花咲あさひ の 心神とともに。古神道と和の仕組の復活への道

感謝・反省・謙虚・奉仕・素直・勇気・結び・歓び・怒りあと1つの心柱は?
観世音菩薩は裸足で山を飛び出して行きました。

古神道入門 神ながらの伝統 2

2018年04月30日 04時55分01秒 | 祭祀と和の国

こんにちは。

今日もご登場です。おかげ横丁のお猫さま。寝てます・・・。

昨日に引き続き,古神道入門 神ながらの伝統と云う小林先生が生前に書かれた著書の中から一部を抜粋して紹介したいと思います。嬉しいことに,わたしが人物研究をして見たいと思っている南方熊楠さんのことにも少しですが,著書の中で触れております。日本で唯一,わたしの仕事上の大先輩でもあるのが南方熊楠さんです。南方熊楠さんは晩年,鎮守の森と神社護持に奔走して行きます。そのことから,私は南方熊楠さんを唯一の大先輩だと勝手に思っているのです(笑)。今日は,その第2章から書かせて戴きます。

以下,古神道入門 神ながらの伝統より。

第2章 日本文化の源泉は古神道から一部抜粋。

 脈々と流れる古代人のこころ

和歌山県出身の南方熊楠というお方は明治時代の偉人の一人ですが,古神道的な自然観を非常に強く持って,神社の社を大切にしろ,自然の森を大切にしろ,ということを一生懸命説いておられました。古神道的な自然観を西洋の生物学と融合させて膨大な著書を著わし,日本よりもかえって西洋で学者としての令名を馳せた人です。木へんに土と書いて杜,木を三つ書いて森,両方のモリがありますが,普通,神社の方は社を使います。この社という表現は地上でも特に天空高く聳える大きな杉の木とか楠木とかそういう大木です。そういう大木に神さまが御降臨なさるという信仰があるので社を大切にする。

社を守ることが古来からのしきたりになっております。ところが大正昭和となって鎮守の社にも開発の手が伸びてきたので,南方熊楠はそれを食い止めようとさかんに反対運動を行ったのです。自然を尊ぶということは世界的に普遍性のあるものです。とくに今日のように自然環境がどんどん破壊され,汚染されたりする時代は,鎮守の社を大切にするという思想,理念,意識,これを地球上に広めていかなければならないと思われます。古神道的な自然を見る力,あるいは見る観力,これを世界中に伝播して地球の破壊,環境破壊を食い止めるよう努めていく必要があります。

これは何も宗教を広めるということではなしに,うるわしき自然を後世に伝えるという意味においても,現在を生きる我々の義務でもあるわけです。事実,神社の社や古い森は植生が多様で植物学的に見ても非常に貴重な財産になっているのです。植物学者が一番推薦しておられるのは,伊勢神宮の別宮になっている瀧原の宮です。松坂から熊野路の方へ走って行きますと,約1時間ぐらいで瀧原の宮があります。そこは昔,神宮が祭られていた元伊勢のひとつですが,その瀧原宮の社は数十メートルもある高い木,中くらいの高さの木,それから灌木類というように三層の植物が群生しています。

まさに植物の共生ですね。日本各地の神社に昔の社が残されていますが,このお宮の社が最も理想的な群生の形であると学者は言われております。今の天皇皇后両陛下が皇太子同妃殿下のときに三重県で国体が行われ,瀧原宮に一晩御参籠になられて,すばらしいお宮だとおっしゃっておられた。両陛下も立派な植物の共生,群生林に感銘なされたのです。

日本人というのは,海外に出て「あなたの宗教は?」と問われますと,「無宗教です」と言う人が多いですが,決して無宗教ではないわけです。たとえ一度でも神社にお参りするというのは,神道という一つの根っこ,そういう信仰があるから初詣でに行くわけです。家庭でご先祖をお祭りするのに仏教で祭っていようが,キリスト教会に行く人であろうが,やはり初詣でには神社に行くというしきたりが古来からあります。潜在的な信仰というのが日本人にはあるわけです。

縄文の古代から大自然の運行,そういう動きを神の働きとしてとらえた古代人ですが,岩や木を拝むとか,川や海を拝むとか,そういう自然に対する信仰を西洋の宗教学者たちは,迷信にとらわれた次元の低いアニミズム信仰だという分類の仕方をします。アニミズムという定義が果たして妥当かどうかは別にしても,自然に対する畏敬の念は日本人の心から消えることはないわけです。なぜなら古神道というのは,宗教というより,自然と人が共生する生活の習慣であるからです。

あえていうなら生活信仰というものです。

深い山へ行けば古い大木に対する畏敬の念が働くのは,人間の心理としてもごく当然なことです。幸い数年前には,鹿児島県の屋久島の縄文杉が世界遺産に指定されたりして,自然保護の気運も高まってきました。たしかに,これだけ地球環境が悪化した今となっては自然保護も必要ですが,本来的にいえば,むしろ人間の方が自然の力の恩恵を受けて保護されているわけです。そういうことを意識しないで,ただ自然保護というなら,それは傲慢というものです。

樹齢7000年ぐらいの大きな縄文杉をみると,それを保護するという感覚より,伏して崇めたくなるほど立派で崇高なものです。実際,植物の生命力というのは大したもので,人間の80年,100年の生命ではなしに,何千年という長い年月を経ているわけです。そういう生命力,偉大なる生命力に対して人々は畏敬の念を持って拝む。それが御神木というふうに仰がれてくるわけです。古代人はこのようなものはすべて御神木と崇め大切にしてきたのです。

自然に対する畏敬の念というのは,小さなものにも向けられます。

たとえば,春になれば梅が咲き,梅の後には桃が咲き,桜が咲く。その自然を「見立て」て生け花をしたり,花見をする。秋になれば月見をする。こういう花鳥風月に対する人の慈しみの心が日本人の心です。大切なのはその自然の生命力をモノとして見ずに,そこに生命の根源の働きが如実にあるということを感受性豊かな心で悟って,その自然の中の生気,これを神として捉えて至信に拝むという,これが日本人の自然に対する感覚です。西洋人のように,山へ登るのは山を征服するんだという考えではなしに,山へ登らせていただくという感覚。

六根清浄を唱えながら,身を浄めながら山を汚さないように,山の霊気に触れる。巨大な岩があればそこに岩を拝む。大きな木があればそれを御神木として拝む。こういう自然に対する畏敬の念というのは,古代人から現代に受けつがれてきたものです。忘れているようでも潜在意識のなかには脈々と流れているのです。古代人が感覚的にとらえた宇宙生命のスパイラル運動,これは現代科学によっても実証されています。ですから地球時代になった今,屋久島の縄文杉のように古神道の自然観,世界観が改めて見直されているのも,時代の流れというより,自然の理ともいうべきでしょう。

以上

冒頭でも南方熊楠さんのことを書かせて戴いたように,小林先生も著書の中で,南方熊楠さんの自然観を短い言葉ですが語られております。私は個人的に,南方熊楠さんは自然に対する崇敬の念と同時に,自然から発せられる音霊「波動」を見事に観て居られていたのではないかと感じています。そのことは以前にも南方熊楠さんを記事にさせて戴いた際に書かせて戴きました。

又,日本古来の古神道がもつ思想や概念と西洋や西洋人との違いも述べられております。日本人と西洋人との一番の違いは共存共栄と云うものではないでしょうか。日本人は,共存共栄がすべての出発点にあり,和を重んじる国家です。しかし,西洋人は支配や征服に重きを置きます。そのことは科学でも医学でも法律学の面でも如実に表れています。近代の日本は,西洋の考え方が普通になってしまいましたからあまり違和感を感じないと思いますが,本来,日本人と西洋人では考え方も思想も概念も全く違うのです。

ただ,小林先生が山への入山について書かれていますが,私は少し違う考えを持っています。

それでは,今日も古神道の〆言葉で祝杯を挙げたいと思います。

日本弥栄!!

 

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

観世音菩薩とともに。花咲あさひ 拝