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神田駅東地区連合に続きまして、秋葉原東部地区連合の宮入りです。トップは東神田三丁目町会です。
南に神田川をのぞむ東神田三丁目(ひがしかんださんちょうめ)は、かつて神田八名川町(かんだやながわちょう)、神田元久右衛門町(かんだもときゅうえもんちょう)、神田餌鳥町(かんだえとりまち)、神田向柳原町一丁目(かんだむこうやなぎはらちょういっちょうめ)に分かれていました。
江戸時代からのこれらの町の名は、明治5年に正式な町名となりました。向柳原町は、浅草区へ編入したのちに一部神田区へ戻り、神田向柳原町一丁目となりました。
昭和42年、住居表示の実施により町名が大きく変わることになりました。このときに、案として出された「秋葉原」や「秋葉」の名前に満足できなかった町の人たちは、要望書を提出して「神田」の二文字を残すことにしました。こうして東神田三丁目という名前に変わりました。
町会の該当区域は、東神田三丁目全域となっています。
少々長くなるのですが、
1)狩猟と採集による移住を繰り返した時代に行われた収穫祭の祭壇が起源で、このときは祭りが終わると神輿は取り壊され、毎年新たな神輿を作って天上の神を招いていた。
2)農耕が始まり人々が定住するようになると、神に対しても定住が求められるようになり、居所としての神社が誕生した。そして神の乗り物として神輿が継承され現在のような形になった。
など、ほかにも色々あるようです。
具体的にいつ頃から、というのは分からないようです。
神輿の起源については未だ明らかではないが、「天平勝寶元年(七四九)、東大寺の大仏建立に際し、造営の無事祈願のため九州の宇佐八幡宮大神を平城京に奉遷、このときに紫色の輿が用いられた」とする記述が史上の初見とされている(『続日本記』孝謙天皇の条)。
このときの輿は輦輿(れんよ)という天皇・皇后の乗物であったといわれている。輦輿の屋蓋の中央に金銅の鳳凰を据えた輿を鳳輦(ほうれん)といい、天皇の行幸に際しての正式な乗物である。これが神輿の原型になったといわれているが、諸説があり確定はしていない。
http://www.h3.dion.ne.jp/~y-hirota/wakachuu/mikoshi_roots/mikoshi_root.htmlから引用。
■神輿の起源は、大分の宇佐神宮。
http://design-signal.co.jp/tokyo-meibutsu/matsuri1/
■宇佐に伝わる神輿の起源
http://www.usa-public-library.jp/gyarari/hatiman.html