神田祭.ch公式ブログ

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中神田十三ヶ町連合 多町二丁目町会

2013-05-12 16:54:31 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

中神田十三ヶ町連合 多町二丁目町会の宮入です。

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多町二丁目は神田青物市場、別名神田田町市場として有名です。

明暦の大火(1657)の前には、青物問屋の数は80軒以上にも増えたと言われています。
大火後に連雀町、佐柄木町の問屋は多町に合併され、神田多町市場と呼ばれるようになりました。

多町一、二丁目の起立時の町の形は昭和8年の住居表示変更まで約330年続きました。以前は、「田んぼ」の「田」の「田町」でしたが、いつ頃に「多い」の「多」の「多町」へ変わったのかは定かではありません。
多町市場に住む人や出入りする人が多くなったこと、また流通する品物や物資が多くなったことなど、町の繁栄とともに「多町」と呼ばれるようになったと言われています。 

町内には歴史のある神社と稲荷が祀られています。
松尾神社は江戸時代初期の頃から、この地にあり、多町市場の発展とともにその歴史を刻んできたと言われています。

もう一つの一八稲荷は徳川三代将軍家光が眼病を患ったときに、乳母の春日局が湧き水を汲みに来たと伝えられています。

町会の該当区域は多町二丁目全域になります。

【神輿の特徴】

多町二丁目町会の現在の神輿は、昭和54年に新しく作り直されました。
旧神輿は大正9年に製作したものでした。
大きさは2尺8寸になり、胴が締り、大きな作りとなっています。


中神田十三ヶ町連合 内神田鎌倉町会

2013-05-12 16:46:33 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

中神田十三ヶ町連合 内神田鎌倉町会の宮入です。

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天正18年(1590)に徳川家康は江戸城へ入り、「鎌倉町」の付近は江戸城の築城工事の際、資材の荷揚げ場となっていました。
多くの材木石材が相模の国(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚場が「鎌倉河岸」と呼ばれ、それに隣接する町が「鎌倉町」と名付けられたと言われています。

鎌倉町は400年以上の歴史がある江戸最古の町の一つです。

町内にある御宿稲荷神社は、小さいながらも江戸が都市化する以前から祀られている数少ない神社の一つです。

家康公がはじめて江戸に来たときに、一夜を明かした家の庭に祠があり、後に幕府より家康の足跡を記念して社地を寄進されたため、世に御宿稲荷神社の大神と祀られるようになりました。

町会の該当区域は内神田一丁目一番5~9・12・14号、5~8番及び内神田二丁目1~7、内神田三丁目1~4となっています。

【神輿の特徴】

内神田鎌倉町会の神輿は朱色の飾網が美しい、2尺5寸の大神輿です。
昭和38年に宮本 重義により作られました。
担ぎ手の緑色の半纏と神輿の鮮やかな対比をお楽しみ下さい。
綺麗な担ぎ方が当町会の自慢です。


中神田十三ヶ町連合 多町一丁目町会

2013-05-12 16:22:50 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

中神田十三ヶ町連合 多町一丁目町会の宮入です。

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多町一丁目は江戸時代には、神田堅大工町と呼ばれ、大工職・左官職・屋根屋等の職人が多く住む町であった、と言われています。

また江戸名物と言われた「纏屋治郎右衛門 」の店があり、江戸でただ一軒の纏屋でもありました。

町火消しの旗印たる「纏」はいずれもこの店で作ったものであり、「いろは四十七組」はもとより、他の地方の分までも一手に手掛け、その名は広く知れ渡っていたと言われています。

町会の道路下には、東京都指定史跡である「神田下水」が埋設されています。
この下水は明治17年に、一般市民の衛生や都市環境を改善する目的で、近代工学に基づいて建設された我が国初の近代下水道といわれています。その構造は現在の下水道管とは異なり、レンガで積まれ強固に築かれています。

町会の該当区域は内神田三丁目7・12~14・17・18・22・23番地となっています。

【神輿の特徴】

多町一丁目町会の神輿は昭和27年、宮本 重義の作品です。
大きさは2尺あり、白木造りとなっています。
熱気と興奮の宮入巡行は必見です。


中神田十三ヶ町連合 神田鍛治三会町会

2013-05-12 15:56:04 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

中神田十三ヶ町連合 神田鍛治三会町会の宮入です。

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昭和8年に「鍋町北の大部分・鍛冶町北の一部・鍋町西横町の内の一部」等が統合して「神田鍛冶町三丁目」となりました。

この界隈が鍋町と呼ばれていた理由は、江戸幕府の御用鋳物師を務めていた、椎名山城が屋敷を構えていたためであると言われています。
鋳物師とは、鍋や釜をつくる職人のことです。他にも御腰物金具師や御印判師なども住んでいました。

鍋町に住んでいたのは、このような御用職人ばかりではありません。
紅や白粉などの化粧品、傘、菓子、釘や打物などを扱う各種の問屋をはじめ、馬具や武具をつくる職人まで店を構えて住んでいました。

江戸時代、この界隈は鍋のような日用品から馬具や武器まで、多種多様な商品が揃う町でした。

町会の該当区域は神田鍛冶町三丁目・内神田三丁目19~21番地となっています。

【神輿の特徴】

神田鍛治三会町会の神輿は浅草岡田屋製です。
総勢350名の担ぎ手により宮入を行います。
宮入時の神輿振りに御注目下さい。大興奮間違いなしです。