かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

映画『小さいおうち』BSプレミアム・・・昔、行儀見習いをした私

2019-03-15 16:47:06 | ブログ記事
今日の午後、BSプレミアムで映画『小さいおうち』を観た。

始まったばかりだったが、最初から観られなかったのは少し残念だった。

それほど期待しないで観たせいか、最近になく、感動した。

この映画は、中島京子による日本の小説を山田洋二監督が映画化したもののようだが、
わざわざ小説を読まなくても十分見ごたえがあると思ったが、読むとどうだろう?

物語の主人公タキの晩年の倍賞千恵子の老婆もよかったし、
若い女中さん時代の黒木華も可愛くてよかった。

もちろん奥様役の松たか子もよかったが、
ただ優しい奥様とタキが慕うには、少しキツイ感じは否めなかった。

というより、「松たか子」が抜け切れていないというか。

もう少し優しい雰囲気の女優さんが演じたほうが、もっと原作のよさが活かせたかもしれない。

松たか子は松たか子で素晴らしい女優さんだとは思うけれども、この映画に限っては。

映画を観ながら、
私も結婚前に行儀見習いという、女中の真似事のようなことをしたことを思い出した。

母が、昔は結婚前に、どこか大きな家でしつけをしてもらったものだと言い出して、
当時高知県で一番金持ちと言われていた一族の東京のお屋敷でたった一か月間だけ奉公した。

昨年亡くなった母は、思いついたら、何でも、すぐに実行する人だったので、
その行儀見習いも母の思い付きのせいだった。

奉公したのが、たった一か月間だけだったのは、私が逃げ出したからだった。(苦笑)

家で甘やかされていた私に厳しい女中など務まるはずもなく、たった一か月で音を上げて、
母に迎えに来てもらった。

しかし、たった一か月間でも、ずいぶん貴重な体験をさせてもらえたと思っている。

厳しかったとは言っても、
その家の若奥様は、中高校の先輩であったし、
その家の旦那様も奥様も坊ちゃんたちも、みな慶応卒か慶応幼稚舎に在学中であったから、
兄が慶応大学卒の私は、ほかのお手伝いさん達と比べたら、特別扱いであった。

若奥様は、私には、なんでも話してくれたし、
小学生だった坊ちゃんたちも私には一目おいてくれた。

なにしろ、今朝の記事にも書いたように、私の兄が慶応卒ということが大きかった。

また若奥様のお姉さんは、高知県で初めて東京大学に入学した女性だったらしかったが、
私の父の卒業大学が東京帝大だったこともあり、行儀見習いとはいっても、
ずいぶん大事にされたと思う。

学歴というものは生きていく上で特に必要なものではないが、
しかし、こういうときには力を発揮する?

それでも、早朝からの広いお屋敷の掃除は大変だったし、お風呂は家族皆が出たあとで、
その大きなお風呂(湯舟だけで畳三畳ほどもあった)の掃除もしないといけないのは辛いことだった。

大奥様が時々洋服地などをくださって、洋裁を教えてくださることもあったし、
刺繍などを教えてくださることもあった。

食事の支度のときも、洋風、和風の料理の手ほどきもしてくださったし、
野菜の切り方なども一から教えてくださった。

なにしろ私は、
銀行を退職して、そのまま行儀見習いに入ったから、何もできない女中であった。

思い出してみれば、ずいぶんよくしていただいたと思うが、
朝から晩までの重労働に耐えられなかったのと、
同僚の?女中さんとの付き合いも耐えられなかった。

今までの私の交友関係からは考えられないような人達であったから、
どう付き合えばいいか戸惑うところもあった。

が、過ぎてしまえば、よかったことだけが思い出として残っている。

*

★女中とふ行儀見習ひさせられてたつたひと月のみで逃げ出す

★女中部屋豆電球しか付かざれば夜の読書もできざりしかな

★寝起きするベッドは二段ベッドにて上に先輩女中はをりき

★やすみなく働かされてゐたりけり身体丈夫であらざるわれは

★休日は二週に一度だけなりき行先告げて行かねばならず

★東京に就職してゐし友の住む部屋に転がりこみしわたくし

★限界になりて迎へを頼みしは住み込みはじめてひと月ののち

*

昨日は、ひと月のみと書いたが、よく考えてみたら、三月くらいいたかもしれない。
ひと月だけにしては、たくさんのことがありすぎたから。

横浜の親戚の家

2019-03-15 08:53:09 | ブログ記事
今から55年ほど前、今は亡き兄が慶応大学に合格して、
横浜の日吉キャンパスに通うため横浜に下宿することになった。

が、高知県という田舎から、いきなり都会での生活は不安だろうからと、
母方祖父が自分の横浜在住の従妹に手紙を書いて兄の世話を頼んでくれた。

祖父の従妹家族は大歓迎してくれて、兄は土日はその家に滞在するようになった。

そのよしみで、私と母もその家に逗留させてもらったことがあった。

そこのお爺さんは、昔の神戸高商(今は神戸大になっているかな)を卒業して、
商社を勤め上げた人だったが、少し変わり者だった。

が、どういうわけか大工の素養があって、
横浜のその自宅は、そのお爺さんが、その長男に手伝わせて自分で建てたと聞いた。

「へえ~、素人がこんな家を?」と驚いたことを覚えている。

さらにその家には離れもあって、その離れは来客用だった。

その離れの家に布団を敷きっぱなしのままにして、何日滞在してもいいと言われて、
母と私は1週間くらい滞在させてもらった。

その家の所在地は、関内という駅を降りた山手にあって、石段を上っていったのを覚えている。

けっこう広い敷地だった。

或る日、その広い庭で、その祖父の従妹は、そのお連れ合いのお爺さんの散髪をしてあげていた。

なんでも、そのお爺さんは散髪屋に行くのが嫌いで、いつも奥さんに散髪をさせるということだった。

そんな光景も覚えているから、あまり裕福な家とは思わなかった。

が、先日、横浜在住の方のブログに、そのことを書くと、
関内の駅から行く山手は高級住宅地ですと。

え、そんなふうには見えなかったけど?

ただ、その家のご長女は、電話で外人と喧嘩ができるというくらい英語がペラペラで、
当時はまだ女性が自家用車(今はこんな呼び方はしない?笑)で通勤すのは珍しい時代に
それをしていたから、かなりのキャリアウーマンだったかもしれない。

そのお爺さんは、
英語も、ネイティブの人と、面と向かってでならともかく、
顔の見えない電話で喧嘩ができるようになって初めて本物と言えるという持論を持っていて、

自分の娘がそれができることを自慢していた。

その娘さん(といっても私から見れば小母さん年齢だった)は、
出勤するときも、最先端のおしゃれをしていたが、
帰宅すると、その反動からか、よれよれの服で過ごしていた。

家族の様子がそんなだったから、余計、お金持ちのようには見えなかった。

その後、そのお婆さんが亡くなって、兄も亡くなったから、
その家とも音信不通になってしまったが、いまはどうしていられるだろう。

その家のご長男は、当時、さる国立大学の助手か助教授をされていたけれど、
その変わり者のお爺さんが、理由は忘れたが、大学に文句をつけて辞めさせたと聞いた。

その後、どこかに転職されたと記憶しているが、まもなく亡くなられたと風の便りに聞いた。

夭折と言える年齢だったと思う。

息子さんは、とても人柄のよい、おっとりした方だった。

そんなことを、いろいろ思い出したが、兄が亡くなってしまった現在、
そんな昔のことを聞ける人もいなくなってしまった。

この歳になると、忘却のかなたに消えていく記憶も多いと実感する。

*

★関内といふ駅ちかくに親戚の家ありしこと思ひだしたり

★眺めよき庭でありにし親戚の家に逗留せしことなども

★親戚の家は素人親子にて建てしと聞きし半世紀まへ

*

たしか親戚の家の横にフェリス女学院があったように記憶しているけれど、
いま地図で確かめると、フェリス女学院は関内の近くではなさそうですね。

ということは、関内と記憶していたのが記憶違いか、
あるいは、フェリス女学院と記憶していたのが記憶違いかということになりますね。

それともフェリス女学院が引っ越した?

私が田舎育ちのお上りさんだったから、記憶が定かでないんですよ。