我が国民が皇室に厚い忠誠の念をもっていることは、上古以来少しも変らぬ。武家時代、大権の下に移ったのを見て、全く尊皇心がなくなった時代と思うのは皮相の見に過ぎぬ。外人などは往々そういうことを言う。これは自分等の国柄から考えるからである。権臣が寵恩に慣れて専横な政をしたり、将軍が兵馬の権を握ったりした事実は、国史の上ではもちろん面白くない現象に相違ない。然しその間は頼三樹三郎が歌ったように「天辺大月缺光明」の時代で、いわば浮雲が天日を蔽うたのである。決して本来の日がなくなったのではない、天下の人は皆天日の空にあることを知って居ったのである。兵馬の権を掌握した公家様でも、やはり天皇の臣下で天皇から爵位を戴いていることを知って居った、天皇の御代理として国民の上に立っていると信じて居ったのである。天皇が政治からお離れになっても、天皇の御威光は少しも衰えては居らぬ、却ってますます神聖なものと見上げて、いよいよ神と同様に尊崇するようになった。公家様を見ても何とも思わぬが、九重深くまします禁裏様を拝めば、目が潰れると信じて居った。藤原氏の摂生関白時代でも同様で、幼冲の天子を擁立し奉りて、摂関が政権を恣にしても、皇室の尊厳なることは少しも変らぬ。摂関時代も、武家時代も、そこに何らの差別はない。摂生や、関白や、将軍や、彼等自身もまた政権を握っているが、皇室を尊敬し奉るの念を失わず、朝廷の恩寵を笠に着て、下に号令したのである。西洋人は国史を見てもその皮相を見るのみであるから、武家時代は国民が全く朝廷を忘れた時代かと早合点する。久しく日本にいて、日本文学に通暁しているチャンバレン氏でさえ、やはりそう信じている。それで徳川以来起って来た水戸の尊王論、国学者の愛国論を以て、一旦廃れたものの復興のように考え、今の教育は全くミカド崇拝を教える為に、為政者が工夫をしたもののように論じている。焉んぞ知らん、我が尊皇心は、摂関時代も、武家時代も、一貫して国民の間に磅礴して居ったことを。それは藤田東湖の正気の歌に、
神州誰君臨。 萬古仰天皇。 皇風洽六合。
明徳侔太陽。 不世無汚隆。 正気時放光。
といった通り、歴代時々現れている。民主的王国たる英国の国民には、どうしても日本の尊皇心は了解できかねるのである。
我が国文学を見れば、常にこの精神が発揮せられている。見よ見よ、上代の祝詞は祭祀の文学にて、即ちマツリゴトの詞である。柿本人麿の長歌は更にこれを抒情歌に応用して、奈良時代の雄大な長歌を成し得たもので、常に神代より説起こし、山川もよりて仕うる大君と歌ったのである。和歌を基礎として起った平安時代の物語、日記は、つまり朝廷の雅を写し、その儀礼を記載したものである。紫式部にしても、清少納言にしても、低い身柄でありながら、身は月卿雲客と伍して至尊に近く待った名誉を筆述したのである。これを無上のほまれと思惟して、宮中の見聞を記載したのである。然るべき人の女などは、禁中に宮仕されるがよいといい、宮中の御模様を見ては、常に有難涙のこぼれることを叙している。枕草子は全部がその時代の懐奮談である。これ等の書物の読者もまたこれによって宮中の模様を余所ながら窺い知ることを喜んで、面白く読んだのである。延喜時代に和歌の勅撰集が始まって以来、歌人は勅撰集にその詠に入るのを無上の名誉と感じた。歌と朝廷とはここに全然離るべからざるものとなった。太古から存在して、形式も言語も純日本であるところが、皇室と同じである。敷島の道と称し、葦原の道の名のあったのもこれが為である。近世の慷慨家に家人が多く、歌人が常に尊皇家であった理由も、これで理解せられる。平家物語などの軍記物語、それの一転して劇化された謡曲の類が常に神祇を尊び、皇室を崇めることはいうまでもない。
概して厭世主義のはびこったという鎌倉時代の文学にも、尊皇の思想は絶えず繰返されている。
御門の御位はいとも畏し、竹の園生の末葉まで人間の種ならぬぞやんごとなき。
衰たる末の世とはいえど、なお九重の神さびたる有様こそ世づかずめでたきものなれ。
などと言ってある。かく朝廷を崇める思想が即ち有職故実の学問の起こった所以である。「何事も古き世のみ慕はしき。」というので、平安朝の典雅なみやびをしのぶ当時の時代精神を成し、従って所謂擬古文は徳川時代の国学者が作り始めたものでなく、既に鎌倉時代に起っている。徳川時代の戯曲、小説は多く武士道を主としているので、朝廷を歌わないが、直接に朝廷をおとしたものは一つとしてない。況や徳川時代には国学者の歌文に於いても、漢学者の詩文に於いても、尊皇を歌ったものは、時代の切迫とともに益々多くなって来た。これを要するに、太古から今日まで、如何なる文学を見ても、皇室に対して不平がましい言は半句としてない。国民が朝廷を忘れたように見える時代はあっても、決して忘れたのではない。衷心からの尊敬心は毫も渝らなかった。この国土は即ち皇室と共に存在する諾、册の両尊国土を産ませられて、次に天照大神を産ませられたという上代思想は、厳として遺っているのである。
西洋では王室と国土との関係が密接でない。外国の王族は二三百年の昔に遡れば、地方の豪族ぐらいなのが多い。それ故祖国を譲れということを教える。且つ大抵の国歌は、国民の自由を歌い、国家の繁栄を歌うことが主になっている。米国のはもとより、英吉利のルール・ブリタニヤでも、フランスのマルセーユでも皆それである。よし国王を歌うにしても、「神よ国王に幸せあれ。」と、国王以外にゴッドを考えている。我が国の君が代はただ簡単に御代長久を祝してある、これが即ち国家である。皇室の繁栄は即ち国家の繁茂である。而してまた臣民の繁栄である。これを区別して歌う必要はない。
諸外国は最初から皇室と国土とが離れている国風である。政体が幾変遷し、主権者が幾たび新たになろうとも、国家は依然として在続するであろう。それに反して、我が日本は皇室と国土は切っても切られぬように結びついている。皇室の御繁栄は即ち国家の繁栄であることを知ると同時に、皇室なくして日本国もなく、日本人も存在し得られぬということを深く念はねばならぬ。
~昭和5年の中学校教本から~ 意味の分からない文章はそのまま書き写した。
日本の国境は海の上なので容易に他国から侵略されることが無い。中国など大陸では陸の上に国境があるため、国境線を守るのは大変。それに比べ日本は恵まれているので皇族文化が繁栄することが出来た。実際は武士が支配して天皇なんてただのお飾りに過ぎなかったのだが。日本の国民はいかなることが有ろうと天皇をトップに戴いてそれを曲げることが無かった。それが現在の日本の繁栄に繋がっている。外国には見られない誇るべき姿だと思う。もし天皇制度を廃止したら日本国も諸外国と同じように不安定な国家になるかも知れない。
太平洋戦争の終結も天皇のお言葉があったからで、もしそれが無かったら、確実に内乱になっていただろうと思う。それだけ天皇に対する信頼が高かったのだ。