神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

岩本町一丁目町会

2005-05-15 11:58:00 | 神輿(岩本町・東神田地区連合)

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 岩本町・東神田地区連合の最後の宮入りとなりました。岩本町一丁目町会です。

 岩本町一丁目(いわもとちょういっちょうめ)は、かつて東福田町(ひがしふくだちょう)、材木町(ざいもくちょう)、東今川町(ひがしいまがわちょう)、亀井町(かめいちょう)の四つの町に分かれていました。
 
 これらの町は昭和40年7月の住居表示の実施により、合併して現在の「岩本町一丁目」になりました。「竜閑川」は終戦後に三度(みたび)埋められて現在に至りますが、江戸の頃より変わらないのは、この川筋を神田と日本橋の境界としていたことです。現在は千代田区と中央区の区境となっています。

 町の北側を通る「金物通り」の名前が示すように、かつては金物問屋が軒を並べて、竜閑川を利用した木材の運搬とともに物流の中核地でした。

 町会の該当区域は、岩本町一丁目全域となっています。


岩本町二丁目東紺町会

2005-05-15 11:45:00 | 神輿(岩本町・東神田地区連合)

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 続きまして、岩本町二丁目東紺町会の宮入りです。

 江戸時代、この界隈は、町人と武士の屋敷が混在している地域でした。このあたりにあったのは、神田紺屋町三丁目(かんだこんやちょうさんちょうめ)、神田紺屋町一丁目代地、本銀町会所屋敷(ほんしろがねちょうかいしょやしき)、神田佐柄木町(かんださえきちょう)代地、永富町二丁目(ながとみちょうにちょうめ)代地といった町々でした。

 明治2年(1869年)、これらの町が合併して「東紺屋町」となりました。

 「紺屋」という町名は、江戸時代から明治時代にかけて、紺屋頭の拝領地であり、藍染(あいぞめ)職人が住んでいて、染物業が盛んであったことに由来しています。

 昭和22年(1947年)、神田区と麹町(こうじまち)区が合併して千代田区が成立すると、町名の頭に「神田」が付き、神田東紺屋町となりました。その後、昭和40年(1965年)の住居表示の実施の際に、神田東紺屋町の一部は神田松枝町(かんだまつえだちょう)、神田大和町(かんだやまとちょう)、神田東松下町(かんだひがしまつしたちょう)の一部、神田元岩井町(かんだもといわいちょう)の一部と合併して、岩本町二丁目(いわもとちょうにちょうめ)となりました。

 当町会の該当区域は、東紺屋町及び岩本町二丁目1~4番地となっています。


東神田豊島町会

2005-05-15 11:37:00 | 神輿(岩本町・東神田地区連合)

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 東神田豊島町会が宮入りしてまいりました。

 東神田豊島町は、かつて豊島町(としまちょう)と呼ばれていました。

 豊島という町名の由来は、町奉行が「この一帯が属している豊島郡には豊島村という地名がすでにあるが、それとは別に豊島町という町名があってもいいだろう」として名付けられた、といわれています。

 江戸時代、このあたりには「比丘尼横丁(びくによこちょう)」や、髪油として美男葛(びなんかずら)の油を売る店もあったことから俗に「桂横丁(かつらよこちょう)」と呼ばれた通りもありました。そのほか、銘茶屋、菓子屋、水油仲買等がありました。

 明治になると、旅館、砂糖商等が集まり、大変賑わっていました。その賑わいが現在にも続いていて、大変活気のある町会となっています。

 当町会の該当区域は、東神田1丁目~5番地、12~17番地、東神田二丁目8~10番地となっています。


神田松枝町会

2005-05-15 11:20:00 | 神輿(岩本町・東神田地区連合)

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 神田松枝町会が宮入りしてまいりました。

 この界隈は、昭和40年代のはじめまで神田松枝町(かんだまつえだちょう)と呼ばれていました。名前の由来は、江戸城の大奥にいた「松ヶ枝」という老女中の名に由来します。

 旧松枝町あたりを中心にして、江戸のころまで、「お玉(たま)が池(いけ)」という広大な池がありました。桜の名所だったことから、当初は「桜ヶ池」と呼ばれ、池畔(ちはん)に茶屋が建っていました。「お玉」というのは、この茶屋にいた看板娘の名前です。

 景勝地・お玉が池の周辺には、江戸の文人や学者が多く暮らしていました。その一人である伊東玄朴(いとうげんぼく)ら蘭方医(らんぽうい)たちが、安政(あんせい)5年(1858年)、種痘館(しゅとうかん)を設立しました。このお玉が池種痘所が、いまの東大医学部の出発点、だといわれています。
 
 町会の該当区域は、岩本町二丁目5~7番地、10~12番地となっています。


東神田町会

2005-05-15 11:15:00 | 神輿(岩本町・東神田地区連合)

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 16番目の町会の宮入いりは、東神田町会です。

 現在の東神田界隈には、橋本町(はしもとちょう)、江川町(えがわちょう)、富松町(とみまつちょう)、久右衛門町(きゅうえもんちょう)といった町がありました。

 橋本町の町名は、牛馬の売買や仲買をする幕府の博労役(ばくろうやく)の橋本源七(げんしち)がこのあたりに土地を与えられたことにちなんだ、といわれています。この町の南に接する馬喰町(現・日本橋馬喰町)にも博労が住んでおり、馬市が盛んに開かれていたそうです。

 江川町は宝永(ほうえい)年間(1704~1711)に開かれた町で、伊豆韮山(いずにらやま)の代官(だいかん)江川家の屋敷があったことから名付けられた町です。

 富松町、久右衛門町は、享保(きょうほう)3年(1718年)の火災の後、神田川北岸よりこの地に移ってきた町です。

 関東大震災(大正12年・1923年)後の復興計画にあたり、江戸時代から連綿と続いてきた町名が大きく変わることになりました。昭和9年(1934年)に、橋本町、江川町、富松町、久右衛門町が合併して東神田になり、昭和13年(1938年)に東神田町会が成立しました。

 町会の該当区域は、東神田1丁目~5番地、12~17番地、東神田二丁目8~10番地となっています。