江戸時代、この界隈【かいわい】は、武家屋敷が立ち並ぶ地域でした。永井信濃守【ながいしなののかみ】の屋敷が松平伊豆守【まつだいら いずのかみ】の屋敷となり、のちに若狭小浜【わかさおばま】藩酒井家の上屋敷【かみやしき】となりました。
明治5年(1872)、ここに神田淡路町二丁目【かんだあわじちょう2ちょうめ】という名前が正式に付けられました。町名の由来とされる淡路坂【あわじざか】は、鈴木淡路守【すずきあわじのかみ】の屋敷があったためといわれています。
明治初期、現在の淡路公園の場所に、明治後期の日本を代表する知識人を輩出した共立【きょうりつ】学校(後の開成【かいせい】学園)が創設されました。ここでは正岡 子規【まさおか しき】や南方 熊楠【みなかた くまぐす】などが学びました。また町内には一時期、『たけくらべ』などで知られる女流作家で、歌人でもあった樋口 一葉【ひぐち いちよう】も住んでいました。
淡路町は文化の町となり、その新進の気風【きふう】は町並みにも表れていました。大正末期から昭和初期にかけては、昌平橋【しょうへいばし】近くに活動常設館【かつどうじょうせつかん】(映画館)の名門である神田シネマパレスがあり、多くの人で賑【にぎ】わっていました。
町会の該当区域は淡路町二丁目【あわじちょう2ちょうめ】 1~29番地までの奇数番地となっています。
当町会の神輿は、昭和52年の宮本重義【みやもと しげよし】の手によるものです。神田明神氏子町会のどこにも負けないような担ぎをします。応援宜しくお願いします。