神田祭.ch公式ブログ

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錦連合

2005-05-15 12:45:00 | 神輿(神田中央連合)

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 神田中央連合の最後の宮入りとなりました。最後を飾るのは錦連合です。

 錦連合は「神田錦町二丁目町会、錦町三丁目町会、錦町三丁目第一町会、小川町三丁目南部町会」の4つの町会の連合となっています。

 「錦町」の名前の由来は、かつて、「一色(いっしき) 」という旗本屋敷が二軒あったことから、あわせて「二色(にしき) 」または「二色(にしき)小路」と呼ぶようになり、明治に入り「錦町」と改められました。

 これらの町会は、明治以降、教育機関が立ち並ぶ文教の町として発展を続けました。

 かつては学習院大学、一橋大学の前身である高等商業学校がありました。また、「英吉利法律学校(いぎりすほうりつがっこう)(現中央大学)」もこの地で開学しました。明治10年(1877)には、東京開成学校と東京医学校が合併し「東京大学」が創立されました。電機学校(現東京電機大学)は、昭和に入りこの町内に移ってきました。その他、「外國語学校(現東京外国語大学) 」や「学習院」、「宮川保全共立女子職業学校(現共立女子大学)」など多くの優秀な学校がひしめきあっています。

町会の該当地域は、錦町二丁目、錦町三丁目全域、小川町二丁目1・3・5番地となっています。


小川町連合

2005-05-15 12:38:00 | 神輿(神田中央連合)

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 23番目の宮入りとなります。小川町連合です。

 小川町連合は「小川町一丁目南部町会、小川町二丁目南部町会、小川町三丁目西町会、小川町北部一丁目町会、小川町北部二丁目町会、小川町北三町会」の6つの町会の連合となっています。

 江戸時代の初め、この地は、鷹狩(たかがり)に使う鷹の飼育を行う鷹匠(たかじょう)が住んでいたことから、元鷹匠町(もとたかじょうまち)と呼ばれていましたが、元禄(げんろく)6年(1693)に小川町と改称されました。五代将軍綱吉(つなよし)が「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」を施行、鷹狩を禁止したためである、といわれています。小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。

 これらの町会には簿記学速記学速成教授所のほか、英語、漢学、数学などを教える研精義塾(けんせいぎじゅく)、裁縫(さいほう)を教える裁縫正鵠(せいこく)女学校、東京物理学校など、数多くの学校がありました。東京物理学校は現在の東京理科大学の前身で、夏目漱石(なつめそうせき)の小説『坊っちゃん』の主人公が学んだ学校です。

 江戸時代には、 小川町北三町会に軍備の充実を目的として洋式訓練所、「歩兵屯所」 (ほへいとんしょ)が組織されました。  

 明治以降、この周辺には学校が多かったため駿河台(するがだい)や神保町(じんぼうちょう)などとともに学生街として栄えていましたが、昭和30年代ごろから学生や若者の趣味を反映して大型のスポーツ用品店が数多く出店し、スポーツ店街としても賑(にぎ)わっています。

 町会の該当区域は小川町一・二・三丁目のほぼ全域となっています。


神保町一丁目町会

2005-05-15 12:30:00 | 神輿(神田中央連合)

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 続いて、神保町一丁目町会が宮入りしてまいりました。

 江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいました。そこに表神保町(おもてじんぼうちょう)、裏神保町(うらじんぼうちょう)などの町が誕生したのは、明治5年(1872年)のことです。裏神保町は、大正11年(1922年)に通神保町(とおりじんぼうちょう)と改称したのち、表神保町、表猿楽町(おもてさるがくちょう)などとともに、昭和9年、神保町一丁目(じんぼうちょういっちょうめ)となりました。さらに昭和23年、神田区と麹町区(こうじまちく)が合併して千代田区ができると、現在の神田神保町一丁目になりました。
 
 町名の由来は、元禄(げんろく)年間(1688~1704)のころ、旗本(はたもと)の神保長治(じんぼうながはる)が広大な屋敷をかまえ、そこを通っていた小路が「神保小路(じんぼうこうじ)」と呼ばれるようになったためといわれています。

 神保町一丁目町会は、靖国通りの南側にあり、町の東西に「神田すずらん通り」が走っています。
この通りの名前は街路灯がスズラン式に変わったことから名付けられました。街路灯が変わった理由は、現在の賑わいからは考えられないことですが、明治20年頃のこの辺りの道は「おばけ横町」や「怪物横町」と呼ばれたくらいに、人通りのない恐い道であり、暗く、恐い道を少しでも明るくしようとしたものだと言われています。現在ではそのスズラン灯も無くなってしまいましたが、その名前だけは今も変わらずに残り、広く愛されています。
 
 町会の該当区域は、神保町一丁目1~71番地までの奇数番地となっています。


猿楽町町会

2005-05-15 12:20:00 | 神輿(神田中央連合)

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 続きまして、神田中央連合の宮入りとなります。一番目の町会は猿楽町町会です。

 猿楽町は古来、芸術文化に関係の深い町です。

 今でいう「能楽」は、江戸時代には「猿楽(さるがく)として、武士達に親しまれていました。「猿楽」は芸術性を高め、江戸幕府の儀式の際に用いる音楽・舞踊に指定されました。猿楽師の一人で、徳川家康と縁が深かった観世(かんぜ)座家元、観世太夫(かんぜだゆう)や、一座の人々の屋敷が現在の神田神保町(かんだじんぼうちょう)一~二丁目から西神田(にしかんだ)一~二丁目のあたりにあったことから、この一帯に「猿楽町」という町名が生まれた、といわれています。

 他にも、文学では、夏目漱石が青春時代にこの地で下宿をしていました。芥川龍之介も府立三中時代の恩師の下宿がこの町内にあったため、たびたび訪れていたと言われています。音楽においては、現在の東京音楽大学のもとである、東洋音楽学校が明治40年、猿楽町に設立され、日本の音楽文化近代化に、多大な影響をもたらしました。
 
 町会の該当区域は、猿楽町一・二丁目全域となっています。