示に云ク、当世学道する人、多分法を聞ク時、先ヅ好く領解する由を知られんと思ウて、答の言の好カらんやうを思ふほどに、聞くことは耳を過ゴすなり。詮ずる処道心なく、吾我を存ずる故なり。
『正法眼蔵随聞記』巻1-9
道元禅師は、仏法を学ぶ者の中に、自分が良く理解している事を認めてもらおうとして、大して聞きもせずに分かったつもりになっている者が多いと批判しています。
そして、今でも、同じように自分が何のために、仏教を学ぶのかを知らない人がいます。けっして、知識を誇ったり、自分の頭の良さなどを誇るためではないはずです。
吾我を捨てるには、ただ虚心に師の教えを聞けば良いのです。非常に簡単な話です。
『正法眼蔵随聞記』巻1-9
道元禅師は、仏法を学ぶ者の中に、自分が良く理解している事を認めてもらおうとして、大して聞きもせずに分かったつもりになっている者が多いと批判しています。
そして、今でも、同じように自分が何のために、仏教を学ぶのかを知らない人がいます。けっして、知識を誇ったり、自分の頭の良さなどを誇るためではないはずです。
吾我を捨てるには、ただ虚心に師の教えを聞けば良いのです。非常に簡単な話です。