そノ儀を守ると云ふは、我執を捨て、知識の教に随ふなり。そノ大意は、貪欲無キなり。貪欲無カらんと思はば先ヅすべからク吾我ヲ離ルベキなり。吾我を離るるには、観無常是れ第一の用心なり。
世人多ク、我レは元来人に能シと言ハれ思はれんと思ふなり。そレが即チよくも成リ得ぬなり。ただ我執を次第に捨て、知識の言ニ随ひゆけば昇進するなり。
『正法眼蔵随聞記』巻2-2
仏道修行を行うためには、実体へのとらわれを捨てて、ただ指導者の教えに従うべきだと、道元禅師は示されています。その意味とは、貪りや欲を無くすることで、そのためには、「オレが」「私が」という、吾我の思いを離れるべきだとされています。
無常をよく観ることによって、そのような吾我の思いを離れることが可能となります。いつ死ぬか分からない、そのような実態を知れば、自分自身にこだわりを持っている暇はありません。
世俗に生きる人は、他人に良く思われ、いわれようとするものですが、これが、1番仏道から遠ざける因縁となります。また、これが我執となります。よって、それを捨て、ただ師の言葉に従うだけで良いのです。
世人多ク、我レは元来人に能シと言ハれ思はれんと思ふなり。そレが即チよくも成リ得ぬなり。ただ我執を次第に捨て、知識の言ニ随ひゆけば昇進するなり。
『正法眼蔵随聞記』巻2-2
仏道修行を行うためには、実体へのとらわれを捨てて、ただ指導者の教えに従うべきだと、道元禅師は示されています。その意味とは、貪りや欲を無くすることで、そのためには、「オレが」「私が」という、吾我の思いを離れるべきだとされています。
無常をよく観ることによって、そのような吾我の思いを離れることが可能となります。いつ死ぬか分からない、そのような実態を知れば、自分自身にこだわりを持っている暇はありません。
世俗に生きる人は、他人に良く思われ、いわれようとするものですが、これが、1番仏道から遠ざける因縁となります。また、これが我執となります。よって、それを捨て、ただ師の言葉に従うだけで良いのです。