大山は標高1252mの独立峰でその雄大な姿から、古代から国を護る山・神の山として
また海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神としてあがめられてきました
山岳をご神体とする修験道の聖地としても知られています
topフォトは阿夫利神社より
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前頁に登山道は投稿しましたので割愛しながら・・
女坂・男坂の分岐点<八意思兼神社>(追分社)
ここに祀られる思兼尊は知恵をつかさどる神として古事記や日本書紀にも登場する神様です
天照大神が天岩戸に隠れたとき天の安原に集まった八百万の神に
天照大神を岩戸の外に出すための知恵を授けたこととされる神話で知られています
女坂は男坂に比べ、やや緩やかなで女坂を通らないと雨降山大山寺には行けません
何気に<女坂の七不思議>の標識を撮ったのですが
かなりの年月のお地蔵さま
<前不動>
ちょっと息がきれ休憩する場所に
<倶利伽羅堂>
大山唯一の朱塗りの建物
二重滝の傍、現二重社のところにあって安政2年の大火で焼失を免れていたのを
明治の初、ここに移した大山最古の堂です
源 実朝が鎮雨の歌
時により過ぐれば 民の嘆きなり
八大竜王 雨止め 給へ
を捧げたのはこの堂で、大山への雨乞い、照乞いの主神はここでした
本堂へ続く石段の両脇には、不動明王に仕える童子たち
<本堂>
東大寺の初代別当を務めた良辯僧正が、天平勝宝7年(755)に開山したのが始まり
大山寺の本堂は明治初年の廃仏毀釈によって破壊されていたものを明治18年に全国の 信者たちの寄進によって再建されたもの
険しい山中のわずかな土地を平らにしこのような立派な本堂を建立した民衆の大山寺に対する信仰の厚さと、エネルギーには驚かされます
また本堂周辺に彫られた彫刻の数々のすばらしさは一見に値するものです
当時の最高の職人たちが本堂再建に魂を打ち込んで仕事をしたことがひしひしと伝わってきます
<宝篋印塔>(ほうきょういんとう)
地上高約11m、青銅造りの宝篋印塔は、日本国中稀に見る精巧巨大な塔
寛政7年(1795年)旧大山寺境内に建立。大正3年現境内に再建される
香花を供えて右回りに3度回ると願がかなうといわれている
<厄除け>
かわらけをがけ下に向けて投げると厄除けに効くだけでなく
がけ下に直径2.5cmの福輪がありその中をくぐれば幸運をもたらすとされています、とか
龍神様がいたる所でお守りしています
<鐘楼>
本来大山寺の梵鐘は徳川家光によって奉納されたものであるが明治初年に破壊されくずとして払い下げられて
現在銘文「大檀那従一位左大臣源家光公」の部分のみが阿夫利神社々社務局に保存されている
現在の鐘は昭和24年6月吉沢久造氏夫妻他賛助者多数によって奉納されたもの
有料(300円?)で、打つ人の気持ちで音色まで違う(-.-)
鐘楼前のベンチに座っていたので、もろに響きを感じたりして・・
<八大童子>
<倶利伽羅龍>
続いて阿夫利神社に向かいます
直ぐ赤い無明橋があります
↓
潮音洞
↓
眼形石は見落とし、逆さ菩薩樹はどこ~?
この場所はケーブル乗り場らしく大勢の人で溢れていました
<大山阿夫利神社>(おおやまあふりじんじゃ)
今から2,200余年以前の人皇第10代崇神天皇の御代に創建されたと伝えられている式内社
古くから相模国は許より関東総鎮護の霊山としてご崇敬を集めていた
また常に雲や霧が山上に生じ、雨を降らすことから古来より雨乞い信仰の中心地としても広く親しまれた
奈良時代以降は神仏習合の霊山として栄え、延喜式にも記される国幣の社となり
武家の政権始まった後も源頼朝公を始め、徳川家等の代々の将軍は当社を信仰し、
庶民からの崇敬も厚く、人々は「講」という組織を作り挙って大山へ参拝をした
神社の狛犬は新しいものですが顔とかポーズはそれぞれ違い
阿夫利神社の狛犬は前足で突っ張り神への忠実な姿勢を表現しています(勝手の談(#^.^#))
これは全く新しいですね、御影石のカエル?
これより阿不利神社本社へ登ります(山頂)
日本の<富士山>
28丁目の 阿不利神社本社の鳥居
狛犬の頭がかけているのかしら・・
<大山山頂奥の院>
龍神様が頭上で上っているような雲です(゜∀゜)
以上大山参り登山は終わりました
ついつい都心に近い為、いつかいつかと思っていたのですが来てよかったです
大変な人込みでしたが、いい季節は仕方がないですね
2015.11.21
勉強不足のため記事内容はすべてHPから参照しています