是レを思フに、仏像舎利は如来の遺骨なれば恭敬すべしといへども、また一へに是レを仰ぎて得悟すべしと思はば、還ツて邪見なり。天魔毒蛇の所領と成る因縁なり。仏説に功徳あるべしと見えたれば、人天の福分と成る事、生身と斉し。惣て三宝の境界、恭敬すれば罪滅し功徳を得る事、悪趣の業をも消し、人天の果をも感ずる事は実なり。是レによりて仏の悟リを得たりと執するは僻見なり。
『正法眼蔵随聞記』巻2-1
仏像や舎利というのは、如来が遺された物であって、当然敬うべきなのですが、そのように仰いでいるだけで、悟ることが出来ると思うのは誤りだと道元禅師はいうのです。
三宝を敬えば、滅罪し、功徳を得るわけですけれども、しかし、それがそのまま悟りに繋がるわけではないと、繰り返し示しているわけです。そうであれば、どのようにすれば、悟りに繋がるのでしょうか。
それは、また明日、採り上げたいと思います。
『正法眼蔵随聞記』巻2-1
仏像や舎利というのは、如来が遺された物であって、当然敬うべきなのですが、そのように仰いでいるだけで、悟ることが出来ると思うのは誤りだと道元禅師はいうのです。
三宝を敬えば、滅罪し、功徳を得るわけですけれども、しかし、それがそのまま悟りに繋がるわけではないと、繰り返し示しているわけです。そうであれば、どのようにすれば、悟りに繋がるのでしょうか。
それは、また明日、採り上げたいと思います。