神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

鍛冶町二丁目町会

2005-05-15 16:15:00 | 神輿(神田駅東地区連合)

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 神田駅東地区連合最後となりました。鍛冶町二丁目町会です。

 町名の由来は一丁目と同じで、多くの鍛冶師、鋳物師、釜師などが集まった土地であった事に因んで、「鍛冶屋町」と名付けられました。鍛冶町(かじちょう)の名前の始まりは江戸時代になります。この近辺に幕府御用を勤める鍛冶方棟梁(かじかたとうりょう)だった高井伊織(たかいいおり)が屋敷を拝領し、鍛冶職人などが数多く集まっていたのです。

 この二丁目界隈は、金物のなかでも、とくに刀や薙刀(なぎなた)といった打物(うちもの)を扱う業者が多かったのが特徴だったようです。

 昭和22年の区画整理で、黒門町(くろもんちょう)、上白壁町(かみしらかべちょう)、下白壁町(しもしらかべちょう)、紺屋町(こんやちょう)、松田町(まつだちょう)、鍋町(なべちょう)、塗師町(ぬしちょう)、新石町(しんこくちょう)、竪大工町(たてだいくちょう)、鍛冶町二丁目が統合され、「神田鍛冶町二丁目」となりました。さらに、昭和49年に住居表示が施行されると、神田の文字が無くなり、「鍛冶町二丁目」と名前を変えて現在に至っています。

 近代科学の大先覚者、平賀源内が29才ではじめて江戸に出て家を持ったのがこの町あり、生涯を通して最も長く住んだ町である、といわれています。

 町内の該当区域は鍛冶町二丁目全域となっています。


神田須田町二丁目町会

2005-05-15 16:05:00 | 神輿(神田駅東地区連合)

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 神田須田町二丁目町会が宮入りしてまいりました。

 現在の神田須田町二丁目が生まれたのは、昭和8年になります。大正12年(1923年)の震災復興の区画整理の際に、「元柳原町、柳町、小柳町、平永町など」の町が合併され、いまの町の区域が定められました。

 関東大震災から22年後の昭和20年3月の東京大空襲では、東京の東半分がほぼ焼き尽くされましたが、須田町二丁目は町の人々が一致団結して防火にあたったため、町内の一角は戦火をまぬがれることができた、といわれています。

 戦後、須田町二丁目周辺は、ラシャの切り売りなどを生業(なりわい)とする業者が集まり、一時は日本一といわれるほどの繁盛ぶりを示しました。現在、この地域には衣料関係の会社が多く集まっています。
 
 昔から祭り好きの人たちが多い土地柄ですが、この界隈には、神田神社・柳森(やなぎもり)神社・下谷(したや)神社の氏子(うじこ)が集まり住んでいます。いまでもこの須田町に住む人々は、お祭りの他、様々な町内イベントを行っており、伝統・文化を守り続ける町会です。

 町会の該当区域は、須田町二丁目全域となっています。


鍛冶町一丁目町会

2005-05-15 15:58:00 | 神輿(神田駅東地区連合)

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 鍛冶町一丁目町会の宮入りです。鍛冶町一丁目町会で40町会目になります。

 鍛冶屋町は、慶長8年(1603年)の市街地造成の際につくられた町屋です。 ちなみに「鍛冶」という名は、町が生まれた当初、江戸幕府お抱えの鍛冶方棟梁(かじかたとうりょう)だった高井伊織(たかいいおり)が、この地を幕府より拝領して屋敷を構えたことに由来するとされます。多くの鍛冶師、鋳物師、釜師などが集まって築城用金物をはじめとして、建築用金具、鐘、鍋、釜などを製造する一大工業地帯となっていました。

 鍛冶町は、江戸時代の武士や庶民にとって必要不可欠な金属製品を提供し、日常生活をささえ続けた町でした。

 昭和8年、震災復興の区画整理の際に町名変更が実施され、塗師町の一部、千代田町の一部、西今川町、西福田町の一部、南乗物町の五ヶ町を一つとした「鍛冶町一丁目」が生まれました。

 町会の該当区域は、鍛冶町一丁目全域となっています。


北乗物町町会

2005-05-15 15:50:00 | 神輿(神田駅東地区連合)

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 続きまして、神田駅東地区連合の宮入りが始まります。トップバッターは北乗物町町会です。

 北乗物町は、明治2年(1869年)に、元乗物町代地(もとのりものちょうだいち)、兵庫屋敷代地(ひょうごやしきだいち)、神田紺屋町二丁目横町代地(かんだこんやちょうにちょうめよこちょうだいち)が合併して成立しました。この時に、「北乗物町」と名付けられました。北乗物町は鍛冶町一丁目(かじちょういっちょうめ)の中央を東西に走る道筋の北側にできた片側町でした。 

 この辺りは、江戸時代の初期に開けた地で、当時の市街地造成の方針によって、職業別に職人が集まり町となっていきました。この土地も、当時の駕篭などの乗物を作る職人が集まって居住したために生まれた地名である、と言われています。

 元乗物町の「元」は日本橋の「新乗物町」に対して付けられました。「兵庫屋敷」は兵庫殿という御女中が拝領した屋敷である、と言われています。

 町会の該当区域は、北乗物町全域となっています。