神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

宮本町会

2005-05-15 10:35:00 | 神輿(外神田連合)

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 いよいよ、外神田連合最後の宮入りです。最後を飾るのは、宮本町会です。

 宮本町は昔は、湯島の内でしたが、神田明神の社頭にあたるので、明治2年に神田明神と併せ、宮本町となりました。

 宮本町一番地には昔日「開花楼」がありました。ここは、海抜40メートルの高台に建っており、見晴らしの良さと江戸前の料理が好まれ、通人、粋人が集う場所として知られ、東京名所図会など、多くの書物に残されています。また、単に料理屋として著明であるばかりではなく、書画店や古書市、見本市等、当時としては貴重な文化事業が再三開催されました。さらには、東京帝大(現在の東大)、東京商学校(現在の一橋大学)、明治法律学校(現在の明治大学)等の学舎が近いことから教授陣及び学生達の会合場所として利用されていました。さらには、ここの大広間で、文豪の島崎藤村の結婚式が行われました。

 また、「開花楼」では『ヘナチョコ』という言葉が生まれました。この言葉の由来は、創業者の坂本彦平氏が、明神下の崖下から、何を思ったか「ヘナ土」を持帰り、酒猪口を作り文人墨客の宴席で披露したと言います。ところが、不思議なことに、その猪口に注いだ酒がいつの間にか消えてしまいました。それもその筈です。素材がヘナ土なので、素焼き同前、酒がしみ出てしまうからです。それを見た一同は大喜びで、ヘナ土の猪口だから『ヘナチョコ』と命名されたと言われています。以来、開花楼のヘナチョコは通人に知られるところとなり、用の足さないものを評して「ヘナチョコ野郎」「ヘナチョコ文化」と言うようになりました。

 町会の該当区域は、外神田二丁目16~19番地、7番1号・4号一部となっています。


外神田三丁目末広町会

2005-05-15 10:29:00 | 神輿(外神田連合)

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 外神田三丁目末広町会が宮入りしてまいりました。

 末広町は、明治2年(1869年)に「神田平永町(かんだひらながちょう) ・神田山本町(かんだやまもとちょう) ・柳原岩井町(やないはらいわいちょう) ・麹町平川町(こうじまちひらかわちょう)の代地」を合併し、設立しました。

 末広町と五軒町(現在の末広町交差点付近)にあった堀丹後守の辻番所は御府内随一との評判でした。辻番と言えば、川柳に『辻番は生きた親父の捨て所』とあるように、大概、老人と決まっていました。しかし、堀家では番人を雇う際に、武芸の心得のあるものを厳選して選考し、日々稽古を怠る事がなかった、といわれています。事件があれば六尺棒で応戦し、逃亡者がいればその棒を投げて足に絡ませて倒していたそうです。

 また、明治5年(1868年)5月の薩長連合軍と彰義隊との戦いの始まりは、この辻番所前で開かれたものである、といわれています。

 町会の該当区域は、外神田三丁目5~10番地、及び14~16番地となっています。


外神田四丁目田代会

2005-05-15 10:20:00 | 神輿(外神田連合)

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 さぁ、10番目の宮入りです。外神田連合の外神田四丁目田代会です。

 田代町は、江戸時代中頃までは武家屋敷でしたが、寛政(かんせい)5年(1793年)の大火で神田川周辺にあった町が燃え、町の一部が火除地(ひよけち)となりました。翌年、その町に住んでいた人々が、御成道(おなりみち)の旗本永井伊織(はたもとながいいおり)の屋敷跡を代地(だいち)として与えられて移転してきました。当初は「神代町」としましたが、あまりにも名前が立派すぎるので「神田代地」を省略して、「田代町」と改めました。

 町内には花房稲荷(はなぶさいなり)が祀られています。現在の社(やしろ)は戦後、地元住民が再建したものですが、神社そのものは江戸時代からこの地にあったとされ、古くから地域のシンボルとして人々に親しまれています。 4月にお祭りをしており、田代町の人々が大切に守っています。

 町会の該当区域は外神田四丁目2~6番地となっています。


外神田五丁目元佐久町会

2005-05-15 10:15:00 | 神輿(外神田連合)

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 外神田五丁目元佐久町会の宮入りです。

 元佐久町も「栄町」と同じように小笠原藩邸でした。明治3年に秋葉原の火除け地となる際に、神田佐久間町一丁目(かんださくまちょういっちょうめ)及び神田柳屋敷(かんだやなぎやしき)の代地として小笠原家屋敷跡に移転してきました。

 この時に、神田元佐久間町の町名が生まれました。 「元」という名前は、新たに生まれたこの町を神田佐久間町(かんださくまちょう)と区別するために付けられました。

 明治44年(1911年)に、元佐久間町(もとさくまちょう)と改称されましたが、昭和22年、千代田区ができたときに、町名は再び神田元佐久間町となりました。

 町会の該当区域は、外神田五丁目2・5番地となっています。


外神田五丁目栄町会

2005-05-15 10:07:00 | 神輿(外神田連合)

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 外神田五丁目栄町会が宮入りしてまいりました。

 外神田五丁目栄町はかつて、神田栄町(かんださかえちょう)と呼ばれていました。江戸時代には武家屋敷が立ち並んでいた地域でした。

 この界隈(かいわい)が大きく様相を変えたのは明治維新後のことです。明治2年(1869年)12月、神田相生町(かんだあいおいちょう)から出た火事によって、現在の外神田(そとかんだ)周辺は焼け野原となってしまいました。そこで明治新政府は、神田竹町(かんだたけちょう)、神田平河町(かんだひらかわちょう)、神田松永町(かんだまつながちょう)などに、防火のための空き地(火除地(ひよけち))を設置し、鎮火神社(秋葉神社)を建立しました。それらの町に住んでいた人たちがこの界隈に移転させられ、神田栄町ました。「栄」という名前は、新たに繁栄するように、との願いから付けられました。

 明治44年(1911年)、町は栄町と改称しますが、昭和22年に、神田区と麹町(こうじまち)区が合併して千代田区が成立した際、ふたたび神田栄町となりました。そして昭和39年、住居表示の実施で神田亀住町(かんだかめずみちょう)や神田元佐久間町(かんだもとさくまちょう)とともに、現在の外神田五丁目(そとかんだごちょうめ)となりました。

 町会の該当区域は、外神田五丁目1・6番地となっています。