神田祭.ch公式ブログ

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神田五軒町々会

2005-05-15 09:59:00 | 神輿(外神田連合)

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 神田五軒町々会が宮入りしてまいりました。

 「五軒町」の名前の由来は、江戸時代、この界隈(かいわい)に、上総久留里(かずさくるり)藩黒田家上屋敷(かみやしき)、下野黒羽(しもつけくろばね)藩大関(おおぜき)家上屋敷、安房勝山(あわかつやま)藩酒井家上屋敷、播磨林田(はりまはやしだ)藩建部(たてべ)家上屋敷、信濃上田(しなのうえだ)藩松平(まつだいら)家下屋敷(しもやしき)と、五つの大名屋敷が並んでたことから付けられました。

 明治維新のとき、政府によってこれらの屋敷は召し上げられ、明治5年(1872年)に、この地は神田五軒町(かんだごけんちょう)と名付けられ、人家が立ち並ぶようになりました。
 
 明治44年(1911年)には、町名は神田が外され「五軒町」となりましたが、昭和22年に神田区と麹町(こうじまち)区が合併して千代田区になると、ふたたび神田五軒町に戻りました。そして、昭和39年、住居表示の実施にともなって外神田六丁目(そとかんだろくちょうめ)となりました。

 町会の該当区域は、外神田六丁目3番地5・6号、4~16番地となっています。




外神田一丁目万世橋会

2005-05-15 09:50:00 | 神輿(外神田連合)

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 外神田一丁目万世橋会の宮入です。

 萬世橋の名前は、明治6年(1873年)、昌平橋(しょうへいばし)よりもやや下流に架けられた「萬代橋(よろずよばし)」に由来します。いつからかこの橋は「まんせいばし」と呼ばれるようになりました。

 江戸時代、この界隈(かいわい)は、下谷御成道(したやおなりみち)へ出る道筋にあり、人の行き交う町でした。またここは神田川河岸で、年貢米や野菜などを運び込む水運の拠点でもありました。江戸時代の地図にある「神田通船屋敷(かんだつうせんやしき)」は、幕府が手がけた見沼代用水(みぬまだいようすい)の難工事を成功させたことにより、時の将軍より用水路の通船を許可された高田家の邸地でした。神田におきましても由緒ある名家の一つです。

 当時武家地だった神田仲町(かんだなかちょう)と神田花房町(かんだはなぶさちょう)は、享保(きょうほう)年間(1716~1736)に町屋となり、商人や職人が移り住むようになりました。また、神田花田町(かんだはなだちょう)は、明治2年(1869年)、武家地だった花房町代地(はなぶさちょうだいち)と須田町代地(すだちょうだいち)をあわせ、両町から一字ずつ取ってできた町です。地元の萬世橋町会は、戦後その三つの町にまたがって成立した町です。昭和39年(1964年)、これら三つの町は外神田一丁目(そとかんだいっちょうめ)に変わり、現在に至っています。

 町会の該当地域は、外神田一丁目1番地8~14号、2番地、4番地9~17号、10~17番地となっています。




外神田三丁目金沢会

2005-05-15 09:40:00 | 神輿(外神田連合)

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 外神田三丁目金沢会が宮入りしてまいりました。

 金沢町(かなざわちょう)は神田明神下にあり、御成街道に沿った町屋でした。1657年の明暦の大火以前は東本願寺の境内地でした。その後は加賀(かが)金沢藩前田家の中屋敷(なかやしき)となりました。加賀藩は、藩主の居城(きょじょう)が金沢にあったことから「金澤(かなざわ)藩」ともいわれていました。つまり、外神田三丁目に「金澤」という町名が伝わるのは、かつて加賀藩の藩邸があったからです。

 前田家の上屋敷は、天和(てんな)2年(1682年)の火事で類焼し、幕府に没収されます。その翌年になると、湯島一丁目の職人や商人たちがそこに代地を与えられて移転してきましたが、金澤という町名はそのまま受け継がれていきました。  

 町会の該当区域は、外神田三丁目2・3・4・11番地となっています。



神田旅籠町会

2005-05-15 09:30:00 | 神輿(外神田連合)

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 神田旅籠町会が宮入りしてまいりました。

 外神田旅籠(はたご)町は、昌平橋(しょうへいばし)の北側にあたります。旅籠(はたご)が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになりました。「ハタゴ」とは旅の食物雑品を入れる籠のことです。
 
 また、この土地には有名な寺子屋の、「芳林堂」がありました。芳林堂は、有馬藩士金子政成が安政4年(1857年)に神田袋町代地(現在の秋葉原西口辺り)に当初、寺子屋を開業しましたが、後に火災にあって旅籠町に移ってきました。芳林小学校(現在の昌平小学校)の名前も、この芳林堂に由来していると言われています。現在、この地は、日本の最先端を行くIT産業のメッカとなっています。
 
 町会の該当区域は、外神田一丁目1番地5~7号、3番地、4番地1~8号、18~23号、5~9番地及び外神田三丁目1・12・13番地となっています。



外神田四丁目松富会

2005-05-15 09:23:00 | 神輿(外神田連合)

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 外神田四丁目松富会が宮入りしてまいりました。

 江戸時代の外神田四丁目(そとかんだよんちょうめ)周辺には武家屋敷以外に、商人や職人の住居が立ち並ぶ「松下町二丁目(まつしたちょうにちょうめ)」「松下町三丁目(まつしたちょうさんちょうめ)」、「永富町三丁目(ながとみちょうさんちょうめ)」と呼ばれる町屋がありました。明治2年(1869年)、これら三町が合併し、さらに武家屋敷も編入して新しい町、松富町が誕生しました。この名前は、松下町と永富町から一文字ずつ取ってつくられたものです。

 昭和40年頃までは町内には三社稲荷(さんしゃいなり)がありました。その場所は大久保最祀氏の邸跡で、稲倉魂命(うがのみたま)三座を祀っていました。御利益が多い神社で、講武所の芸者の参詣は頻繁にあったといわれています。

 町会の該当区域は外神田四丁目6~13番地となっています。