     八本柱の鐘楼
○池田町洋風住宅街
 苔むしたレンガ塀が洋風の雰囲気を出している。
 
     レンガ塀
○八幡小学校
 
   旧入口門     旧校舎
以上

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