sirius

SiriusとAldebaranとPolaris

碑文

2019-08-20 10:42:20 | 日記

「やすらかにねむって ください あやまちは くりかえしませぬから」


広島原爆慰霊碑に書かれている文だ。


これを巡って激しい論争があった。

「過ちを繰り返さない」はいいが主語は誰なのか?

ということだ。

かねがねこの時期が来ると不思議に感じていた。

特にこの地を訪問し現実に碑文を見てから強くなった。


一体に日本語は主語が不明な言葉づかいをする。

それは日本人の知恵として曖昧にすることで人間関係を円滑に保たせることに由来するのか。


「過ち」といい「繰り返さない」という。

だれが「過ち」を犯したのか?

だれが「繰り返さない」のか?


当時の市長から依頼され揮毫した人の言葉では「世界人類」だという。

これは碑文を批判した人に対する反論の中で断じている。


しかし、歴史の中でこの「世界人類」という高遠な理想は無に帰そうとしている。


アメリカ、ロシアがNPT条約を破棄しより高性能で小型の核兵器の製造を競い合うことになった。


ヒロシマ・ナガサキの惨状は見たものにしかわからない。

どのような言葉を連ねようとも頭の中で「そうか」という程度のものだ。


だから「核兵器開発競争に狂っている」連中はお互いの国の人が住んでいる地域に

核爆弾を落としてみるがいい。

そしてその後現実を見て見るがいい。

それでも核兵器を保有し続けるというならもはや人間ではないというしかないだろう。


自分と仲間であるものには保有を許す。

喧嘩状態の相手が持つことは許さない。


北朝鮮とアメリカの駆け引きがどこまで続くか。

互いに握手しておきながら他の手は核兵器の発射ボタンに指を置いている。


チェルノブイリ原発事故。

東京電力福島第一原発事故。

放射能による汚染というがどんな汚染か目に見える形はない。

だから、深刻さはない。

これが現実だ。

その場にいたものが焼けただれた皮膚をぼろきれのように垂らしながら歩く姿はない。


そのような形が見えても我がことでなければ何の痛痒も感じない。

それが人間の偽らざる姿だ。