おはようございます。
昨日は大阪日蓮聖人門下懇話会恒例バスツアーの下見でした。
初めて妙傳寺さんに伺いました。
本堂、さすがに大きくて立派です。
さてさて小松原法難、最終回です。
お付き合いくださった方、ありがとうございます。
この文章は最終回にこそ意味があるのかな。
再度掲載します。
天津領主・工藤吉隆、祖師に教えを請い、景信宿年の怨みを雪がんと松原に潜む。殺気四面を蓋い、森々と剣槍を排ぶ。鏡忍房笑いて松枝を振るい、冷箭五矢その身に在り。祖師の御前に仁王立ちすること、かの弁慶が義経を護らんが如し。景信の一念祖師を襲うも法華行者の守護神これを護らんと欲して神力を現じ給う。吉隆急を聞きて駆け、景信不利をさとりて北る。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。一乗受持の決意なお篤し。我が名は工藤吉隆。釈尊を尊び、聖人を敬う。その想い主人(あるじ)よりも、朋輩(とも)よりも強し。
小説 小松原法難 ④
日蓮は手鉾を構えながら姿勢を崩していない。眉間が割れ、おびただしい血が流れている。景信にしてみれば、決して太刀筋が狂ったわけでなかった。振り下ろした太刀は確かに日蓮の頭上に見舞ったはずだった。そして日蓮の眉間深く傷を負わせることは出来た。ただし致命傷ではない。
背後の騒ぎ。工藤吉隆を誘い出せた。すべて予定通りにことが進んでいる。三の太刀。これで息の根を止める。激しい戦闘の声が聞こえてきたが吉隆の主従はわずかである、何があってもここまで辿りつけはしない。
「南無妙法蓮華経!」
一際大きな日蓮の唱題の声。
「な、何と」
突如日蓮の背後、槇の木に一条の光が発し、その中に鬼子母神の姿が現れた。馬のいななき。必死に手綱を引いたが馬はきかない。どうっと景信は振り落とされた。慌ててかけよる景信の郎党たち。しかし日蓮は弟子達と共に一時的に間合いを遠ざけることが出来た。
工藤吉隆の手勢はここぞとばかりに勢いを得、押しに押しまくったが、衆寡敵せず、やがて反撃を食らうこととなった。しかし落馬した景信も軽傷ではなかった。工藤館から出撃した新手を迎えると一戦も交えずに退却していったのである。
小松原は凄惨だった。鏡忍房は討ち死に、戦場に誘導した工藤吉隆の郎党の与次郎も死亡。退却する東条景信を追った工藤吉隆は行方不明であった。工藤館の郎等達が負傷者の収容をはじめた。
馬の嘶き。松原より吉隆の愛馬が現れた。日蓮は鏡忍房の菩提を弔ったあと、すぐさま吉隆の愛馬のもとに走った。傷がうずく。血は止まらなかった。むしろ太刀が脳まで届かなかったことは奇跡に違いない。全てがタイミングだった。あのとき工藤吉隆の手勢が到着していなければ、間違いなく命を落としただろう。
松原のはずれに吉隆がうずくまっていた。身体には無数の刀傷があった。死んではいない。三本の矢が身体に突き刺さっていた。下腹部深く突き刺さった矢がすべてだった。
「吉隆殿!」
日蓮は吉隆の身体を抱え起こした。吉隆は意識を戻して静かに口を開いた。
「おお、聖人。日蓮聖人。御無事で御座いましたか」
「御佛が鏡忍房や吉隆殿に姿を変えて、わたしを護ってくだされたようじゃ」
「御無事で何よりで御座います」
「吉隆殿……」
「よ、吉隆、聖人にお願いがございます」
「何なりと申されよ」
「我が妻は、ただいま懐妊してござる。も、もし生まれくる子が男児であったなら、是非とも聖人のお弟子の末席に加えていただきたいのです」
「安心されよ。確かにお約束いたしましたぞ」
吉隆は最後の力を振り絞ると体を起こし、合掌すると安らかな表情でお題目を唱えはじめた。
「南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経………」
十数編。やがて唱題の声が止まったとき吉隆の目は再び開くことはなかった。
日蓮は工藤吉隆を僧禮の儀でおくった。出家者つまり僧侶としての扱いであった。妙隆院日玉聖人。吉隆の奥方はやがて男児を出産する。10年後、あの日の約束通り日蓮の弟子となり、長栄房日隆上人と号し、法難より17年後の弘安4年(1281)3月15日、当地において一寺を建立し教線拡大につとめた。今日の小松原山・鏡忍寺である。開祖日蓮大聖人。二祖鏡忍房日暁聖人。第三祖妙隆院日玉聖人。そして第四祖が長栄房日隆上人。
また落馬した東条景信はその場を逃れたが、その後体調が芳しくないままだったという。
鏡忍寺は法難の地に建つ宗門霊跡寺院であり、境内には大聖人が東条景信に斬りつけられた折、奇瑞を発したと言われる降神槇の巨木が今も偉観を呈している。
昨日は大阪日蓮聖人門下懇話会恒例バスツアーの下見でした。
初めて妙傳寺さんに伺いました。
本堂、さすがに大きくて立派です。
さてさて小松原法難、最終回です。
お付き合いくださった方、ありがとうございます。
この文章は最終回にこそ意味があるのかな。
再度掲載します。
天津領主・工藤吉隆、祖師に教えを請い、景信宿年の怨みを雪がんと松原に潜む。殺気四面を蓋い、森々と剣槍を排ぶ。鏡忍房笑いて松枝を振るい、冷箭五矢その身に在り。祖師の御前に仁王立ちすること、かの弁慶が義経を護らんが如し。景信の一念祖師を襲うも法華行者の守護神これを護らんと欲して神力を現じ給う。吉隆急を聞きて駆け、景信不利をさとりて北る。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。一乗受持の決意なお篤し。我が名は工藤吉隆。釈尊を尊び、聖人を敬う。その想い主人(あるじ)よりも、朋輩(とも)よりも強し。
小説 小松原法難 ④
日蓮は手鉾を構えながら姿勢を崩していない。眉間が割れ、おびただしい血が流れている。景信にしてみれば、決して太刀筋が狂ったわけでなかった。振り下ろした太刀は確かに日蓮の頭上に見舞ったはずだった。そして日蓮の眉間深く傷を負わせることは出来た。ただし致命傷ではない。
背後の騒ぎ。工藤吉隆を誘い出せた。すべて予定通りにことが進んでいる。三の太刀。これで息の根を止める。激しい戦闘の声が聞こえてきたが吉隆の主従はわずかである、何があってもここまで辿りつけはしない。
「南無妙法蓮華経!」
一際大きな日蓮の唱題の声。
「な、何と」
突如日蓮の背後、槇の木に一条の光が発し、その中に鬼子母神の姿が現れた。馬のいななき。必死に手綱を引いたが馬はきかない。どうっと景信は振り落とされた。慌ててかけよる景信の郎党たち。しかし日蓮は弟子達と共に一時的に間合いを遠ざけることが出来た。
工藤吉隆の手勢はここぞとばかりに勢いを得、押しに押しまくったが、衆寡敵せず、やがて反撃を食らうこととなった。しかし落馬した景信も軽傷ではなかった。工藤館から出撃した新手を迎えると一戦も交えずに退却していったのである。
小松原は凄惨だった。鏡忍房は討ち死に、戦場に誘導した工藤吉隆の郎党の与次郎も死亡。退却する東条景信を追った工藤吉隆は行方不明であった。工藤館の郎等達が負傷者の収容をはじめた。
馬の嘶き。松原より吉隆の愛馬が現れた。日蓮は鏡忍房の菩提を弔ったあと、すぐさま吉隆の愛馬のもとに走った。傷がうずく。血は止まらなかった。むしろ太刀が脳まで届かなかったことは奇跡に違いない。全てがタイミングだった。あのとき工藤吉隆の手勢が到着していなければ、間違いなく命を落としただろう。
松原のはずれに吉隆がうずくまっていた。身体には無数の刀傷があった。死んではいない。三本の矢が身体に突き刺さっていた。下腹部深く突き刺さった矢がすべてだった。
「吉隆殿!」
日蓮は吉隆の身体を抱え起こした。吉隆は意識を戻して静かに口を開いた。
「おお、聖人。日蓮聖人。御無事で御座いましたか」
「御佛が鏡忍房や吉隆殿に姿を変えて、わたしを護ってくだされたようじゃ」
「御無事で何よりで御座います」
「吉隆殿……」
「よ、吉隆、聖人にお願いがございます」
「何なりと申されよ」
「我が妻は、ただいま懐妊してござる。も、もし生まれくる子が男児であったなら、是非とも聖人のお弟子の末席に加えていただきたいのです」
「安心されよ。確かにお約束いたしましたぞ」
吉隆は最後の力を振り絞ると体を起こし、合掌すると安らかな表情でお題目を唱えはじめた。
「南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経………」
十数編。やがて唱題の声が止まったとき吉隆の目は再び開くことはなかった。
日蓮は工藤吉隆を僧禮の儀でおくった。出家者つまり僧侶としての扱いであった。妙隆院日玉聖人。吉隆の奥方はやがて男児を出産する。10年後、あの日の約束通り日蓮の弟子となり、長栄房日隆上人と号し、法難より17年後の弘安4年(1281)3月15日、当地において一寺を建立し教線拡大につとめた。今日の小松原山・鏡忍寺である。開祖日蓮大聖人。二祖鏡忍房日暁聖人。第三祖妙隆院日玉聖人。そして第四祖が長栄房日隆上人。
また落馬した東条景信はその場を逃れたが、その後体調が芳しくないままだったという。
鏡忍寺は法難の地に建つ宗門霊跡寺院であり、境内には大聖人が東条景信に斬りつけられた折、奇瑞を発したと言われる降神槇の巨木が今も偉観を呈している。
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