御守殿寄付の鳥居
この鳥居は明治4年 加賀藩第13代前田斉泰卿が御城内金谷御殿の八幡宮を徳用村へ寄進になられました。斉泰卿夫人の溶姫様は徳川家から嫁がれた方であり「御守殿」と称えられました。
文久3年、この鳥居を御寄付なされました。徳用村へ移築後は損傷が激しく、昭和3年3月に花崗岩製の鳥居と建て替えられました。~石碑より
拝殿
昔のままの建物だ。
手を加えないのが価値があるのだろうか。
随分芸術的な松の木があった。
溶姫とは
文化10年(1813年)、江戸城大奥にて誕生。文政6年(1823年)に前田斉泰との婚約が調い、文政10年(1827年)11月27日、前田斉泰と結婚。この時、加賀藩邸に建てられた溶姫御殿の正門が現在の東京大学赤門であることは有名である。結婚後、溶姫自身は加賀藩にとけ込もうと努力したが、大奥からつけられた溶姫付き女中達は尊大で、加賀藩の女中や藩士を馬鹿にすること甚だしかったという。一方、溶姫自身が夫を軽んじていたという話も残っている。~フリー百科事典『ウィキペディア』より
1、新地70石 猪山金蔵。
金蔵儀、数年かれこれ役儀に情を入れ、あい勤め候に付き、かくの如く新知これをくだされ、「溶姫君様御住居付御勘定役」仰せ付けらる。只今迄、下し置かれ候切米は、これをさし除かる。~磯田道史著 武士の家計簿より
大奥から多くの金食い虫が付いてきて、加賀藩を困らせたようです。会計係の猪山家はとんでもないお役目をもらったようだ。
徳用村肝煎(村の長)の仕平の夢に、金沢城内の神様が現れ「徳用村へ行きたい」とのお告げがあり、打ち首覚悟で金沢の金谷御殿へ行き譲り受けの願いをしたところ、殿様も同じ夢を御覧になったと言う伝承があります。
昔の人、凄かった、命がけの嘆願書を提出したのだ