久能山東照宮
久能山(標高216m)は、もともと日本平と共に、太古、海底の隆起によって形成されたもので、長い年月の間に浸食作用などのために硬い部分のみが残り、現在のように孤立した山となった。 推古天皇(592- 628年)の頃、久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め、静岡茶の始祖といわれる円爾(聖一国師)など、多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。永禄11年(1568年)、駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し(今の鉄舟寺)、この要害の地に久能城を築いた。しかし、武田氏の滅亡と共に駿河は徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入った。
家康は、大御所として駿府に在城当時、「久能城は駿府城の本丸と思う」と、久能山の重要性を説いたといわれる。死後、その遺骸は遺命によって久能山に葬られ、元和2年12月(1617年1月)には2代将軍・秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営された。家康の遺命は久能山への埋葬および日光山への神社造営であったので、日光山の東照社(現・日光東照宮)もほぼ同時期に造営が始まっている。日光山の東照社は3代将軍・家光の代になって「寛永の大造替」と呼ばれる大改築がされ、徳川家康を祀る日本全国の東照宮の総本社的存在となった。同時に家光は久能山の整備も命じており、社殿以外の透塀、薬師堂(現・日枝神社)、神楽殿、鐘楼(現・鼓楼)、五重塔(現存せず)、楼門が増築された。
(Wikipe転載)
御祭神 徳川家康公(東照公)
相殿 豊臣秀吉公 織田信長公
***************************************
別格官幣社東照宮
山下にある石鳥居から数えて1159段の段数を誇り
1159の数字に文字が当てられ「いちいちご苦労さん」と呼ばれています
とHPに記載されていました(*^^)v、、、
表参道石段
見た目よりとても歩きやすい階段です
駿河湾に浮かぶ船をみながら、、水平線・・・
社務所
日光山 輪王寺大猷院の徳川三代将軍「家光公」の廟所(びょうしょ)とよく似ています
山に沿って階段を上り「拝殿、本殿」までの道のりは、天上界に昇って行くような印象です
手水処
初めて見ました、白糸のような水が出ています
直接、左・右と手を清め・・・なので良いのでしょうか?
↓
竹林、木漏れ日が・・
重要文化財 楼門
後水尾天皇の宸筆(天皇陛下御自ら書かれた書)である「東照大権現」の扁額(へんがく)
境内のオオデマリが満開☆グリーン色に近い花って素敵です
神厩(しんきゅう)
家康公の愛馬を飼育するために建てられた厩舎
名工、左甚五郎が愛馬そっくりに彫刻し、この厩舎に納めたと伝えられている
八重桜も満開でした☆
高野槇
鼓楼 (ころう)
鐘楼として扱われてきたが
明治時代に行われた神仏分離の際、鐘楼は仏教施設であるということから中身を太鼓に替え鼓楼に
。
神庫
河津桜のさくらんぼ?がたくさんぶら下がっていました
日枝神社
御祭神 大山咋命(おおやまくいのみこと)
社殿(本殿・石ノ間・拝殿)
神社建築における権現造りの様式は久能山東照宮の造営によって確立され
日光東照宮を始め全国に多数造営された東照宮は久能山東照宮が原型とされた
(大工棟梁の中井正清によって1年7ヶ月という驚くべき短期間のうちに社殿が建てられました)
振り返って、つながっていて権現造りって分かりますね
廟所(びょうしょ)参道
左右には家康公に仕えた武将たちが奉納した石灯籠
鳥居をくぐり、真っすぐ行って右折
「金の成る木」
愛馬の霊所
廟所の片隅に「愛馬を埋めた所」
引き返します
ご参拝に参るときは気が付かなかったのですが
大蘇鉄 樹齢650年
静かな境内です
駿河稲荷社
御祭神 稲荷大神
神域の「祓い所」でしょうか?
↓
<万年青:おもと>
引っ越しの際、他の荷物に先立って、万年青を運び込むと、運が開けるといいます
このような慣習ができたのは徳川家康が駿河から江戸へと城を変わる際にまず3本の万年青を持ち込んだというエピソードがあり
最近あまり見かけませんが、実家にあったようなような~
帰りの楼門で欧米人ご夫妻が一生懸命見学していました
社務所の出入口に展示していた
<双葉葵:ふたばあおい>の花が咲いていました、双と葉の間 ↓ (小さい)
どこの神社でも満開でした <シャガ> アヤメ科アヤメ属
<ホウチャクソウ:宝鐸草 > ユリ科チゴユリ属
久能山の下辺り<マルバウツギ:丸葉空木> ユキノシタ科ウツギ属
1159の階段をタッタと下りてきた東照宮の職員さん
「久能山」(新潟の酒)のお酒は非売品で奉納後、お詣りお祝い時にお神酒として出しますとのことでした
葵のマーク入りですね
さて、これから三保の松原に行ってみょうかしら。。。