2016/12/12(月)興津宿から薩埵峠を越え由比宿に下る。
JR金山駅から興津駅に青春18切符を利用して薩埵峠より富士山を眺める計画で出発した。しかし、現地での天気予報は曇りで期待できない雰囲気のなか、仲間7名と話しながら満員の通勤列車に乗り込んだ。全員が着席できたのは安城駅を過ぎた時でした。列車内の会話は興津から由比の「桜えびのかき揚げ定食」を食べたいと言っている、しかし行程から見ても峠近くがお昼に掛かる。やっぱり本日もコンビニおにぎりとなった。峠から眺める富士山は素晴らしい、駿河湾と富士山のカットを頭に入れながら下って行、由比駅にて列車待ちを利用し「桜えびのかき揚げ」を買い込み列車の中で、ビールと味わった。列車内のお客さん失礼しました。
〇一里塚
日本橋より四十一里目
〇身延山道の道標
〇宗像神社
当社は、宗像三女神を祀る神社であり、「女体の森」と呼ばれる海上安全の守護神である。
〇興津川沿いの供養塔
〇牛頭観世音菩薩
〇川越遺跡
〇瑞泉寺
当山は、日蓮宗である。薩埵峠殉難供養塔がある。
〇常夜灯
〇往還坂
白髭神社方面より眺める 峠入口の案内板 入口の階段
〇薩埵峠
薩埵峠は、東海道興津宿と由比宿の間に横たわる3キロ余の峠道で、古来、箱根・宇津の谷・日坂などと共に街道の難所として知られてきました。
江戸幕府の東海道伝馬制度が定められたのは関ヶ原の戦から間もない慶長六年(1601)のことで、その後「一里塚」整備されましたが、この峠の開通はずっと遅れて、明暦元年(1655)と記録されています。
峠の案内板(上記の内容です。)
薩埵峠には上道、中道、下道の三道がありました。下道は峠の突端の海岸沿いの道であり、中道は明暦元年に開かれた山腹を経て外洞へ至る道です。また、上道は峠を下るところより内洞へ抜ける道であり、この道は江戸後期の東海道本道です。
その昔、現在の富士市から興津川河口一帯を「田子の浦」と呼んでいました。万葉の歌人、山部赤人の有名な歌は、この付近から詠まれた歌ではないかと伝えられています。
享和元年(1801)狂歌師の蜀山人(大田南畝)が峠
田子の浦ゆ うち出てみれば 真白にそ |
にあった茶店に休憩した時、小さな祠が目に止まり亭主に訊ねると、山の神だと返事したのが面白く即効で作った狂歌が薩埵峠の名を有名にしました。
山の神 さった峠の風景は |
〇由比之図/歌川広重画
〇薩埵峠
石碑
山に雪化粧をする富士山と駿河湾
峠より富士山方面の東屋とみかん畑
峠より良く見る写真でJR東海道線・国道1号・東名高速道路・駿河湾・富士山
〇峠の駐車場
幸田文(随筆家)・文学碑
「由比の家ある風景をみると、その安らぎがあってほっとしたのだが、佇んで眺めていれば、ひとりでに家のうしろの傾斜面をみてしまう。草木のあるなんでもない山なのだ。だが、そこを見ていると、なにかは知らず、土よいつまでも平安であれ、と念じていた」と刻印されていた。
山ノ神道標 文学碑
〇薩埵峠道標
石碑
〇西倉沢の一里塚
〇望嶽亭
〇間の宿脇本陣跡(柏屋) 「明治天皇御小休所」
〇間の宿本陣跡(川島家茶屋)
〇鞍左里神社 〇八阪神社
〇JR東海道線・国道1号・東名高速道路・駿河湾・富士山
街道より駿河湾、富士山を眺める
〇小池邸
〇讃徳寺
本堂 谷口法悦が建立と伝える「南無妙法蓮華経」の石碑
〇宗像神社
帰路はJR由比駅発15時13分発の浜松行きに乗って帰宅した。
以上
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