神田駅東地区連合最後となりました。鍛冶町二丁目町会です。
町名の由来は一丁目と同じで、多くの鍛冶師、鋳物師、釜師などが集まった土地であった事に因んで、「鍛冶屋町」と名付けられました。鍛冶町(かじちょう)の名前の始まりは江戸時代になります。この近辺に幕府御用を勤める鍛冶方棟梁(かじかたとうりょう)だった高井伊織(たかいいおり)が屋敷を拝領し、鍛冶職人などが数多く集まっていたのです。
この二丁目界隈は、金物のなかでも、とくに刀や薙刀(なぎなた)といった打物(うちもの)を扱う業者が多かったのが特徴だったようです。
昭和22年の区画整理で、黒門町(くろもんちょう)、上白壁町(かみしらかべちょう)、下白壁町(しもしらかべちょう)、紺屋町(こんやちょう)、松田町(まつだちょう)、鍋町(なべちょう)、塗師町(ぬしちょう)、新石町(しんこくちょう)、竪大工町(たてだいくちょう)、鍛冶町二丁目が統合され、「神田鍛冶町二丁目」となりました。さらに、昭和49年に住居表示が施行されると、神田の文字が無くなり、「鍛冶町二丁目」と名前を変えて現在に至っています。
近代科学の大先覚者、平賀源内が29才ではじめて江戸に出て家を持ったのがこの町あり、生涯を通して最も長く住んだ町である、といわれています。
町内の該当区域は鍛冶町二丁目全域となっています。