goo blog サービス終了のお知らせ 

神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

鍛冶町一丁目町会

2009-05-10 16:41:43 | 平成21年 神田祭
Dsc_9565

Dsc_9566


町名の由来は鍛冶町二丁目と同様です。

多くの鍛冶師、鋳物師、釜師などが集まって築城用金物【かなもの】をはじめとし、建築用金具、鐘、鍋、釜などを製造する一大工業地帯となっていました。

鍛冶町は、江戸時代の武士や庶民にとって必要不可欠な金属製品を提供し、日常生活を支え続けた町でした。

昭和8年、震災復興の区画整理の際に町名変更が実施され、南乗物町等5つの町を一つとした「鍛冶町一丁目」が誕生しました。

町会の該当区域は、鍛冶町一丁目全域となっています。


当町会の神輿は神田明神の氏子町会の中で、数少ない入母屋造りの神輿の一つです。
総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。
秋葉原電気街での神輿振りは必見です。



鍛冶町二丁目町会

2009-05-10 16:22:24 | 平成21年 神田祭
Dsc_9548

Dsc_9563


鍛冶町は、慶長8年(1603)の市街地造成の際につくられた町屋です。

因みに「鍛冶」という名は、町が生まれた当初、江戸幕府お抱えの鍛冶方棟梁だった高井 伊織が、この地を幕府より拝領して屋敷を構えたことに由来すると言われています。

多くの鍛冶師 、鋳物師 、釜師などが集まった土地であった事に因んで、名付けられました。

ここ、二丁目界隈は金物のなかでも、とくに刀や薙刀といった打物を扱う業者が多かったのが特徴です。

昭和8年の区画整理で、黒門町、上白壁町、下白壁町、鍛冶町二丁目等が統合され、「神田鍛冶町二丁目」となりました。昭和22年、麹町区と神田区の合併により千代田区神田鍛冶町二丁目となり、更に昭和49年に神田の文字が無くなりました。

近代科学の大先覚者、平賀源内が29才で初めて江戸に出て家を持ったのがこの町であり、生涯を通して最も長く住んだ町であると言われています。

この町会には「良薬にして口に甘し」の浅田飴があります。明治30年からずっとこの地で営業を続けています。元は江戸末期から明治初期にかけて活躍した漢方医の浅田 宗伯処方の「御薬さらし水飴」を「浅田飴」と改め、売り出したのが始まりです。
 
町内の該当区域は鍛冶町二丁目全域となっています。


当町会の神輿は、昭和9年、神田神社の再興に伴う祭礼に併せて、宮大工の手により作られました。
大きさは、台輪寸法2尺6寸です。総 欅作りの傑作の神輿です。
現在は、神田神社神輿庫一番庫に収納されています。



北乗物町町会

2009-05-10 16:13:47 | 平成21年 神田祭
Dsc_9545_2

Dsc_9546


北乗物町は、明治2年(1869)に、元乗物町代地、兵庫屋敷代地、神田紺屋町二丁目横町代地が合併して成立しました。
成立時、この地に多くの駕篭職人が入居しました。
町名を付けるにあたり、かつて駕篭職人が多く住んだ地を乗物町と読んだことから乗物町となったと言われています。
当時、今川橋の付近に南乗物町が有り、そこより北に位置するため、「北乗物町」と名付けられました。
明治の中頃には、酒類製造所という大看板が下がっている大きな居酒屋があり、多くの労働者で大変賑わっていたそうです。
北乗物町は鍛冶町一丁目の中央を東西に走る道筋の北側にできた片側町でした。 

元乗物町の「元」は日本橋の「新乗物町」に対して名付けられました。
「兵庫屋敷」は兵庫殿という御女中が拝領した屋敷である、と言われています。

町会の該当区域は、北乗物町全域となっています。


当町会は氏子町会で唯一の獅子頭太鼓山車での宮入です。
昭和29年に作成された、獅子頭を戴く太鼓山車です。
雄、雌の獅子頭だけを取り外し、神輿として担ぐことも出来ます。その美しさにご注目ください。
今回、「紺屋町南町会」の皆様の協力を得て宮入をします。子供たちの元気な声と、「北乗物町」「紺屋町南」の2種類の半纏をお楽しみください!!



内神田美土代町会

2009-05-10 16:03:14 | 平成21年 神田祭
Dsc_9536

Dsc_9539


内神田美土代町会は、江戸時代は武家地と町人地でした。
武家屋敷としては五代将軍徳川綱吉の側近として活躍した柳沢吉保が屋敷を構えていました。その他、老中や若年寄を輩出した由緒正しい武家の屋敷が軒を連ねていたと言われています。
一方、武家屋敷だけではなく、商人や職人が住む町屋もありました。江戸時代の美土代町周辺は重要な武家屋敷地でありつつも、新たな風俗・流行を生み出すこともできる、懐の深い町でした。

町名の由来は、この周辺に伊勢神宮に捧げるための稲を育てる水田、「みとしろ」があったことに因んで生まれたものであるとも、「神田」を訓読みすると「みとしろ」になるため「美土代町」としたとも言われています。

昭和10年(1935年)の区画整理により、周辺が「美土代町」となりました。明治期の美土代町は、一~四丁目まである広大な町域を持っていましたが、時代を経るに従い、その範囲は狭くなっていきました。現在の千代田区神田美土代町が誕生したのは昭和22年(1947)のことです。

町会の該当区域は神田美土代町及び内神田一丁目2~4・12~15番地となっています。


宮入には総勢300名の担ぎ手により、賑やかに楽しく担ぎ上げます。見物人の方々にも当町会の和気あいあいとした雰囲気が伝わると思います。
小川町交差点及び、当町会の神酒所前での神輿振りは必見です。屋根唐破風型神輿の大神輿は、昭和28年、宮本 重義の手により生まれました。特徴のあるデザインが魅力です。



淡路町一丁目町会

2009-05-10 15:52:01 | 平成21年 神田祭
Dsc_9523

Dsc_9531


江戸時代の初め、この地には「西福寺」「西念寺」という、将軍家と関係が深い寺院が、観音坂を下りきったあたりに位置していました。
西福寺は慶長3年(1598)、徳川家康が故郷の三河から呼び寄せた寺です。

神田淡路町一丁目と名付けられたのは明治5年(1872年)になってからです。
この名前は、鈴木淡路守の屋敷があったことから名付けられたという「淡路坂」に由来しています。

当町会は、昔からのしきたりを尊重し大切に守る町会です。

町会の該当区域は淡路町一丁目の奇数番地となります。


当町会の神輿は、昭和40年に、宮本重義により作られました。
小型の神輿ではありますが、担ぎ手衆の迫力と技に御注目下さい。