糸田八幡神社
社額には日吉神社と書いてあるが神社庁のホームページにはどういうわけか「糸田八幡神社と載っている。
もしかしたらこことは違う場所にあるのかなと地図で確かめたが別の所にはそれらしき神社は見当たらない。
境内には何の看板もないのでどんな謂れがあるのかも、どんな経緯を辿っているのかもわからない。
木もあまりなく 見通しのいい神社だ。
東力会館
これも地図で調べたら、ここは糸田町。東力とは隣の町。どうして外の町内に集会場があるのだろう。
科学が進歩した現代に果たして神の存在を信じる人がいるのだろうか・・・・。
初詣に行くと物凄い人。道路には長い車の列。いつになったら駐車場に入れるのやら・・・・。
それでも粘り強く順番を待っている。
地元に氏神様がいらっしゃるのに、どうしてこんな遠くにわざわざ出てくる必要があるのだろうか。
亀は考えた。神の存在とはなんなのだろう。
いる筈のない神になんで参拝するのだろう。
なんて考えると頭が変になりそう。
そこで亀は考えた。
彼らは神の存在を信じてお参りに来ているのではない。
新年に初詣をするのは、「昔からのしきたりだから」「みんながやっているから」「何もしないよりお宮さんで願をかけた方がいい」なんて考える。
彼らは神様より社会性の方を重んじている。
それで社会人の一員になることに願いをかけている。
各家庭には神棚がある。その神棚にどれだけの人が手を合わせているだろうか。
家の神様をほったらかしにして、目に付く有名神社に参拝することに満足感を覚えている。
なんていったら、本気で怒られる方もいるかもしれない。
神様がいるからお祭りがある。神社があるからそこに人が集まる。
日本人は神社をコミニケーションの場として利用していた。
それで集落の人々の心を一つにして行ったのだ。
神は信じなくても神社の果たす役割には大きい。
亀は神社に対する考え方を変えて行かなければならないと思った。
今年は霊験あらたかな気持ちで参拝してきた。
いる筈のない神様に・・・・・・。
それでいいんだ。それでいいんだ。