こんにちは。
真実と事実と云う言葉。今日は,この2つの言葉の意味を書かせて戴きたいと思います。わたし達が日々の生活をして行く上でよく耳にする言葉であります。この真実と事実のもつ言葉の意味を最近とても考えていたりしておりました。つまり,真実と事実の違いはどこに在るのだろう?と云うことです。事実と云う言葉には,真実が果たして含めれているのか?反対に真実と云う言葉には事実が含まれているのだろうか?なんだか考えれば考えるほど奥が深く似ているようで似ていない言葉であると大変興味がありました。
たとえば,事実と云う言葉を「現実」と云う言葉に置き換えて考えて見るとより分かり易いように思います。この「現実」と云う言葉もよく耳にしたりする言葉でもあります。「これが現実」など人との会話で使うように。次に,真実と云う言葉を「真理」と云う言葉に置き換えた場合はどうでしょうか?「真理」と「現実」と云う言葉どうしでは,その言葉のもつ意味は全く違うことが解かり易くなります。事実とは目に見えるカタチの現象的な事柄であって,真理とは目には見えない非現実的な心で感じる事柄のように感じています。要は,誰にでも共通した普遍的・不変的なものと考えることが出来るのです。真理は1つと云う言葉もよく聞きます。
そこで,真実と云う言葉を真理と置き換え,事実と云う言葉を現実と云う言葉に置き換えて考えた場合,自分の人生をより良く生きるとは,まさにこの真実と事実の中間地点「中心」に立つことではないかと思い当たりました。真実にも事実にもどちらにも偏らない生き方が,この世界では生き易さを感じて行けることなのではないと考えた次第であります。たとえば,気の合う仲間同士で,いろいろな夢や希望をお互いに熱く語り合い無我夢中になり過ぎて時間を忘れていたと云う方々もいらっしゃると思います。
しかし,いくら自分の夢や希望をどんなに熱く夢中になって語り合ったとしても事実「現実」を考えると無理だとか難しいと云った急に先程まで語り合っていた話が空想話に変わってしまいます。わたしは,これが真実と事実の違いに想えてくるのです。実は,昨日,関東地方の千葉県成田市に御鎮座されます麻賀多神社と云う東日本一の大杉「御神木」を有する神社に久しぶりに参拝をさせていただきました。御存知の方も多いと思いますが,この麻賀多神社は日月神示と云う御啓示が降ろされた神社としても有名な神社で御座います。※正確には,麻賀多神社の境内に御鎮座される天日津久神社(あめのひつくじんじゃ)の御祭神とされています。
その日月神示(ひつきしんじ又はひつくしんじ)の中に,先ほどの真実と事実を考えさせるような言葉がたくさん出て来ます。たとえば「祈りだけでは祈り地獄に」「理屈だけでは理屈地獄に」にと云う言葉などであります。つまり,すべての物事と云うものにはバランスが大切であり,どちらか一方に偏ったりせずに中間地点「中心」を意識しなさいと云う趣旨だと私は感じています。とたえば,霊能云々,スピリチュアル云々に偏り過ぎて日常生活「仕事や私生活」に支障を来す様では,そんなものは神さまの御心にそうものではないと云うことです。ここを強く意識することがとても大切な気がいたします。人間には人間としての行があります。
この世の中は,お金だけではない。お金では買えない大切なものがあると云う考えがあるとします。わたしも正しい考えだと思っています。しかし,この世を生きて行くためには,お金がなければどうすることもできないと云う確かな思いもあります。つまり,この世は,お金だけではないと云う真実「真理」とこの世を生きて行く為にはお金が必要だと云う事実「現実」と解釈するとなんだか気持ちがとても楽に感じが致します。極端にどちらか一方に偏り過ぎた思考よりもバランス感覚がとても大事だと感じた日でした。
午後13時30分 麻賀多神社の境内にて記す。拝
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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。
私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。
又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。
それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。
菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。
わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。
観世音菩薩とともに。花咲あさひ 拝