神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

江戸神社奉賛会

2007-05-13 17:44:54 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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江戸神社奉賛会【えどじんじゃ ほうさんかい】は旧神田市場【かんだいちば】の関係者で構成されています。

 江戸神社とは、青果市場【せいかいちば】が神田多町【かんだたちょう】の地に有った江戸時代から、市場の関係者の間で守られてきた神社です。その後、青果市場が昭和の初めに秋葉原に移転してからも、市場にお社がありました。平成元年に大田市場に移転したため神田市場の摂社【せっしゃ】として境内にお神輿が祀【まつ】られています。


 当神社の神輿は俗に「千貫神輿【せんがんみこし】」と呼ばれている大神輿です。戦後、昭和33年に当時の職人の技の粋を集め「鹿野喜平」が新しく作り上げました。板金【ばんきん】の打出し出はなく、金属を打ち、そして彫るという手の凝ったものです。また、メッキも同様、現在でこのような仕事が出来る職人は居ないそうです。1班200人の3班体制で進められます。宮入終盤の鬩ぎ合いは圧巻です。神田祭の主役級の神輿です。大迫力の担ぎをご注目下さい。


神田和泉町町会

2007-05-13 17:19:22 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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江戸時代、この界隈【かいわい】には、伊勢国【いせのくに】津藩【つはん】 (現在の三重県津市)藤堂家【とうどうけ】の上屋敷【かみやしき】 、出羽国【でわのくに】鶴岡藩【つるおかはん】 (現在の山形県鶴岡市)酒井家の中屋敷【なかやしき】などがありました。町名の「和泉町」とは藤堂家が代々、和泉守【いずみのかみ】を名乗ったことに因【ちな】んでいる、といわれています。

 大正12年(1923)の関東大震災で町は、町民の防火活動によって火災をまぬがれました。このことは、世の奇跡として市民の賞賛を受けました。そのためこの神田和泉町を含む一帯は、昭和14年1月に、東京府より「関東大震災協力防火【ぼうか】の地」として顕彰【けんしょう】され記念碑が建てられました。

 町会の該当区域は、和泉町全域となっています。


 当町会の神輿は秋葉原地区では一番の大きさを誇ります。その大きさたるや、2尺5寸、重さは500キロにも達します!当町会を愛して止まない担ぎ手350~400人で宮入を行います。必見ポイントは社殿【しゃでん】前で、前に進もうとする担ぎ手衆と、それを押さえようとする、町会青年部との間の攻め技合いです。大興奮間違いなしです。



東神田三丁目町会

2007-05-13 17:05:48 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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南に神田川をのぞむ東神田三丁目【ひがしかんだ3ちょうめ】は、かつて神田八名川町【かんだやながわちょう】 、神田元久右衛門町【かんだもときゅうえもんちょう】 、神田餌鳥町【かんだえとりまち】 、神田向柳原町一丁目【かんだむこうやなぎはらちょう1ちょうめ】に分かれていました。

 江戸時代からのこれらの町の名前は、明治5年に正式な町名となりました。向柳原町【むこうやなぎはらちょう】は、浅草区へ編入したのちに一部が神田区へ戻り、神田向柳原町一丁目となりました。

 昭和42年、住居表示の実施により町名が大きく変わることになりました。このときに、案として出された「秋葉原【あきはばら】」や「秋葉【あきは】」の名前に満足できなかった町の人たちは、要望書を提出して「神田」の二文字を残すことにしました。こうして東神田三丁目という名前に変わりました。

 町会の該当区域は、東神田三丁目全域となっています。


 光り輝く神輿に御注目下さい。当町会の神輿は神輿師の製作ではなく、宮大工【みやだいく】により造られました。総勢300名での宮入となります。



佐久二平河町会

2007-05-13 16:51:42 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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この界隈は、江戸時代の早い時期から商人や職人が集まる町でした。「佐久【さく】」という名前は、佐久間平八【さくまへいはち】という材木商が住んでいたことから生まれました。江戸時代初期の慶長【けいちょう】年間(1596~1615)に、江戸城築城のための材木を供給したのも佐久間町でした。

 江戸時代から続いた神田佐久間町二丁目は、たび重なる火災で町が南北に分断されていましたが、明治2年(1869)にその間の武家地を編入し、明治44年(1911)、神田を取って佐久間町二丁目と改称しましたが、昭和22年には、その名を神田佐久間町二丁目に戻ました。

 一方、神田平河町【かんだひらかわちょう】も、防災と深いかかわりをもった町です。享保【きょうほう】12年(1727)、防火のため、麹町平河町一丁目【こうじまちひらかわちょう1ちょうめ】が火除地【ひよけち】に設けられました。そこに住んでいた人々のための代地【だいち】が神田佐久間町の隣に置かれ、麹町平河町一丁目【こうじまちひらかわちょう1ちょうめ】代地と呼ばれました。その後、明治2年に神田平河町【かんだひらかわちょう】 、明治44年には平河町と名を変え、昭和22年、ふたたび神田平河町【かんだひらかわちょう】と改名しました。

 町会の該当区域は、佐久間二丁目、神田平河町、佐久間河岸45~55番地となっています。


当町会の神輿は昭和27年に後藤直光【ごとう なおみつ】により製作されました。今年新たに修復されての宮入です。
御注目下さい。



佐久間町三丁目町会

2007-05-13 16:37:09 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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 江戸時代、この界隈には町人地と武家の屋敷地とが混在していました。「佐久間町【さくまちょう】」の名前の由来は、佐久間平八【さくまへいはち】という材木商【ざいもくしょう】が住んでいたことに由来するとされています。

 由来版が立っている佐久間公園は、ラジオ体操の発祥【はっしょう】の地としても知られています。「国民保険体操のラジオ放送(のちのラジオ体操)」が開始されてまもなく、昭和5年に万世橋【まんせいばし】警察署の巡査が地域の住民を集め、全国に先がけてこの公園で早起きラジオ体操を始めました。これを記念して同公園には由来を記【しる】した石碑【せきひ】が建立【こんりゅう】されています。

 大正12年の関東大震災時に神田川南岸まで火の手が来ていましたが、町内の人々が力を合わせてバケツリレーをし延焼を免れました。その功績を称え「町内協力防災守護之地」として史跡に指定されました。

 神田佐久間町三丁目は、江戸時代から続く由緒ある町名です。長い歴史に培【つちか】われた強い連帯感で結ばれた住民たちは、力をあわせて町を守り抜いています。

 町会の該当区域は、佐久間三丁目、佐久間河岸59~78号地となっています。


 当町会の神輿は、昭和32年に後藤直光【ごとう なおみつ】の手により生み落とされました。今年化粧直しを行いました。宮入前、鳥居前において今年も元気いっぱいの踊りを行いました。