然レばとて、また破戒放逸なれと云フにあらず。若シまた是ノごとク執せば邪見なり、外道なり。ただ仏家の儀式、叢林の家風なれば随順しゆくなり。是レを宗とすと、宋土の寺院に住せし時も、衆僧に見ゆべからず。
実の得道のためにはただ坐禅功夫、仏祖の相伝なり。
『正法眼蔵随聞記』巻2-1
永平寺を開かれた道元禅師は、以上のように示され、持戒ばかりに把われて、そこから仏道が得られると思うのは間違っているが、一方で破戒して、好き勝手生きても良いとは示しておられません。
つまり、仏の家風、叢林の家風、そのような規則には従う必要を説いておられるのです。しかしながら、それを「宗」、つまり拠り所とするのは間違っているのです。
道元禅師が、仏道を得るためには、ただ坐禅功夫のみであるとされ、それこそがこれまでの仏祖が伝えてきた教えだとされるのです。では、坐禅を拠り所にして、問題はないのでしょうか。実は、坐禅とは、とらわれを排除する最適の手段になります。よって、坐禅を行えば行うほどに、とらわれが無くなるのです。
つまり、外形的には、坐禅に把われているように見えますが、内面的には、とらわれを無くしている、この「妙味」こそが、仏祖の伝えた真実だといえるのです。
実の得道のためにはただ坐禅功夫、仏祖の相伝なり。
『正法眼蔵随聞記』巻2-1
永平寺を開かれた道元禅師は、以上のように示され、持戒ばかりに把われて、そこから仏道が得られると思うのは間違っているが、一方で破戒して、好き勝手生きても良いとは示しておられません。
つまり、仏の家風、叢林の家風、そのような規則には従う必要を説いておられるのです。しかしながら、それを「宗」、つまり拠り所とするのは間違っているのです。
道元禅師が、仏道を得るためには、ただ坐禅功夫のみであるとされ、それこそがこれまでの仏祖が伝えてきた教えだとされるのです。では、坐禅を拠り所にして、問題はないのでしょうか。実は、坐禅とは、とらわれを排除する最適の手段になります。よって、坐禅を行えば行うほどに、とらわれが無くなるのです。
つまり、外形的には、坐禅に把われているように見えますが、内面的には、とらわれを無くしている、この「妙味」こそが、仏祖の伝えた真実だといえるのです。