神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

天星睦

2007-05-13 19:11:00 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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 江戸の昔より明神甘酒【みょうじん あまざけ】として天下に知られているのが、神田明神鳥居前で160年の老舗、『天野屋【あまのや】』です。天野屋は弘化【こうか】3年の創業で、濁酒【だくしゅ】の製造を始めた初代が後に、糀【こうじ】、甘酒、納豆、味噌の製造も兼ねるようになりました。

 米こうじを作る地下の天然むろは創業当時のままとなっています。隣接している喫茶室も趣いっぱいです。是非、本物の甘酒をご堪能下さい。

 「富士山に肩をならべる甘酒屋」と俳句にもある通り、江戸時代に入って甘酒は多くの人々に愛好【あいこう】されましたが、特に、その製造に当って当店のものは、「明神甘酒【みょうじん あまざけ】」の名称のもとに広く皆様方の御愛顧をつないでいるものであります

 甘酒の他にも、天野屋特製の、江戸味噌、久方【ひさかた】味噌、芝崎納豆なども人気です。


 当店の神輿は平成6年に新調しました。16代浅子周慶作です。鳳凰は胸を張って飛び立ちそうな型が特徴です。小型ですが、浅子周慶の自慢作です。天野屋の美人神輿なる女神輿、ご堪能ください。




東日本橋二丁目町会

2007-05-13 18:41:59 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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 東日本橋二丁目町会【ひがしにほんばし2ちょうめちょうかい】はかつては両国【りょうごく】と呼ばれていました。元柳町【もとやなぎまち】、柳新町、吉川町、米沢町【よねざわちょう】1,~3丁目、薬研堀町、若松町等の全部または一部が含まれます。両国と両国橋の西側の町を一般的に明暦【めいれき】の大火【たいか】後の万治【まんじ】2年(1659)に橋がかかり、交通上賑【にぎ】やかな地になりました。火事の多い江戸に鑑【かんが】みて二度と災害の悲劇をくりかえさぬ様にと各所に火除地【ひよけち】を設けました。両国【りょうごく】にも中央区側に広小路【ひろこうじ】が出来て、防火や避難に役立つ広場が設けられました。いつの間にかこの空地を利用して軽業【かるわざ】や見世物小屋が並び、水茶屋【みずぢゃや】、喰べ物見世【みせ】などで江戸一番の賑やかで、華やかな場所になっていきました。もっとも、将軍舟遊【しゅうゆう】の乗船場がすぐ近くにあるため、将軍お成りの日には全部取り払われ、将軍が帰還後は再び興行が許されるといった具合でした。しかし、その賑やかさ・混雑ぶりは大変なもので、様々な本に出ているほどでした。

 維新後は商店の並ぶ繁華な市街に変わって、面目一新【めんもくいっしん】した賑やかな商店街になっていきました。

 また米沢町【よねざわちょう】は、多くは船宿【ふなやど】の中心地であり、両国の川開きや花火と共に忘れることの出来ない町です。船宿にはいずれも二階があり、家人は階下に住み、客がくると2階に通して接待したといいます。
 
 米沢町から元柳町【もとやなぎまち】にかけて船宿と共に有名な柳橋花街【やなぎばし はなまち】で、これが両国の景況【けいきょう】を明治になって支えていたといえます。

 尚、平成15年には開府400年をお祝いして船渡御【ふなとぎょ】を挙行しました。

 町会の該当区域は、東日本橋二丁目全域となっています。



 当町会の神輿は、昭和35年、宮本重義【みやもと しげよし】により作られました。

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東日本橋三丁目橘町会

2007-05-13 18:19:00 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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 東日本橋三丁目橘町会【ひがしにほんばし3ちょうめ たちばなかい】は古くは橘町【たちばなちょう】とよばれた地域で、昭和46年の住居表示実施で現町名になりました。江戸の初期には西本願寺【にしほんがんじ】の別院【べついん】やその末寺【まつじ】があったところでした。この西本願寺別院【にしほんがんじ べついん】は元和【げんな】7年(1621)3月准如上人【じゅんにょしょうにん】が創建【そうけん】したもので、江戸海岸御坊【えどかいがん ごぼう】、とよばれたといいます。明暦【めいれき】の大火【たいか】で、お堂【どう】の建物は延焼し跡形もなくなり、築地に移転復興したのです。

 その跡地は松平越前守【まつだいら えちぜんのかみ】の邸地【ていち】となり、天和【てんな】3年(1683)の邸地移転に伴って、町地になりました。西本願寺のあった頃、門前に立花【たちばな】を売る店が多かったので、町の名を橘町【たちばなちょう】とつけたのだそうです。

 当町会は繊維関係の問屋が多く、今でも着物が似合う粋な旦那衆【だんなしゅう】が町会を支えています。

 町会の該当区域は、東日本橋三丁目全域となっています。


 当町会の神輿は、昭和42年に新たに町会有志にて寄贈されたものです。紺に染め抜いた青伴天【あおはんてん】の青年部とグレーの伴天【はんてん】の一般担ぎ衆、総勢150名により宮入を行います。



江戸神社奉賛会

2007-05-13 17:44:54 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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江戸神社奉賛会【えどじんじゃ ほうさんかい】は旧神田市場【かんだいちば】の関係者で構成されています。

 江戸神社とは、青果市場【せいかいちば】が神田多町【かんだたちょう】の地に有った江戸時代から、市場の関係者の間で守られてきた神社です。その後、青果市場が昭和の初めに秋葉原に移転してからも、市場にお社がありました。平成元年に大田市場に移転したため神田市場の摂社【せっしゃ】として境内にお神輿が祀【まつ】られています。


 当神社の神輿は俗に「千貫神輿【せんがんみこし】」と呼ばれている大神輿です。戦後、昭和33年に当時の職人の技の粋を集め「鹿野喜平」が新しく作り上げました。板金【ばんきん】の打出し出はなく、金属を打ち、そして彫るという手の凝ったものです。また、メッキも同様、現在でこのような仕事が出来る職人は居ないそうです。1班200人の3班体制で進められます。宮入終盤の鬩ぎ合いは圧巻です。神田祭の主役級の神輿です。大迫力の担ぎをご注目下さい。


神田和泉町町会

2007-05-13 17:19:22 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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江戸時代、この界隈【かいわい】には、伊勢国【いせのくに】津藩【つはん】 (現在の三重県津市)藤堂家【とうどうけ】の上屋敷【かみやしき】 、出羽国【でわのくに】鶴岡藩【つるおかはん】 (現在の山形県鶴岡市)酒井家の中屋敷【なかやしき】などがありました。町名の「和泉町」とは藤堂家が代々、和泉守【いずみのかみ】を名乗ったことに因【ちな】んでいる、といわれています。

 大正12年(1923)の関東大震災で町は、町民の防火活動によって火災をまぬがれました。このことは、世の奇跡として市民の賞賛を受けました。そのためこの神田和泉町を含む一帯は、昭和14年1月に、東京府より「関東大震災協力防火【ぼうか】の地」として顕彰【けんしょう】され記念碑が建てられました。

 町会の該当区域は、和泉町全域となっています。


 当町会の神輿は秋葉原地区では一番の大きさを誇ります。その大きさたるや、2尺5寸、重さは500キロにも達します!当町会を愛して止まない担ぎ手350~400人で宮入を行います。必見ポイントは社殿【しゃでん】前で、前に進もうとする担ぎ手衆と、それを押さえようとする、町会青年部との間の攻め技合いです。大興奮間違いなしです。