かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

安楽死

2019-03-07 08:24:35 | ブログ記事
なぜ私が今日こんなタイトル記事を書こうとしたのかというと、

昨年の昨日の記事が

「安楽死したい人は橋田寿賀子さんだけじゃない」

であったからである。

なぜこの記事を書いたか、記憶は定かではないが、
何かのサイトを見て書いたのだろう。

安楽死と言えば、オランダでは最近、安楽死が法制化されたとか?

また実際の安楽死の方法も提示されている?

私は、昨年も書いているが、私自身、安楽死に関心がある。

あるときは、聞こえないことは、死に匹敵するほど辛いことである。あった?

それで今も安楽死に関心を持っているのだが、

それよりも、現在、安楽死をしたいであろう友人がいるからである。

慰めることはできる。

しかし、その慰めは、しばしば慰める側の自己満足であることも多い。

本当のその人の悲しみ、苦しみは、いくら同情したところで、やはり他人事である。

それなら、いっそ同情もしないで見守るほうがいいのではないかと思ってしまうこともある。

先月、兵庫県の福崎というところを訪ねたとき、
民俗学者、柳田國男の生家を見学するとともに、
歌人、岸上大作の生家も探した。

残念ながら探し出すことはできなかったが、彼は、自死したことでも有名な歌人である。

原因は失恋というふうに言われているが、
その評伝を読ませてもらっていると、決してそれだけはなかったようである。

彼の家は、父親が戦病死していたから貧しかった。

彼のお母さんは、長男だった大作を無理して大学まで行かせて、期待した。

が、大作は、お母さんの期待を裏切って自殺してしまった。

こんな親不孝なことがあるだろうか。

しかし、人生を儚んで自殺する人には、そんなことは知っちゃいないことなのだろう。

世間の良識ある人は、彼を責めるだろう。

が、死ぬ人には何を言っても無駄だ。

現在、私の友人で、自死したがっている人も、止めても無駄かもしれない。

しかし、このことに気づいていて、止めないのもどうだろう。


*

★死にたきといふ一人(いちにん)を慰めることも不遜のごとく思へて

★神様に与へられたる命とは言へど命は持ち主のもの

★耐えきれぬ境遇なれば死ぬことを選ぶ人ゐて不思議はなけれ

★生存を祈る親族死にたれば後は野となり山となりても