東日本橋二丁目町会【ひがしにほんばし2ちょうめちょうかい】はかつては両国【りょうごく】と呼ばれていました。元柳町【もとやなぎまち】、柳新町、吉川町、米沢町【よねざわちょう】1,~3丁目、薬研堀町、若松町等の全部または一部が含まれます。両国と両国橋の西側の町を一般的に明暦【めいれき】の大火【たいか】後の万治【まんじ】2年(1659)に橋がかかり、交通上賑【にぎ】やかな地になりました。火事の多い江戸に鑑【かんが】みて二度と災害の悲劇をくりかえさぬ様にと各所に火除地【ひよけち】を設けました。両国【りょうごく】にも中央区側に広小路【ひろこうじ】が出来て、防火や避難に役立つ広場が設けられました。いつの間にかこの空地を利用して軽業【かるわざ】や見世物小屋が並び、水茶屋【みずぢゃや】、喰べ物見世【みせ】などで江戸一番の賑やかで、華やかな場所になっていきました。もっとも、将軍舟遊【しゅうゆう】の乗船場がすぐ近くにあるため、将軍お成りの日には全部取り払われ、将軍が帰還後は再び興行が許されるといった具合でした。しかし、その賑やかさ・混雑ぶりは大変なもので、様々な本に出ているほどでした。
維新後は商店の並ぶ繁華な市街に変わって、面目一新【めんもくいっしん】した賑やかな商店街になっていきました。
また米沢町【よねざわちょう】は、多くは船宿【ふなやど】の中心地であり、両国の川開きや花火と共に忘れることの出来ない町です。船宿にはいずれも二階があり、家人は階下に住み、客がくると2階に通して接待したといいます。
米沢町から元柳町【もとやなぎまち】にかけて船宿と共に有名な柳橋花街【やなぎばし はなまち】で、これが両国の景況【けいきょう】を明治になって支えていたといえます。
尚、平成15年には開府400年をお祝いして船渡御【ふなとぎょ】を挙行しました。
町会の該当区域は、東日本橋二丁目全域となっています。
当町会の神輿は、昭和35年、宮本重義【みやもと しげよし】により作られました。
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