秀吉を描く、のは難しいですね。例えば司馬さんの「新史太閤記」は「家康の上洛」で終わっています。秀吉の死の10年以上前です。侵略者秀吉を描かなかったという批判は当たってなくて、「描けなかった」が正解だと思います。大河「秀吉」(竹中直人)でも、朝鮮侵略や秀次切腹、側室皆殺しはまともには描かれません。
一つには韓国との関係もあるでしょう。ただし司馬さんが「太閤記」を書いた時、日本と韓国の国交は「あってなきようなもの」で、ある意味今より簡単でした。朴政権が暗殺によって倒れたのが、1979年。あの頃は実質断絶状態でしたから、今より難しくなかったのです。対話がないのですから。
韓国では秀吉は大悪人ですね。今は秀吉をどう描くか、に興味をもっている韓国の方も多いでしょう。それから逆に、反韓国の人も国内にいます。そういう人たちも秀吉の描き方を厳しくチェックするでしょう。一言でいえば「政治性をはらんで」しまう。
だから秀吉の描き方は難しいのです。
大河「秀吉」では大政所の「なか」が、唐入り(朝鮮出兵)に大反対します。他の人々もそうです。最近までの朝鮮出兵(侵略)の描き方はだいたいそうでした。しかし、「真田丸」はそこをスルーしています。大政所は全くの田舎の老女で、秀吉に意見する人間として設定されていないのです。だから当然のごとく、秀吉が気絶したという伝説がある、有名な「大政所の死」も描かれませんでした。
まあ、この文章だって、唐入りと書いたり、朝鮮出兵と書いたり、朝鮮侵略と書いたり、用語が定まらないから、色々書き方が変わっています。
秀吉が目指したのは「明の征服」です。「朝鮮は通り道」ぐらいの認識でした。だから「唐入り」、「明出兵」が正確なのかもしれませんが、明には全く届かず、朝鮮で秀吉は敗れます。
三谷さんも苦労しているように思います。
秀吉は「もうろく」して出兵した、ってのは国内の受けが悪いので否定します。そして秀吉は国内の戦意を他に向けるために出兵、とします。後者は普通の説ですね。今までは「かなりもうろくした挙句、国内の戦意を他に向けるために出兵」ってのが通説でした。前者のみ否定します。
利休切腹、これは韓国とは関係ありません。今までは三成らの策謀。今回は三成を「よく描く」わけですから、「利休が敵にものを売った。それを大谷刑部が政治問題化した。」ってことにされています。
秀次切腹、これは秀吉のもうろく、それから三成、茶々ら近江派がそこにつけこんで行ったという風に描かれることが多かった。今回は、秀吉も秀次も、三成も茶々も「よく描く」ことになっているようで、「誰も悪くない。秀次が勝手に不信、不安に陥って切腹」となっています。秀吉はかわいさあまって憎さ百倍、側室子供を皆殺し、と全然筋の通らない行動をとります。史実と「よく描く」という方針の間で苦労し、かなりというか全くもって無理な脚本になってしまいました。「かわいかった」なら、なんで「側室子供皆殺し」なんでしょうか。
難しいのだな。と思います。
どうも「まとめ」ができないので、新史太閤記(司馬さん)の終わり方に触れておきます。
家康上洛で、終わることはもう書きました。家康は秀吉に羽織をねだり、「自分が戦をする。二度と殿下に陣羽織は着させません」と言います。有名なシーンです。
新史太閤記は「その夜」で終わります。
ねね、が言います。よく徳川殿がそのようなことを申されましたね、と。
それに対して、秀吉が応じます。「なに、狂言よ」
そして、秀吉は自分の今までの人生がずっと狂言であったように感じた。
新史太閤記の終わり方です。まとめがない文章ですが、眠くなってきたので以上です。
一つには韓国との関係もあるでしょう。ただし司馬さんが「太閤記」を書いた時、日本と韓国の国交は「あってなきようなもの」で、ある意味今より簡単でした。朴政権が暗殺によって倒れたのが、1979年。あの頃は実質断絶状態でしたから、今より難しくなかったのです。対話がないのですから。
韓国では秀吉は大悪人ですね。今は秀吉をどう描くか、に興味をもっている韓国の方も多いでしょう。それから逆に、反韓国の人も国内にいます。そういう人たちも秀吉の描き方を厳しくチェックするでしょう。一言でいえば「政治性をはらんで」しまう。
だから秀吉の描き方は難しいのです。
大河「秀吉」では大政所の「なか」が、唐入り(朝鮮出兵)に大反対します。他の人々もそうです。最近までの朝鮮出兵(侵略)の描き方はだいたいそうでした。しかし、「真田丸」はそこをスルーしています。大政所は全くの田舎の老女で、秀吉に意見する人間として設定されていないのです。だから当然のごとく、秀吉が気絶したという伝説がある、有名な「大政所の死」も描かれませんでした。
まあ、この文章だって、唐入りと書いたり、朝鮮出兵と書いたり、朝鮮侵略と書いたり、用語が定まらないから、色々書き方が変わっています。
秀吉が目指したのは「明の征服」です。「朝鮮は通り道」ぐらいの認識でした。だから「唐入り」、「明出兵」が正確なのかもしれませんが、明には全く届かず、朝鮮で秀吉は敗れます。
三谷さんも苦労しているように思います。
秀吉は「もうろく」して出兵した、ってのは国内の受けが悪いので否定します。そして秀吉は国内の戦意を他に向けるために出兵、とします。後者は普通の説ですね。今までは「かなりもうろくした挙句、国内の戦意を他に向けるために出兵」ってのが通説でした。前者のみ否定します。
利休切腹、これは韓国とは関係ありません。今までは三成らの策謀。今回は三成を「よく描く」わけですから、「利休が敵にものを売った。それを大谷刑部が政治問題化した。」ってことにされています。
秀次切腹、これは秀吉のもうろく、それから三成、茶々ら近江派がそこにつけこんで行ったという風に描かれることが多かった。今回は、秀吉も秀次も、三成も茶々も「よく描く」ことになっているようで、「誰も悪くない。秀次が勝手に不信、不安に陥って切腹」となっています。秀吉はかわいさあまって憎さ百倍、側室子供を皆殺し、と全然筋の通らない行動をとります。史実と「よく描く」という方針の間で苦労し、かなりというか全くもって無理な脚本になってしまいました。「かわいかった」なら、なんで「側室子供皆殺し」なんでしょうか。
難しいのだな。と思います。
どうも「まとめ」ができないので、新史太閤記(司馬さん)の終わり方に触れておきます。
家康上洛で、終わることはもう書きました。家康は秀吉に羽織をねだり、「自分が戦をする。二度と殿下に陣羽織は着させません」と言います。有名なシーンです。
新史太閤記は「その夜」で終わります。
ねね、が言います。よく徳川殿がそのようなことを申されましたね、と。
それに対して、秀吉が応じます。「なに、狂言よ」
そして、秀吉は自分の今までの人生がずっと狂言であったように感じた。
新史太閤記の終わり方です。まとめがない文章ですが、眠くなってきたので以上です。
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