刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】空想は楽しいが・・・(;^ω^)

2025-03-02 00:00:02 | 古代史

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#ANYAさんは活発に邪馬台国論を発表されていますので、時々反論コメントして、最初はお返事くれたのですが、最近は無視されて残念です。消すことまではしないのは紳士的ですが、ちょっとこの先が心配になりましたので、申し訳ないですがしつこく以下の動画にコメントしました。

よろしければまたお付き合いください(#^.^#)

③【阿波説 討論】 歴史妄想 VS ANYA

ANYAチャンネル@YouTube

みなさんは驚かれるかと思いますが、いま語られているような記紀神話は江戸時代に本居宣長が古事記を発掘して絶賛し、独自に解釈した神話なのです。
 
それまでは720年に完成した日本書紀が創った日本神話が、神仏習合、修験道や道教などの影響で記紀神話とは全く異なる、ナーガ(龍蛇神)信仰の中世日本紀に変貌していたのです。詳しくは斎藤英喜「読み替えられた日本神話」(講談社現代新書 2006)にあります(注1)

(詳しくは「天皇即位の密教の儀式の正体?」参照)
 
712年に完成したとされる古事記は9世紀の日本書紀の勉強会(日本紀講えん)で突然表に出てきたもので、正史に古事記の記録もなく、日本書紀が参照した痕跡もないものなのですから偽書なのです(注2)。
 
しかし、多くの日本人は天皇の歴史書だと刷り込まれているので、記紀神話を太古からの伝承だと考えています。 日本書紀は天武天皇が編纂を命じたのはいいと思いますが、完成したのは崩御の34年後なのです。時の権力者藤原不比等が、権力を将来に渡り握り続けるために不都合な建国時代の歴史を神話を創って誤魔化し、人代もかなり改ざんしていることが、事実、つまり考古学や民俗学などの成果から判明しています。
 
 
アブダクションと呼ばれる最近注目されている科学的な推論法に従って、事実に基づき仮説を構築しています(詳細は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」参照)。
 
事実に基づかない想像は空想ですが、空想に凝り固まって反論を受け付けないのは妄想という病気の症状です。余計なお世話かもしれませんが、ANYAさんも仮説を事実でもっと検証した方がいいと思います。
どうもお邪魔しました(;^ω^)

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(注1)この本のレビュー日本神話はトンデモない!? 豊饒な「日本書紀」、天皇が発する「勅語」という神話」(2017.2.8)がありますのでどうぞ(;^ω^)。しかし、記紀神話が偏狭なナショナリズムを生み出し、多くの日本国民を不幸にした大東亜戦争とその敗戦の元凶のように考えられていますが、それも一方的な偏った見方ではないかと思います。その時代にはその時代の考え方があり、封建社会から近代化に向かい、列強が支配する世界の荒波の中を生き抜く知恵として記紀神話が使われたことも事実です。歴史を知ることは未来を如何に賢く生きるかを教えてくれるものですから、前向きにポジティブ思考で考えてゆけばいいのだと思います(^_-)-☆

今、一番興味を持っている霊ライン解明の糸口になるかと思い、田畑誠(まこちん)「宇宙一わかりやすい「量子力学」大全」KADOKAWA 2024)を読み始めたのですが、すべての現象は各自の脳内で素粒子が作り出す情報でしかないと知って、少しショックを覚えています。学生時代には量子力学を独習しようとして途中で投げ出した覚えがあります。でも、もう一度勉強しなくてはならない予感がしています。頭が錆びついていますのでもう遅いかも知れませんが(;^ω^)

(注2)日本書紀が完成した翌年養老五年(721年)が最初とされますが、この時は講師を決めずにお披露目しただけです。その後、弘仁三年(812年)・承和十年(843年)・元慶二年(878年)・延喜四年(904年)・承平六年(936年)・康保二年(965年)の計7回行われたものと、史料などから考えられています。その弘仁三年の講師が多人長です。サブテキストとして古事記の存在を明らかにしましたが、序文はその内容から人長が書いたものとされています。通説では本文は、何らかの原本があったと見られていますが、すでに大和岩雄「古事記成立考」(大和書房 1974岡田英弘「倭国の時代」(文芸春秋 1976)で偽書と論証されているのです。これらを受け入れられないのは、多くの方が「記紀が天皇の歴史書」だという思い込みからでしかないのです(詳細は「【刮目天の古代史】日本書紀のひみつ?( ^)o(^ )」参照)。

古事記は、日本書紀が隠した史実を、日本書紀に沿いながら違えることによってそれとなく史実を暴露する暗号書だったのです。以下に主な内容を示します。

(1)王年代紀は記紀神話を正した!

新唐書・宋史が記した王年代紀で示した初代奴国王天御中主を、日本書紀で高天原に最初に登場する神として古事記でも登場させ、日本書紀の神代七代前に五代の別天神を紹介することによって、神代の高天原の神々が、宋史王年代紀に記載した倭国を支配した奴国王のことだと示唆した(詳細は「王年代紀は記紀神話を正した!」参照)

(2)倭王帥升(すいしょう)は何者だ?

高天原を追放された乱暴者の神が、八百万の神々に髪の毛をむしられ、手足の爪を剥がされ、全財産を没収されて追放されたと書くことによって、107年に後漢に朝貢した倭の伊都国王師升が第十八代奴国王スサノヲを殺して倭国を奪った史実を示唆した(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

(3)ナガスネヒコの正体は大国主トビヒコだよ!

日本書紀の神武東征神話が真の初代応神天皇の即位の史実を誤魔化す話であることを示唆した。日本書紀で登場するナガスネヒコの別名をトビヒコと明かすことにより、トビヒコの正体の大国主がヤマトのニギハヤヒ大王の子孫に殺された後に大国主の祟りにより、大国主の子(応神天皇)が祭祀王として纏向遺跡に呼ばれてヤマト王権が成立した史実を示唆した(詳細は「ナガスネヒコの正体は大国主トビヒコだよ!」参照)。

(4)日向三代神話は出雲三代がモデルだった!

日本建国の主役であったスサノヲの子孫の出雲・丹後王三代の王八束命(出雲国風土記の神八束水臣津野命の略称)・日高彦(大国主高野御子の父)の正体を日本書紀は日向三代の神話で隠したことを示唆する神名を与えた。八束命は淤美豆奴神(オミズヌノカミ)とした。またその子日高彦(穂高彦)を天之冬衣神(アメノフユキヌ)としたが、冬の季語がホダ(木切れ)なので八束命と日高彦が木霊イタケルの子孫であることを暗示した(詳細は「日向三代神話は出雲三代がモデルだった!」参照)。

(5)空白の世紀と倭の五王の謎

空白の四世紀の謎を解明するためのヒントを与えた。仁徳天皇が、応神天皇の皇太子菟道稚郎子(ウジノワキノイラツコ、宇治天皇)を暗殺して皇位を奪った史実や卑弥呼の弟赤坂比古(記紀の日触使主、詳細は「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」参照)の孫の菟道稚郎子の妹八田皇女と仁徳天皇の子住吉仲津彦(住吉天皇)が即位した後、異母兄弟たち(履中天皇・反正天皇)に暗殺された史実に加えて、倭の五王の系譜を示唆するために日本書紀と異なる崩年干支を記載した(「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その3)」参照)。これによって富雄丸山古墳の被葬者が判明した(詳細は「【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆」参照)。

(6)天智天皇とは何者だ?

日本書紀が隠した天智天皇の真の系譜に気付かせるヒントを与えた。日本書紀が天智天皇の祖父とした押坂彦人大兄の妃糠手姫皇女(ヌカデヒメノヒメミコ)が、日本書紀が天智天皇の母とした宝皇女(タカラノヒメミコ、皇極・斉明天皇)と同じ名前の宝王(タカラノヒメミコ)だったことを明かすことで天智天皇(中大兄、中津王)の真の母が糠手姫皇女であったことを示唆した(詳細は「天智天皇とは何者だ?( その4 )」参照)。

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【関連記事】

王年代紀は記紀神話を正した!

10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として倭国から日本に国号を変えたことが正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)

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国引き神話は史実だった?(その5)西谷墳墓群の被葬者は?(^_-)-☆

2025-03-01 00:12:47 | 古代史

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#2023-11-29 06:24:41に記事にしましたが、その後の調査で弥生後期から古墳前期の辰韓の土器が出雲市山持遺跡で出土していることが分かりましたので、文末に図と共に追記しました。よろしければまた、お付き合いください(#^.^#)

#当初は(その3)あたりでこのシリーズ終わる予定だったのですが、いろいろと出てきましたので続けたいと思います。新たな発見で、その前に書いたことと矛盾するところも出てきて、修正もしながらやっていますので、よろしければ戻ってもう一度読んでいただき、おかしなところを指摘していただくと助かります。それでは、前回予告した西谷墳墓群についてみていきます。いつもの駄文で恐縮ですが、どうぞお付き合いください(;^ω^)

西谷墳墓群は出雲市大津町にある弥生時代から古墳時代まで長期間営まれた30基以上の墳墓と横穴墳墓群です。特に、弥生時代後期後葉(二世紀末)に出現した大型の四隅突出型墳丘墓が多くの人々から注目を集めています。方形台状墳丘墓に首長やその一族が葬られ、四隅が拡げられて、そこから人々が墳丘に登り、儀礼が行われたと分かるものです。この形式の首長墓が日本海沿岸部などに拡散する、地形を利用した大型弥生墳丘墓です。弥生時代の終末期(三世紀前半)そして古墳時代初頭(三世紀後半)から平地に、さらに大規模な古墳が造られるようになりますので、古墳時代の発祥を議論する上で特に重要な遺跡です。



下図は平成10年度調査報告書から引用した西谷墳墓群の分布図ですが、6基の四隅突出型墳墓に赤丸を付けています。葬祭に使われた土器の形式から3号墓・1号墓が二世紀後半、2号墓・4号墓が二世紀末ころ、9号墓・6号墓が三世紀前半に造られたとされています。ただし、9号墓は「編年に有効な壺形土器の口縁部などが出土しておらず時期の確定は難しい」とwiki「西谷墳墓群」にあります。



最初の2号墓の写真の手前に見えるのが3号墓の北西の端部で、そこに見られる立石が2列になっている様子が見えます。2号墓も2列あります。1号墓・4号墓・6号墓は立石が1列です。そして、9号墓だけは3列も配石がありますので、特に丁寧に作られた墓だと分かります。そして、最大のサイズの9号墓が東西42m×南北35m、次が3号墓で東西40m×南北30m、2号墓が東西24m×南北35m、そして4号墓が東西34m×南北27mです。首長クラスの墓は立石が2列以上のものと考えると、4号墓は大きくてもランクが一つ下になると考えられます。

2号墓は全体の4分の3が破壊されていたそうで、3号墓は木槨の中に木棺が納まっていたので、恐らく同じ形式と考えられ、攪乱された土の中から朱の塊が出土しているので、木槨の土壙の底に砂利と赤色粘土もしくは赤色顔料が敷かれていたと考えられています。4号墓についてはその記述がないので、やはり王よりもランクが下の有力者の墓と考えて良いようです。

3号墓の復元模型が出雲弥生の森博物館で展示されています。手前に新しい王と王妃が座っており亡くなった王妃の墓の上で儀式が行われている様子も、すべてしっかりと考証されて忠実に示されています。奥の柱が見える部分に王の棺が埋められています。四隅に柱を立てる作業の様子が示されています。模型の右側に見える展示物が王の墓の断面を示したもので木槨で囲われた木棺の底に朱が敷かれて、その上に王の遺体がある様子が分かります。


クリックすると、王や妃など人物の様子が見れますのでどうぞ(^_-)-☆



王の木棺の中に短剣と管玉の首飾りがあったようです。その右上に同様の少し小さいものがありますが、幼児のものとされています。王・妃・王子または王女が同時に亡くなったのでしょうか?だとすると感染症が死因なのかも知れません。王妃の墓からは碧玉製管玉、ガラス製品(小玉、垂玉、管玉、勾玉など)が大量に出土しています。そしてこの台状面に他に6個ほどの土壙墓があるので奴婢などを殉葬したのかも知れません。また、封土の上に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰・丹波(丹後半島)・北陸地方の土器も見られます。下の図は北陸系土器として島根県のホームページにありましたが、壺の右側に突起が見えます。素人考えですが三韓土器に耳がある壺があるので似た感じです。辰韓(新羅)のものだったらバッチリ国引きの証拠ですが、残念ながらやはり違うようです。しかし、3号墳王墓(第4主体)に伴う土器の「内訳と割合は山陰系土器約 61%,丹越系土器約 21%,吉備系土器約 14%,系譜不明土器約4%である。」とあるので系譜不明の中にあるのかも知れません(「西谷3号墓発掘調査報告書本文」、2015,p.223)。もしも浦項地域の土器が出雲にないのならば、浦項市虎尾岬から在地の人が出雲に渡ってはいないということですから、出雲の人が対馬経由で半島南部の鉄素材を持って来ていたということになります。(注1)(2023.12.2 赤字追加)



そして、2号墓からはガラス腕輪や、吉備の特殊器台・特殊壺などが出土している。とあるので、女性の墓と考えられます。上述のとおり、二世紀後半の3号墓よりも少し新しい二世紀末と考えられています。

さらに、3号墓・2号墓と少し離れた東側の、最も丁寧に作られた9号墓ですが、規模も最大ですので特別な被葬者だと考えられます。墓の上に三谷神社が在ります。健磐龍命(たけいわたつのみこと)、亦の名を阿蘇津彦命とあります。この神は景行天皇の熊襲征伐に登場します。天皇が阿蘇山に登ってみたら、ここには人が居ないじゃないかとつぶやくと、突然私たちが居ますよと阿蘇津彦命と阿蘇津姫命の二人の神が現れました。そこで、天皇は「あ、そう?!」と言ったのでここを阿蘇と名付けたそうです(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)から(その4)」参照)。日本書紀の編纂者らはダジャレで楽しんでいたようです。史実と違う話を無理に作るように権力者の藤原不比等に命じられたので、コノハナサクヤヒメなどと適当な名前の姫を登場させて、笑いながら作業した様子が目に浮かびますね(#^.^#)

阿蘇津彦命と阿蘇津姫命は、大国主と妃の台与のことです。至る所に登場するペアの神様の正体です。民間伝承でも道祖神の中に男女ペアの石像などが見られますが皆、大国主と台与のことなのです(詳細は「道祖神もやっぱり(^_-)-☆」参照)。

ということで大国主が三谷神社の祭神ですが、大国主の墓はすでに見つけています。戦死した場所は久留米市高良山です。その西麓にある祇園山古墳というピラミッド状の立派な方形墓です。夏に行ってきましたが、草に覆われて登るのも大変でした。しっかりと整備して欲しいものです。それから初代応神天皇が両親の祭祀を纏向で行うために造った古墳が桜井茶臼山古墳と箸墓古墳です。箸墓の被葬者「倭迹迹日百襲姫命」はヤマトとトビ(大国主)を恨んで、何度も何度も唱えるお姫様という名前なのです。たった十三歳で女王ということにさせられて、最後はヤマト勢に殺された悲劇のヒロインなのです(詳細は「悲劇の女王台与のはなし(その1)から(その4)」参照)。だから卑弥呼の墓ではありませんよ(^^;)。

ですから三谷神社の祭神の大国主が9号墓の被葬者ではありません。社伝によれば「新宮氏の先祖が紀州熊野から勧請した」とあり、9号墳の南側の上来原の三谷 山上にあったのが、いつのころか古墳の上に遷されたとあります。戦国時代のこの神社の記録があるそうで、それ以前のことになります。

新宮と言えば熊野三山ですから熊野信仰は平安中期から始まったようで、イザナギ・イザナミとスサノヲを祀っています。大国主はその末裔です。古代人は、新たに王となった人物は偉大な祖先の霊魂を引き継いで偉業を達成できるという信仰があったのです。これを米神信仰と呼びます。大国主が最初に国造りを行った宇佐市安心院町佐田地区にあるストーンサークル佐田京石と米神山に因む祖霊信仰です。それを一般化すると首長霊信仰という意味になります(詳細は「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」、「古代史のカギを握る神々の正体?」「宇佐は記紀が隠した秘密が満載だ」など参照)。
 
ちょっと長くなって恐縮ですが、社伝の続きです。「元禄十三年(一七〇〇)それまで同地池ノ内にあ った式内阿須利神社を当社に合祀した」のですが、「明治五年、神社制度の改正にあたり、 阿須利神社がふたたび独立社として大津町山廻の 地に遷されることになってため、当社は一時廃社 となり、その後地区民の陳情により、同十三年無 格社として再興した。」とあります。

その阿須利神社の説明書には「創祀年代は不詳。
式内社・阿湏利神社に比定されている古社で、『出雲風土記』に「阿須理社」とある神社。

『雲陽誌』には、出雲の振根が弟・飯入根を殺した時、血(汗)が流れて池中に入り、阿世利という、とあり、
また、八岐大蛇が、この池に入って「あせった」ためと、「あせり」という名となったという話もある。

以上の話の通り、本来は上来原の池の内の杓子山に鎮座していた。貞享の頃、その地に高瀬川が開設され、土砂が流入する地となり、三谷の三谷神社境内に、やむなく遷座

明治になり、神社整理のため廃社となった大津町の龍王社跡地に遷った。さらに、大津町で廃社となった八幡宮を合祀し、現在の状態になった
。」とあり、西谷墳墓群の北西約1kmの龍王という地名だったそうです。祭神が豊玉彦なのです。(2023.11.30 赤字訂正)

まあ、そういう事情で三谷神社に遷座したというのは分かりますが、「やむなく遷座」ですか?本来の場所に鎮座していただきたいという地元の人々の気持ちが何となく伝わってきませんか? この9号墓の被葬者は、(その4)にも述べたとおり、藤原政権が厳しく監視した最も隠したい神様のひと柱なのですから、被葬者がどなたかもうお分かりですよね(^_-)-☆

この最も立派な9号墓を造った人物は大国主の父、倭国大乱で大活躍した英雄で、倭国王師升の子孫難升米に討たれた狗奴国の官狗古智卑狗だと思います。この地で父の八束命を葬り、王位継承の儀式を行ったのだと思います。

さて、それでは3号墓の被葬者ですが、これも(その3)で大国主の系譜を調べましたからお分かりだと思います。この出雲の地を治めた八束命の父五十猛命(イタケル)とその妃、古事記によれば木花知流比売ということになります。八束命はやはりイタケルの子だったようです。八束命が国引きしたスサノヲ大王ゆかりのムナカタ海人族を呼び寄せて葬儀を行ったのでしょう。吉備の人々も来ています。クーデターを逃れたスサノヲの弟ニギハヤヒがムナカタ族の支援で吉備を平定して隆盛になり、奴国を再興したのです。その子孫が纏向遺跡を造りヤマト王権を成立させたのです。ニギハヤヒ大王が奴国王を継承し、天照大神尊(王年代紀第19代)と呼ばれ、倉敷市楯築王墓に葬られています。イタケルよりも先なのか後なのかは今のところ分かりません。

そうなると2号墓の被葬者も分かります。出雲市氷川町の万九千神社(まんくせんじんじゃ)で神様を送り出す祭りをしますが、主祭神は櫛御食野命(クシミケヌノミコト)スサノヲです。大穴牟遅命(大国主)、少彦名命と 八百萬神が一緒に祀られています。そして境内に立虫神社(たちむしじんじゃ)という変わった名前の神社がありますが、祭神が五十猛命(イタケル)、大屋津姫命(オオヤツヒメ)抓津姫命(ツマツヒメ)で、二人のヒメはイタケルの妹、抓津姫命は大屋津姫命の妹です。父スサノヲに連れられて紀ノ國などで木の種を撒いた神様です。しかし、スサノヲは師升らに殺されていますので、三人の王子・王女はムナカタ族に助けられて奴国を脱出し、出雲の地で暮らしたということです。立虫神社が先にあったという説がありますから、それが正解だと思います(^_-)-☆(2023.12.3 赤字修正)

ということで今回の推理でいろいろと分かりましたので、大国主の系図を推定したものを下に示します。
記紀が天皇の歴史書だと思わされたままでしたら、藤原政権の八束命隠ぺい工作は見抜けませんから、西谷王墓の被葬者は永遠の謎でしょう(;^ω^)(2023.11.29 赤字追加)



(注1)松本岩雄先生(八雲立つ風土記の丘所長)「弥生時代史にみる東アジアとの交流」第 5 回市史講座ミニレポート:平成 30 年 8 月 18 日(土) に以下の記述があります。

 韓国の勒島(ヌクト、古代の弁韓諸国の地域にある島)では、九州の弥生中期の土器、楽浪郡の土器、中国の銭が一緒に出土しており、貿易拠点だったのではないかと考えられるそうです。この勒島の土器は出雲市の山持遺跡からも出土しており、九州北部から山口・島根(出雲地域)への分布が見られるそうです。
一方、出雲地方と楽浪郡(現在の平壌周辺)との繋がりもみられました。九州北部と出雲地域で楽浪郡の土器などが見られることから、
(1)楽浪郡との直接交流、(2)中継地を経由、という二つの説があるそうです。土器の移動については、(1)土器の作成者が運んだ、
(2)交易者が運んだ、(3)地元の人が持ち込んだ、(4)地元の人が他地域の土器を真似て作った、など様々な説があり、より詳しく検討する必要があるそうです。

<中略>
 さらに、階級の成立を考える上で重要な出雲市の西谷墳墓群を挙げられました。この遺跡の埋葬遺構からは大量の水銀朱が出土しており、三号墳には 4cm にわたる朱の層ができていたそうです。これらは中国の朱の成分に酷似していることが分かりました。当時の朱の価値を検討したところ、「生口(奴隷と推定)10 人分」にも及ぶそうです。この他、ローマ帝国内で生産された硝子の管玉、朝鮮半島産鉄製剣がもたらされていたことが分かってきました。こうしたものを入手できる財力を持った有力階級が成立していたことが分かります。

【追記】(2025.3.1)

下図(左)に出雲王と半島・吉備の繋がりを示します。

辰韓の土器は西谷墳丘墓では出土していませんでしたが、2km北に在る山持遺跡から出土していることが分かりました(渡辺貞幸「出雲王と四隅突出型墳丘墓」新泉社2018,p.49)。したがって、国引き神話の志羅紀の三埼に比定した浦項(ポパン)市虎尾岬へのルートを下図に書き入れました(「国引き神話は史実だった?(その1)」参照)。

弥生中期末から後期中葉に楽浪郡、弥生後期末には馬韓や弥生中期末から後期末に弁韓(交易の拠点勒島遺跡)、そして後期末から古墳初期に上述の製鉄が盛んに行われていた辰韓(慶州市の隍城洞遺跡)と出雲は交流があることが分かりました。縄文時代にすでに縄文人(ムナカタ海人族)が隠岐の黒曜石を持って半島などに渡っていましたので、当然、弥生時代にも交流があったということです。

まだ幼子だったスサノヲの王子五十猛(イタケル)や王女大屋津姫(オオヤツヒメ)抓津姫(ツマツヒメ)は祖母イザナミの実家のムナカタ族の手助けで奴国を脱出し、出雲に領地を与えられて成長したと考えています。右の図にこの三柱を祀る立虫神社の位置を示していますが、元は社伝によると現在地より7,800m南西にあったようです。図の「なかのムラ」はナーガ(龍蛇神)の村を示していますので、中野美保遺跡に王宮があったと考えられます。

 

また山持遺跡から南西約1kmにあった「よつがねムラ」の矢野遺跡に、下図のとおり、吉備の葬祭用の土器(3号墳に出土した特殊器台と同様なもの)が出土しています。2・3・4号墳で出土したものとやや異なる文様で、なぜこのムラで出土したのかも不明と説明されていました。

出雲王イタケルの後継者の八束命が山持遺跡に居て、吉備の使者が八束命に届けたのかもしれませんネ(;^ω^)吉備のニギハヤヒ大王はスサノヲの弟で、どちらも奴国を逃亡した境遇でしたので、親族として緊密な交流があったはずです。

物部氏の祖とされるウマシマジはニギハヤヒと三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)の子で、狗奴国王卑弥弓呼(崇神天皇)の祖父か曽祖父ではないかと考えています。このミカシキヤヒメは神武東征神話でも登場しますが別名トミヤヒメとあり、ナガスネヒコの妹とされています。ナガスネヒコは古事記がトミヒコだと素性を暴露しています。

トミはトビと同じヘビ神で神武東征神話では大国主のことなのですが、年代が合いません。ナーガ(龍蛇神)=奴国王スサノヲの王子イタケルを意味するなら、スサノヲの弟ニギハヤヒの子ウマシマジの母はイタケルの妹の二人の王女オオヤツヒメかツマツヒメのどちらかの可能性があります。

そしてウマシマジの異母兄で、尾張氏の祖アメノカグヤマの母が天道日女(アメノミチヒメ)で別名が下照姫とあり、これも大国主の国譲り神話に登場します。まだ生まれていない大国主と宗像三女神のタギリヒメの子という誤魔化しがあるので混乱します。しかし、なぜ誤魔化したのかを考えると、ややこしいですが、アメノミチヒメがツマツヒメ、ミカシキヤヒメがオオヤツヒメ、あるいは逆ではないかと考えてしまいます。つまり、スサノヲの弟ニギハヤヒは二人の姪を妃として吉備で奴国王(宋史王年代紀19代王天照大神尊)としての正統性を主張したのではないかと考えました。しっかりした根拠のある推論ではないので申し訳ないですが・・・(;^ω^)

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