中断を挟みつつ、3年ぐらいこのブログを書いていますが、「本能寺の変」の「原因」とか「動機」とか、まして「黒幕」なんてことに触れたことは、おそらくほとんどないと思います。
どれを信じるかはあなた次第って感じで「次々と説が」出ますが、どれも「こじつけ」感が強すぎるからです。
藤田達生「資料でよむ戦国史・明智光秀」は三重大学の教授さんが書いた「明智光秀論」というか「本能寺の変の裏に四国あり」というご本です。
正直何言ってるかよく分からない(私の頭が悪いせいで)のですが、物理的に重い。単行本で400頁あります。値段も5000円。むろん図書館で借りたので買ってはいません。
最初の三分の一ぐらいは「古文書を活字にしたもの」がズラーと並んでいます。
まあ「四国関係説」に立つわけです。
1、光秀と家臣である斎藤利三は四国の長曾我部と関係が深かった。
2、光秀たち(これを光秀派閥というそうです)は、長曾我部氏を介して(介してって何?)、西国支配への影響力を行使しようとしていた。(どうやら長曾我部・毛利→毛利にいた義昭ラインというのがあるという前提みたいです)
3、とにかく光秀派閥は四国の長曾我部と関係が深かった。しかも長宗我部元親の正室は斎藤利三の妹(異母?)なので特に関係が深かった。
4、最初信長は長曾我部は殲滅しないつもりだった。光秀派閥は長曾我部とともに四国に勢力を伸ばし、西国へ影響力を行使しようとした。
5、ところが「子供たちへの土地分配=相続問題」に悩んでいた信長?は、四国を殲滅しようとした。
6、そこで光秀派閥は本能寺の変を起こした。「四国討伐」が決まったとしても、光秀が担当するなら「まだ良かった」が?、四国征伐は織田信孝・丹羽長秀の担当となった。全国平定が終わったら光秀派閥は遠国にとばされる。(四国も遠国では?)これではもう織田信長を討つより光秀派閥には進む道がなかった。(なぜ?)それを主導したのは石谷家文章を読む限り、光秀というよりむしろ斎藤利三だ。つまり「光秀派閥だ」。だから「単独犯行説」も「直前に光秀が謀反を利三に打ち明けた」という説も、まったく成り立たなくなったのだ。
7、今までもこのことを筆者は指摘してきた。しかし江戸時代に書かれた資料(2次資料)を基にしたので検討されることが少なかった。ところが新しく石谷家文章という「1次資料」が2014年に公開された。これを読めば、「四国説」が「検討に値するものである」ことは明らか。光秀派閥が本能寺の変を起こしたのだ。織田家は血みどろの「派閥抗争の場」だったのだ。だから偶然ではなく、本能寺の変は派閥抗争の必然の結果なのだ。(どうして必然という言葉がでてくる?)
たぶん、7割程度は藤田さんの書いていることを「それなりに藤田さんの言う通りにまとめている」と思うのですが、このようにまとめても、何言いたいのかあまり正しくは理解できません。論理の筋道が通らないところが少なくないためです。
まとめている私の中で「なぜ?どういう理屈だ?」という言葉がガンガン響いて仕方ないのです。
一番重要なのは「光秀派閥」または「派閥」という言葉のようです。石谷家文章の中には長曾我部元親と斎藤利三が交わした手紙が含まれるのですが、もちろん「長曾我部を討つらしいので、明智家が信長を討って長曾我部を守ります」なんて書いてあるわけではありません。
そもそもずっと四国関係説を言ってきたが、無視されてきた。そこに石谷家文章が公開された。これこそ四国関係説の証拠というべきものなのだ。まあ「証拠なのだ」は言い過ぎかも知れないけど、これをきっかけに四国関係説を真剣に検討せよ。そう訴えているように私は読みました。
もし藤田氏ご本人、またはそのお弟子さんたちがこの文章を読んだら、「浅読みしかできない素人が何いってやがるんだ」と怒られると思います。いや怒る気もなくして無視されると思います。当時の資料を本の3分の1を使って載せているのだから、古文書に「注釈」を加えて欲しいと思います。「そんな必要はない学者向きの本」なのかと思うと、途中で「コラム」とかが出てきます。とすれば「素人向き」でもあるわけで、それにしてはあまりに「不親切」です。
私に分かったことは、なにか当時の文章(たぶん鑑定は済んでいるのでしょう)が出てくると、必ずそれに付随して「説」がまた増えるか、もともと存在していた「説」が「息を吹き返す」こと。
そしてある種の学者さんは、少し論理的におかしいと自分でも分かっているだろうに、自説を語る時には「必要以上の断定口調で語ること」です。
そもそも1次資料ってそれほど「信頼に足る」ものなのでしょうか。事実の叙述には必ず解釈が入ります。「今日は久々に空に雲があまりなかった」「今日は3日ぶりの快晴だった」、どっちも同じ事実を語っていても、そこに微妙な違いが生じます。しかも当時は「だましあい」の時代であり、書いた時点で既にウソなんて文章も沢山あると思います。「資料に語らせる」というと何か客観的、科学的という感じがありますが、果たしてどうなのでしょう。
むろん筆者さんたちが私の百倍も歴史知識があり、時間をかけて古文書を読んでいることは分かっています。分かっていても、、、。まあ、関係者の方ご免なさい。でも「素直な感想」です。
私は基本、本能寺の「説」に興味がないのですが、一応少しばかりは本能寺本を読んでいます。全部に「つきあっているヒマ」はありません。一番「心にストンと落ちる」のは「たまたま説」です。特に「奇妙」まで、つまり織田家当主の「織田信忠」まで討ち取ることができたのは「たまたま」だと思います。実際、一緒にいた信長の弟・長益、織田有楽は逃げ延びたわけです。
織田信忠が、少数とはいえまだ兵を持っていた丹羽・信孝軍までたどり着いて、そして生き延びていれば「清須会議」など開く必要もないわけです。家督は譲られていて、信忠は既に当主だったのです。「明智討伐に大功あり」ということで、秀吉が強引なことをしようとしたなら、信忠指揮のもと、柴田、丹羽、滝川、織田信雄、織田信孝が動き、秀吉派は駆逐されていたでしょう。秀吉は馬鹿ではないので、そんな行動はそもそもとらないはずです。秀吉は信忠との関係が良好であったと伝わっていますし、そんな無謀な行動をとるとも思えません。
信忠存命を知ったら、秀吉は大返しなどしなかったと考えることもできますが、そうなると柴田が帰ってきてしまい、秀吉にとっては不利な状況が生まれます。柴田が担当した越後にはもう謙信はおらず、上杉は存亡の危機でした。秀吉よりずっと帰ってくる「余裕」があったのです、したがって秀吉が信忠のもとで重臣になろうとするなら、やはり「大返し」をしたと思います。当時織田家では謀反が増えていましたから、秀吉は当然、京で何かが起きる「少しの可能性」は考えていたでしょう。準備もしていたかも知れません。信長が死ぬとは思ってなかったでしょうが。
「本能寺はたまたまだ」と声を大きくして言いたいわけではなく、「たまたま説」が今のところ一番筋が通っていると思うだけです。
どれを信じるかはあなた次第って感じで「次々と説が」出ますが、どれも「こじつけ」感が強すぎるからです。
藤田達生「資料でよむ戦国史・明智光秀」は三重大学の教授さんが書いた「明智光秀論」というか「本能寺の変の裏に四国あり」というご本です。
正直何言ってるかよく分からない(私の頭が悪いせいで)のですが、物理的に重い。単行本で400頁あります。値段も5000円。むろん図書館で借りたので買ってはいません。
最初の三分の一ぐらいは「古文書を活字にしたもの」がズラーと並んでいます。
まあ「四国関係説」に立つわけです。
1、光秀と家臣である斎藤利三は四国の長曾我部と関係が深かった。
2、光秀たち(これを光秀派閥というそうです)は、長曾我部氏を介して(介してって何?)、西国支配への影響力を行使しようとしていた。(どうやら長曾我部・毛利→毛利にいた義昭ラインというのがあるという前提みたいです)
3、とにかく光秀派閥は四国の長曾我部と関係が深かった。しかも長宗我部元親の正室は斎藤利三の妹(異母?)なので特に関係が深かった。
4、最初信長は長曾我部は殲滅しないつもりだった。光秀派閥は長曾我部とともに四国に勢力を伸ばし、西国へ影響力を行使しようとした。
5、ところが「子供たちへの土地分配=相続問題」に悩んでいた信長?は、四国を殲滅しようとした。
6、そこで光秀派閥は本能寺の変を起こした。「四国討伐」が決まったとしても、光秀が担当するなら「まだ良かった」が?、四国征伐は織田信孝・丹羽長秀の担当となった。全国平定が終わったら光秀派閥は遠国にとばされる。(四国も遠国では?)これではもう織田信長を討つより光秀派閥には進む道がなかった。(なぜ?)それを主導したのは石谷家文章を読む限り、光秀というよりむしろ斎藤利三だ。つまり「光秀派閥だ」。だから「単独犯行説」も「直前に光秀が謀反を利三に打ち明けた」という説も、まったく成り立たなくなったのだ。
7、今までもこのことを筆者は指摘してきた。しかし江戸時代に書かれた資料(2次資料)を基にしたので検討されることが少なかった。ところが新しく石谷家文章という「1次資料」が2014年に公開された。これを読めば、「四国説」が「検討に値するものである」ことは明らか。光秀派閥が本能寺の変を起こしたのだ。織田家は血みどろの「派閥抗争の場」だったのだ。だから偶然ではなく、本能寺の変は派閥抗争の必然の結果なのだ。(どうして必然という言葉がでてくる?)
たぶん、7割程度は藤田さんの書いていることを「それなりに藤田さんの言う通りにまとめている」と思うのですが、このようにまとめても、何言いたいのかあまり正しくは理解できません。論理の筋道が通らないところが少なくないためです。
まとめている私の中で「なぜ?どういう理屈だ?」という言葉がガンガン響いて仕方ないのです。
一番重要なのは「光秀派閥」または「派閥」という言葉のようです。石谷家文章の中には長曾我部元親と斎藤利三が交わした手紙が含まれるのですが、もちろん「長曾我部を討つらしいので、明智家が信長を討って長曾我部を守ります」なんて書いてあるわけではありません。
そもそもずっと四国関係説を言ってきたが、無視されてきた。そこに石谷家文章が公開された。これこそ四国関係説の証拠というべきものなのだ。まあ「証拠なのだ」は言い過ぎかも知れないけど、これをきっかけに四国関係説を真剣に検討せよ。そう訴えているように私は読みました。
もし藤田氏ご本人、またはそのお弟子さんたちがこの文章を読んだら、「浅読みしかできない素人が何いってやがるんだ」と怒られると思います。いや怒る気もなくして無視されると思います。当時の資料を本の3分の1を使って載せているのだから、古文書に「注釈」を加えて欲しいと思います。「そんな必要はない学者向きの本」なのかと思うと、途中で「コラム」とかが出てきます。とすれば「素人向き」でもあるわけで、それにしてはあまりに「不親切」です。
私に分かったことは、なにか当時の文章(たぶん鑑定は済んでいるのでしょう)が出てくると、必ずそれに付随して「説」がまた増えるか、もともと存在していた「説」が「息を吹き返す」こと。
そしてある種の学者さんは、少し論理的におかしいと自分でも分かっているだろうに、自説を語る時には「必要以上の断定口調で語ること」です。
そもそも1次資料ってそれほど「信頼に足る」ものなのでしょうか。事実の叙述には必ず解釈が入ります。「今日は久々に空に雲があまりなかった」「今日は3日ぶりの快晴だった」、どっちも同じ事実を語っていても、そこに微妙な違いが生じます。しかも当時は「だましあい」の時代であり、書いた時点で既にウソなんて文章も沢山あると思います。「資料に語らせる」というと何か客観的、科学的という感じがありますが、果たしてどうなのでしょう。
むろん筆者さんたちが私の百倍も歴史知識があり、時間をかけて古文書を読んでいることは分かっています。分かっていても、、、。まあ、関係者の方ご免なさい。でも「素直な感想」です。
私は基本、本能寺の「説」に興味がないのですが、一応少しばかりは本能寺本を読んでいます。全部に「つきあっているヒマ」はありません。一番「心にストンと落ちる」のは「たまたま説」です。特に「奇妙」まで、つまり織田家当主の「織田信忠」まで討ち取ることができたのは「たまたま」だと思います。実際、一緒にいた信長の弟・長益、織田有楽は逃げ延びたわけです。
織田信忠が、少数とはいえまだ兵を持っていた丹羽・信孝軍までたどり着いて、そして生き延びていれば「清須会議」など開く必要もないわけです。家督は譲られていて、信忠は既に当主だったのです。「明智討伐に大功あり」ということで、秀吉が強引なことをしようとしたなら、信忠指揮のもと、柴田、丹羽、滝川、織田信雄、織田信孝が動き、秀吉派は駆逐されていたでしょう。秀吉は馬鹿ではないので、そんな行動はそもそもとらないはずです。秀吉は信忠との関係が良好であったと伝わっていますし、そんな無謀な行動をとるとも思えません。
信忠存命を知ったら、秀吉は大返しなどしなかったと考えることもできますが、そうなると柴田が帰ってきてしまい、秀吉にとっては不利な状況が生まれます。柴田が担当した越後にはもう謙信はおらず、上杉は存亡の危機でした。秀吉よりずっと帰ってくる「余裕」があったのです、したがって秀吉が信忠のもとで重臣になろうとするなら、やはり「大返し」をしたと思います。当時織田家では謀反が増えていましたから、秀吉は当然、京で何かが起きる「少しの可能性」は考えていたでしょう。準備もしていたかも知れません。信長が死ぬとは思ってなかったでしょうが。
「本能寺はたまたまだ」と声を大きくして言いたいわけではなく、「たまたま説」が今のところ一番筋が通っていると思うだけです。
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