神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

神田駅東地区連合 鍛冶町一丁目町会

2015-05-10 17:45:41 | 宮入順

【町会の特徴】

鍛冶町は、慶長8年(1603)の市街地造成の際につくられた町屋です。

 

因みに「鍛冶」という名は、町が生まれた当初、江戸幕府お抱えの鍛冶方棟梁だった高井伊織が、この地を幕府より拝領して屋敷を構えたことに由来すると言われています。

 

多くの鍛冶師、鋳物師、釜師などが集まって築城用金物をはじめとし、建築用金具、鐘、鍋、釜などを製造する一大工業地帯となっていました。

 

鍛冶町は、江戸時代の武士や庶民にとって必要不可欠な金属製品を提供し、日常生活を支え続けた町でした。

 

昭和8年、震災復興の区画整理の際に町名変更が実施され、南乗物町等5つの町を一つとした「鍛冶町一丁目」が誕生しました。

 

町会の該当区域は、鍛冶町一丁目全域となっています。

 

【神輿の特徴】

鍛冶町一丁目町会の神輿は神田明神の氏子町会の中で、数少ない入母屋造りの神輿の一つです。

総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。

秋葉原電気街での神輿振りは必見です。

 


神田駅東地区連合 鍛冶町二丁目町会

2015-05-10 17:35:19 | 宮入順

【町会の特徴】

町名の由来は一丁目と同様です。

多くの鍛冶師 、鋳物師 、釜師などが集まった土地であった事に因んで、名付けられました。

 

ここ、二丁目界隈は金物のなかでも、とくに刀や薙刀といった打物を扱う業者が多かったのが特徴です。

 

昭和8年の区画整理で、黒門町、上白壁町、下白壁町、鍛冶町二丁目等が統合され、「神田鍛冶町二丁目」となりました。昭和22年、麹町区と神田区の合併により千代田区神田鍛冶町二丁目となり、更に昭和49年に神田の文字が無くなりました。

 

近代科学の大先覚者、平賀源内が29才で初めて江戸に出て家を持ったのがこの町であり、生涯を通して最も長く住んだ町であると言われています。

 

この町会には、純金地金の精製や貴金属工業用品の製造などで高い技術を誇る徳力本店があります。その確かな技術、伝統と信頼で「金は神田の徳力」と言われています。元々は300年程前に幕府の命により金銀を改鋳し始め、今でもジュエリーや金工芸品など、幅広い分野で貴金属製品を取り扱っています。

 

町会の該当区域は鍛冶町二丁目全域となっています。

 

【神輿の特徴】

鍛冶町二丁目町会の神輿は、昭和9年、神田神社の再興に伴う祭礼に併せて、宮大工の手により作られました。

大きさは、台輪寸法26寸です。総欅作りの傑作の神輿です。

 


神田駅東地区連合 紺屋町南町会

2015-05-10 17:33:03 | 宮入順

【町会の特徴】

神田紺屋町は、慶長年間に徳川家康から軍功として藍染めの権利を与えられた紺屋頭、
土屋五郎右衛門が支配していた江戸古町の一つ。 江戸を代表する藍染めの浴衣と手拭の大半は、紺屋町一帯の染物屋で染められました。

 

「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」と言われていたほどで、紺屋町の名物が江戸の名物でもありました。
幕末、安政年間には歌川広重の名所江戸百景にも、その風情が描かれています。

 

「場違い」という言葉がありますが、これは紺屋町以外の地区で染める浴衣や手拭い染めのことを、江戸の人がそう呼んだことに由来するそうです。

 

【神輿の特徴】

戦後の混乱期に、町会神輿の維持が困難になり暫く神輿を持たない町会でありましたが、19年前に町会有志の発案で 手作り神輿を造ることになり、現町会長の飯田昭次郎さんが紙を素材 にした神輿を完成させました。

 

14年前の平成13年神田祭では、 見事に手作り神輿で初の宮入を果たしました。
そして本年、神輿の作りはさらにバージョンアップし、「紺南睦」の肩に乗って宮入りを目指します。

 


神田駅東地区連合 北乗物町町会

2015-05-10 17:11:11 | 宮入順

【町会の特徴】

北乗物町は、明治2年(1869)に、元乗物町代地、兵庫屋敷代地、神田紺屋町二丁目横町代地が合併して成立しました。

成立時、この地に多くの駕篭職人が入居しました。

町名を付けるにあたり、かつて駕篭などの乗物や馬具を作る職人が集まって今日中したために生まれた地名であると言われています。

 

元乗物町の「元」は日本橋の「新乗物町」に対して名付けられました。

「兵庫屋敷」は兵庫殿という御女中が拝領した屋敷である、と言われています。

 

町会の該当区域は、北乗物町全域となっています。

 

【神輿の特徴】

北乗物町町会は山車にご注目ください。

戦後作られた氏子町会最大のこの山車は、電線の高さを考慮に入れて、昭和29年に作成された、「獅子頭太鼓山車」です。

神田神社の正面に建つ「随神門」をぴたりとくぐり抜け、宮入をします。

純金箔貼りの雄、雌の獅子頭を取外し、「獅子頭神輿」として担ぐこともできます。

台座は総欅作りで、丁寧な彫刻が施してあります。その美しさをご堪能ください。

 

 


中神田十三ヶ町連合 内神田旭町々会

2015-05-10 16:51:39 | 宮入順

【町会の特徴】

江戸時代、この辺りは出羽秋田藩藩主佐竹義宣及び能楽師幸若太夫の屋敷地でした。

天和2年(1682)の大火でこの付近一帯が焼失した後、佐竹氏は下谷三味線掘(現台東区)に移転し、跡地は町人地となり永富町二四丁目、新革屋町代地、元乗物町代地の一部となりました。

明治2年(1869)、これらの地域は「旭町」と改名されました。

「旭町」の由来は佐竹氏の家紋「扇に日の丸」に因んでいます。

 

町内にある佐竹稲荷神社は寛永12年(1635)に創られました。

同町の鎮護の神として丑寅の一隅に安置されていましたが、大震災後の区画整理の際に現在地(内神田三丁目10番地)に移されました。

 

昭和41年に住居表示が実施されると、内神田二丁目と三丁目の一部となり、旭町の名前は地図から消えてしまいましたが、昔を語り継ぐように町会の名前として今でも存続しています。

 

町会の該当区域は内神田二丁目89131416番地、内神田三丁目568〜11151624番地となっています。

 

【神輿の特徴】

旭町の旧町である、永富町では天下祭の神田祭では竜神の山車を出していました。その故事にちなんで、内神田旭町々会の神輿は神田明神、竜神山車、花笠の町衆が彫刻されている、非常に珍しいものです。昭和27年、宮本重義作です。