刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】三角縁神獣鏡の謎?(^_-)-☆

2025-02-05 00:00:05 | 古代史

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@katumoku10
詳しい鏡の解説をありがとうございました。とても勉強になりました。

三角縁神獣鏡が卑弥呼に魏からもたらされた百枚の可能性はありますが、他の種類の鏡がシナや半島から出土しているにもかかわらず、魏で1枚も出土していないという奇妙な現象から考えると、やはり三角縁神獣鏡は倭国内で作られたという可能性の方が高いと思われます。

三角縁神獣鏡の部分名称 wiki「三角縁神獣鏡」より

魏の文様にすることは倭人では難しかったようですが、280年に呉が滅んだ時に倭国に亡命した呉の職人に狗奴国(後のヤマト政権)が魏鏡を作らせたと見ることができます。

何故なのかは以下のように推理しています。

呉が滅んだ時点で、すでに纏向遺跡の狗奴国が西晋に朝貢していた女王台与の倭国(伊都国を王都としていた)を滅ぼしていたので、狗奴国が西晋に追討されることを怖れて台与の子を纏向遺跡に呼び寄せて倭国の正統な後継国としたので纏向遺跡の狗奴国をヤマト(邪馬台国)と呼ぶことにしたと考古学的な成果から推理しています(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。

もしも景初三年銘の三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡ならは1面だけしか倭国内で出土していないのも不可解です。したがってヤマト政権が呉の職人に卑弥呼の鏡ということで三角縁神獣鏡を数多く作らせた後に、心配になって、追加で景初三年銘の鏡を作らせたと考えています。

これは記紀の崇神天皇紀の大国主の祟りで国が乱れたので、神託で大田田根子を探し出して大国主を祀らせた話から連想しました。

魏志倭人伝に、正始八年(247年)卑弥呼の死後に男王が立ったのですが、不満な勢力と殺し合いになり、千人が死んだとあります。そしてその勝者によって台与は卑弥呼の宗女として外交上女王に立てられました。

その勝者が記紀で大国主といわれた、その後列島の大部分を傘下にしたムナカタ海人族を束ねる王だと推理しています。狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)が、台与が西晋に朝貢した266年の後に大国主・台与の倭国を滅ぼした史実が、記紀で国譲り神話とされたと考えています(詳細は「国譲り神話は都合の悪い史実を隠すためだった!」・「消された皇祖神ニギハヤヒはスサノヲの弟?!」参照)。

しかし、三世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると、崇神天皇の四道将軍の遠征ルートおよび景行天皇の九州遠征のルート上で矢戦の痕跡を発見しました。


左クリックでGoogleMapのMyMapにジャンプしますのでお楽しみください。

ですから大国主と台与の子が両親を祀る初代ヤマトの祭祀王の応神天皇(大田田根子)で、台与は記紀で神功皇后のモデル、大国主が武内宿禰ということなら、卑弥呼の死後に男王に立った人物は記紀の仲哀天皇ということになります。

仲哀天皇は住吉大神(スサノヲ)の神託を信じないために突然崩御されますが、史実はスサノヲの子孫の大国主に討たれたのです。仲哀天皇はその父日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になるので、杜撰な作り話なのです。応神天皇の本当の父は大国主だったのです。

ということで、日本書紀で、崇神天皇四道将軍遠征から応神天皇即位までの約350年の話に引き延ばされて史実が誤魔化されていたのだと分かりました。

応神天皇は母神功皇后(台与)の鎮魂のために箸墓を作り、父大国主を桜井市外山(トビ)茶臼山古墳で祀ったと推理しています。

記紀では箸墓の被葬者を大国主の妻ヤマトトトビモモソヒメということにしていますが、この姫の名前が台与の史実を意味していました。

たった十三歳で妃にされ、最後はヤマトに滅ぼされたので、ヤマトとトビ(トビヒコは大国主・宗像明神の別名)を恨んでその名を何度も何度も唱える気の毒なお姫様(百襲姫)という意味だったのです。ちなみに台与は伊都国でヤマト勢に囲まれて、剣を振り回して抵抗したようです。ですから平原王墓で葬られて、その棺の上に素環頭太刀が置かれており、斧・鉞をもって活躍した女傑の神功皇后のモデルとされたのだと分かります(詳細は「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?」参照)。長々と失礼しました(;^ω^)

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@tamachan8587
(文化遺産オンライン)画文帯環状乳神獣鏡・・・古墳時代中・後期、5~6世紀頃の古墳から出土。三角縁神獣鏡・・・古墳時代 4世紀、 5世紀から出土。東晋の時代?

@katumoku10
シナや半島で1枚も出土していないということに加えて、景初三年銘の鏡がわが国で1面だけというのも腑に落ちませんね。上に理由を推理していますので、よろしければ、どうぞ( ^)o(^ )

【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として倭国から日本に国号を変えたことが正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)

<尾張王建稲種命が建国の英雄日本武尊のモデルだった!>

サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?
抹殺された尾張氏の謎(その1)(その2)
抹殺された尾張氏の謎(その3)尾張と言えばカニだ~わ!



 

 

 

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卑弥呼が治めた国の真実は?!( ^)o(^ )

2025-02-04 04:12:05 | 古代史

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邪馬台国の謎!卑弥呼が治めた国の真実に迫る
歴史ミステリー紀行@YouTube

@katumoku10
文献に書かれたものが事実かどうかをきちんと調べないと誤魔化されます。

邪馬台国問題が江戸時代から三百年も議論されて、まだ解決しないということは、書かれた内容にウソがあるからだと断言できます。

どのようにでも解釈できるので、自分の思う場所を邪馬台国だと様々な理屈をつけて強弁するわけです。

でも全ての人を納得させることができないから解決できないのです。

一番問題なのは邪馬台国への行程記事です。

倭国を統治する女王が倭国の政治の中心地伊都国のある北部九州から極端に離れていてはダメでしょう!ですから、行程記事は横に置いて、その他の邪馬台国に関する記述を基に候補をあげて、検討すれば最有力候補が邪馬台国だと決められます。(2025.2.4 赤字追加)

そして考古学や民俗学などの成果から卑弥呼は誰かもわかります。

答えを先に言いますが、卑弥呼の径百余歩の冢、卑弥呼の死の前後の記述から土を盛っただけの直径約150mの円形墳墓とあります。箸墓のような三段築・四段築の立派な前方後円墳ではないのです。現在見つかっている最有力候補は宇佐市安心院町「三柱山古墳」です。被葬者は宇佐神宮の比売大神、宗像女神市杵島姫です。卑弥呼の墓の可能性が高いです。詳しくは「巨大円墓は卑弥呼の一族和邇氏のもの( ^)o(^ )」をご参照ください。お邪魔しました(#^.^#)

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@s-yo
邪馬台国が書かれた魏志倭人伝以外のものを教えてください。

@katumoku10
はい、いいセンスですね!陳寿は西晋の著作郎ですから、西晋の創業者司馬懿の功績を上品に褒めることが仕事なのですよね。だから、江戸時代から三百年議論しても解決しないのですよ。つまり司馬懿が邪馬台国へのデタラメな行程記事を倭大夫難升米に作らせたからなのですよ。

卑弥呼は実在人物で、記紀には登場しないと思われていますが、@どうく-p8uさんがおっしゃるとおり別の名前で登場しているのです。

でも、田油津比売ではないと分かります。それは山門郡に卑弥呼の墓「径百余歩の冢(ちょう)」つまり直径約150mの超大型の円形墳墓はありませんから。卑弥呼の墓があるのは上で述べましたが、宇佐神宮の奥座敷の宇佐市安心院町宮ノ原遺跡にある「三柱山古墳」でした。

卑弥呼の宮室は三女神社です。地元では「さんみょうじんじゃ」と呼んでいます。二の鳥居の神額にはなんと、「二女神社」と書かれていたので謎かけが分かりました。つまり、「三は妙だよ。女は少ない」ということなのです。祭神の宗像三女神の二女神は卑弥呼を誤魔化すために記紀神話で作られた女神です。

宇佐神宮の祭神比売大神の正体は市杵島姫でした。厳島神社でも祀られていますが、天理市和邇坐赤阪比古神社でも祀られていたので、卑弥呼の父がムナカタ海人族のシャーマン王赤坂比古だと分かりました。魏志倭人伝にも登場していました。正始四年に「倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人」とある「伊聲耆(いせぎ)」でした。老人なので、途中で亡くなって、卑弥呼の弟「掖邪拘(ややこ)」が代わりに官位を貰って帰ってきました。父赤坂比古は宮ノ原遺跡の奥城(おくじょう)古墳に葬られたと推理しています(直径約120mの円墳、現在はブドウ園の展望台)。何故分かったかは「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?」「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」「倭人語解明のヒントだ!(^_-)-☆」をご参照ください(#^.^#)

それで、邪馬台国問題はすでに五世紀に解いていた人物が分かりました。よろしければ拙ブログ「【邪馬台国問題】五世紀の范曄がすでに解明していた(^_-)-☆」をご参照ください( ^)o(^ )

@どうく-p8u
記紀には邪馬台国や卑弥呼の事が全く書いていないわけでなく別の名前になっていると思われます。

即ち記紀には神功皇后が山門郡の田油津比売を退治したとありますがここで山門郡の田油津比売とは邪馬台国の卑弥呼の事であり神功皇后とは台与であり、神功皇后が卑弥呼を退治したとは卑弥呼が死んで台与が後を継いだ事を言っているのではないでしょうか。

また記紀にある高天原とは邪馬台国の事であり天照大神とは卑弥呼の事ではないでしょうか。

@歴史ミステリー紀行
コメントありがとうございます


@katumoku10
 @どうく-p8u  さん、おっしゃるとおり記紀にヒントが書かれていますね。

しかし、高天原は邪馬台国が登場する前の奴(ナーガ=龍蛇神)国が支配していた北部九州の倭国だったことが、新唐書・宋史 日本伝にある王年代紀によって分かりましたよ(^_-)-☆

これによって「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」だとシナ人が理解して倭国から日本国という国号に変わったことが認められたのですから(;^ω^)

詳しくは「王年代紀は記紀神話を正した!」をご参照ください( ^)o(^ )

 

【関連記事】

【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!
こちらにまとめましたので、卑弥呼の部屋へどうぞ!(*^-^*)


 


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【邪馬台国問題】五世紀の范曄がすでに解明していた(^_-)-☆

2025-02-03 11:43:31 | 古代史

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#精力的に魏志倭人伝の解釈を発信されていて、いつも教えてもらっている文献史学の専門家の方と、前回の記事「【邪馬台国問題】邪馬壹国はなかった!(#^.^#)」でご紹介した下のYouTube動画の中で少し議論しました。この方とは「【邪馬台国問題】陰謀論と陰謀説を区別しましょう(^_-)-☆」でも議論しましたが、今回の議論とは共通点がありました。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

後漢書倭伝について考える(魏志倭人伝より整った文章構成と盛り込まれた曲解?)
古代史ハルキー@YouTube

@岡上佑の古代史研究室
ダメ出し、笑いました。 全く同意見です。後漢書は倭人伝の曲解を含んだダイジェスト、それ以上の評価は難しいと思います。

@takedaharuki
ありがとうございます、以前、岡上さんが作られていた後漢書についての動画と全くと言って良いほど同じ見解となりました。コメント欄を見ると、他にもそう考えている人もおり、この理解が正解の気がします。(^^)

@岡上佑の古代史研究室
@ takedaharukiさん  古代史に正解はないといっても、倭人伝と後漢書で別のことを言っている場合、どっちを取るって話ですからね。後漢書を都合よくつまみ食いすれば、なんでも言えます。

@takedaharuki
 @岡上佑の古代史研究室  おっしゃるとおりです。また、魏志倭人伝の二つ以上の記事から後漢書の一つの記事があるのですが、後漢書の一つの記事から魏志倭人伝の二つ以上の記事を作ることはあり得ないので、文章から予想する限り、整理された方が後漢書の方が後だと私も思います。

@katumoku10
 @岡上佑の古代史研究室  さん 横から失礼します。逆だと思いますよ。三国志・魏志倭人伝は同時代史ですから、権力サイドに都合の悪い話はできません。一方、5世紀の范曄はそのような政治的な忖度はする理由がないので、どっちが信頼できるかは明らかです。

春秋の筆法に精通された孫栄健さんも「決定版 邪馬台国の全解決」(言視舎)の中で范曄は陳寿よりも倭国の正しい情報を持っていたので、「困ったときは范曄に聞け」とあります。女王国(邪馬台国)と狗奴国の地理的関係を明記しており、しかも考古学の成果に合致しているのですから、何故無視するのか理解に苦しみます。また、上にもコメントさせていただきましたが、范曄を信じれば多くの謎は解明されますから( ^)o(^ )

 

@岡上佑の古代史研究室
@ katumoku10さん、厳しい言い方になっちゃって申し訳ないですが、どちらがどちらのダイジェストになっているか、論理的に考えましょう。「陳寿が忖度云々」というのは、勝手読みかと思います。三国志巻三十の末巻で、忖度する必要はありません。そんな魏志倭人伝の雑なダイジェスト、それが後漢書です。後漢書と魏志で内容が相反していますから、どっちを正とするかで、全く逆の立場になります。范曄の時代の倭国の情報が詳しいのは確かですが、大和王権とすでに連絡していますので、その前提の話を読まされているということになってしまいますよ。范曄の色眼鏡こそ、怪しむべきものです。

@katumoku10
 @岡上佑の古代史研究室  さん お返事ありがとうございます。
>「陳寿が忖度云々」というのは、勝手読みかと思います。三国志巻三十の末巻で、忖度する必要はありません。

陳寿は西晋の著作郎なのですから、西晋の創業者司馬懿を称揚するために魏志倭人伝を残したのだという、陳寿の当たり前の意図が明確に分かる証拠がありますよ。

①倭女王を絶賛する詔勅がほぼ全文、倭人伝に掲載されています。たかが東夷の女王に対してこのような記事は異例のことでしょう!他に例がありますか?

②司馬懿の功績を曹魏第一等とするために、それまで最大功績とされたはずの曹真の功績、大月氏王の朝貢について詳細を述べるべき西域伝を掲載しなかったこと。

③魏志倭人伝最後の文章の正始八年(247年)の記載内容は、たった1年間の内容ではないはずです。卑弥呼の生前の帯方郡への遣使から、魏から西晋に帝位禅譲された後の266年の倭女王の朝貢の話まで記していると容易に推理できます。それは明らかに司馬懿を称揚する目的だと分かります。晋書宣帝紀に当時戦略的に最重要だった倭国を手なずけたのは司馬懿の功績と明記されていることからも分かります。

これに対して、范曄はなぜ倭人伝で色眼鏡を使わねばならないのかその理由を説明できないと思います。

范曄は、陳寿が隠した倭国の情報をそれとなく正したと分かります。孫栄建さんは陳寿の筆法と呼んで、范曄は筆法に対して筆法で答えたと述べられています(上掲書)。

范曄後漢書倭伝は単なる魏志倭人伝のダイジェストではないのです。

そして、最も重要なことは范曄に従えば邪馬台国の場所が決定でき、その場所に卑弥呼の墓と考えられる「三柱山古墳」が存在するという事実があります。


 

陳寿の行程記事からは江戸時代から三百年かかっても問題を解決できなかった理由が、司馬懿の功績を曹魏第一等にするために、邪馬台国への行程記事が創作されたからだということをご理解ください。行程記事は司馬懿が倭大夫難升米に作らせたことも分かりました。詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください(#^.^#)

@岡上佑の古代史研究室
 @katumoku10  武田さんのチャンネルですので、ちょっと手短ですが、倭人伝に266年までに記載があるというのが典型的な勝手読みです。東夷伝全体がどうなっているか見てみください。正始年間の記事に20年も後の出来事を差し込んだ、そんな類例ありますか?  刮目天さんは、真面目なだけに惜しいなぁ、というところです。

@katumoku10
@ 岡上佑の古代史研究室さん 当方が東夷伝全体だけでなく晋書まで例に出して、まじめに取り組んでいることを理解していただき、とても嬉しいです( ^)o(^ )

③ですが、当方以上に真摯に三国志と向き合っておられる岡上さんに、とても言いにくいのですが、もう少しだけ深く読み込む方がいいと思いますよ(;^ω^)

司馬懿が何故、魏の実権を握れたのかは、東夷を手なずけて魏最大の功労者になったからというのはいいですよね?

それならば、親魏倭王卑弥呼が没して、次の女王台与が立つまでに何があったのでしょうか?

男王が立ったが、それに不服な勢力との戦いで千人も死んだのです。千人というのはシナでは沢山という意味ですが、1/10だとしても、戦った人数は死者数の倍以上は考えられますので、大混乱だったことは間違いないでしょう。

そしてその戦いの勝者が13歳の台与を卑弥呼の後継者に立てて一応、混乱は収まったということです。しかし、まだ狗奴国軍が存在しますので、倭国が完全に安定するまでには時間が掛かるはずですね。年内に落ち着いて、盛大な贈り物をもって朝貢するには、とても難しい状況でしょう。

そして、司馬懿にとって良い結果になったのは、郡使張政の大きな活躍があったからです。その後台与に告諭したとあることから分かります。張政が居なければ倭国は魏から離反してもおかしくない不安定な情勢だったのですから、司馬懿の部下の帯方郡太守王頎が有能な張政をすぐに郡に帰還させてしまうなどということは、普通考えられないことですよ。この後、いつまた倭国がどうなるか心配なので、王頎は司馬懿に相談し、張政をそのまま外交顧問として倭国に滞在させるはずですよ。

そうすると、張政に帰還命令を出す時期は、魏から西晋に変わった265年の直後という推理が成り立ちますよ。張政は下級役人から太守にまで出世していることからも分かりますよ(詳細は「【検証23】魏使張政って?!」参照)。(2025.2.3 赤字訂正)


なお、男王が誰か?勝者は誰か?についても推理していますが、難易度はさらに上がりますので、ここでは敢えて説明しませんでしたが、よろしければ詳細は「魏志倭人伝を推理する(その2)」をご参照ください(#^.^#)

①と②については反論がないようなので、陳寿の偏向をご理解いただいたということでいいのでしょうか?

あそうだ、そうだ!
>正始年間の記事に20年も後の出来事を差し込んだ、そんな類例ありますか? 

当方の知る限りないと思います。同時代史は編纂者が権力に忖度するので問題が多いのです。それを理解したシナの歴史家は、以後の正史では十分後の時代に編纂するルールにしたのだと思いますよ(;^ω^)


@岡上佑の古代史研究室
 @katumoku10  レス有難うございます、武田さんのところなので、要点だけ。東夷伝全体で、正始年間の記事にそれ以降の記事が紛れていることはありません。倭人だけそんな奇妙な読み方をする必要はないです。それは、いわゆる勝手読みです。

**********************************************

ということで、これ以上申し上げても「勝手読み」という硬直した回答しか得られないようなので、議論にならないと諦めました。一応、これに対する返事を保留にしています(;^ω^)

范曄後漢書の記述を最初から否定されていますが、

「文献の内容が、何をもって正しい内容と判断するか」はそれほど難しくはありません!

書かれている文章の内容を示す物証が見つかったときは、書かれた内容は正しいと判断できます。

勿論、前提は物証が本当にその物証になっているのかの精査は必要です。

しかし、問題の卑弥呼の墓の場合には、直径150mもの超巨大な円形墳墓はやたら、そこらに転がっているものではないのですから、それをきちんと精査すべきです。最初から無視するのは、とてももったいないと思います!(;^ω^)

昭和28年に最初に宇佐説を学説とされた富来隆先生は、邪馬台国への行程記事を分析されて、魏志倭人伝の記述から女王国は周防灘に面する宇佐だと確信し、卑弥呼は宇佐神宮で祀られている神功皇后だと考えられました。卑弥呼のヘビ神信仰について教えていただきましたので、日本の歴史の始まりが、奴(ナーガ=龍蛇神)国だという仮説から出発し、いくつも物証を見つけて卑弥呼の墓も邪馬台国も発見し、日本の建国過程も解明しました。

五世紀の范曄がすでに正確に邪馬台国の場所を示してくれていたのですから、卑弥呼の墓、そして邪馬台国の発見につながったわけです。

 

【関連記事】

【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!
こちらにまとめましたので、卑弥呼の部屋へどうぞ!(*^-^*)

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆

10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として倭国から日本国という国号に変わったことが正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)



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【邪馬台国問題】邪馬壹国はなかった!(#^.^#)

2025-02-02 18:06:14 | 古代史

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後漢書倭伝について考える(魏志倭人伝より整った文章構成と盛り込まれた曲解?)
古代史ハルキー@YouTube


とてもいい解説をありがとうございます。范曄後漢書は魏志倭人伝の記事を使っているので、文献史学者の皆さんの一次史料偏重主義から、信ぴょう性のない二次史料と見なされて重要な点を見逃されています。

しかし、5世紀の范曄は倭国に関する正確な資料を、倭の五王の讃の使者からの情報により得ていたと考えられます。

その根拠は魏志倭人伝の「邪馬壹国」を「邪馬臺国」と記し、さらに「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」を「自女王国東渡海千餘里 至狗奴国」と書き換えていることです。



 

范曄は、「臺」は「皇帝や朝廷を意味する漢字」ですので、魏志倭人伝で「壹」に書き換えられたと使者の情報から分かったからなのです。

それは107年に後漢安帝に朝貢した「倭国王帥升」と同様だからなのです。後漢書原本はすでに失われているのですが、原本を参照した「翰苑」などの多数の資料から「倭面土国王師升」が原本に近く、すべての資料で「師」とあったものが范曄後漢書の下になった先行史料で「帥」に変えられているので、版本で使用した写本に「倭国王帥升」とされたのです。「帥姓」は「師姓」から西晋の創業者司馬懿の長男司馬師の諱を避けるために変えられた姓だということが「廣韻」という文献に「帥本姓師,避晉宣帝諱改帥氏」(中国版wiki「帥姓」)とあるので分かりました。

つまり、魏末期司馬氏政権時代あるいは西晋時代に東夷に「臺」を用いるのは不敬に当たるとして、魏志倭人伝の原本及び、范曄が引いた八家後漢書に現れた邪馬臺国の「臺」を「壹」に変えさせたと推理できます(注1)

魏志倭人伝の正始八年(247年)の記事(実は西晋になっていたと思われますが(注2))に「壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺」とあり、文末の「臺」は魏(西晋が正しいと推理しています)の朝廷を意味しており、「邪馬臺国」に見られる倭国に使われた「臺」を「壹」として区別していることからも分かります。ですから文頭の倭国女王も「壹與」ではなく「臺與(台与)」が正しいと考えられます。台与は「トヨ」と呼ぶ倭人名ですが、台与に因む地名「豊国」が九州にあり、「トヨの国」の意味なのです。北部九州に数多くの伝承がある神功皇后ですが、その妹として豊姫あるいはその隠語「淀姫」を祀る神社が北部九州にいくつか見られます。これは女王台与を神功皇后のモデルとしたことを示唆するものと分かります。

ということで、范曄に従えば、狗奴国は纏向遺跡で、女王国は宇佐だと分かります。邪馬台国の意味も「ヤマコクを臺とする国」です。和名抄の野麻郷(ヤマゴウ)に比定される宇佐市安心院町宮ノ原遺跡に卑弥呼の宮室があったと分かります。

日本書紀の宗像三女神降臨伝承のある三女神社です。本殿西側にV字溝がありその中から銅鏃が出土していますので、城柵で囲われて兵士に護られていたと分かります。さらに、西側500mに卑弥呼の墓「径百余歩の冢」つまり直径約150mの円形墳墓「三柱山古墳」を発見しました。卑弥呼の死の前後の関係から単に土を盛っただけの塚です。箸墓のような三段築・四段築の時間をかけて丁寧に作られたものではなく、急造りの円形墳墓です。その西側の地名が、何と「血野(現在は知野)」ですから、百余人の奴婢を惨殺して殉葬したことを示唆しているようです。さらに卑弥呼に関係する伝承がこの地にはまだあります。よろしければ詳細は「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」をご参照ください。どうも長々とお邪魔しました(#^.^#)

 

(注1)范曄が撰した先行の後漢関係の史料はwiki「後漢書」によれば『東観漢記』(とうかんかんき)と以下の八家後漢書です。孫栄建「決定版 邪馬台国の全解決」(言視舎 2018)によれば、「もともと范曄の「後漢書」は、諸家の『後漢書』を集めて、それを再編纂したものだが、范曄のオリジナルではなく、種本、祖本がある。それは華嶠(ー二九三)の『後漢書』なのだ。この華僑は晋の朝廷で文官として陳寿(二三三二九七)の同僚であり、どちらも官界におけるパトロン、庇護者はおなじく杜預と張華だ。」とあり、唐の李賢注には頻繁に「華嶠の辞なり」「華嶠の詞なりとあります(pp.90-91)。

  • 『後漢書』(謝承
  • 『後漢記』(呉の薛瑩
  • 『続漢書』(西晋の司馬彪
  • 『後漢書』(西晋の華嶠、『漢後書』とも)
  • 『後漢書』(東晋の謝沈
  • 『後漢南記』(晋の張瑩、『漢南紀』とも)
  • 『後漢書』(東晋の袁山松
  • 『後漢紀』 (張璠)

(注2)魏志倭人伝最後の文章の正始八年(247年)の記載内容は、たった1年間の内容ではないはずです。卑弥呼の生前の帯方郡への遣使から、魏から西晋に帝位禅譲された後の266年の倭女王の朝貢の話まで記していると容易に推理できます。それは明らかに司馬懿を称揚する目的だと分かります。晋書宣帝紀に当時戦略的に最重要だった倭国を手なずけたのは司馬懿の功績と明記されていることからも分かります(詳細は「魏志倭人伝を推理する(その2)」参照)。

 

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【邪馬台国問題】邪馬台国の正しい探し方!(^_-)-☆

2025-02-01 16:03:21 | 古代史

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#時々拝見している世界の様々な興味深い話を分かり易く発信してくださっている方のYouTube動画に邪馬台国が出て来たのでコメントしました。よろしければお付き合いください(#^.^#)

邪馬台国に繋がる証拠を発見か!?『シドマイヤーズ シヴィライゼーション VII』先行プレイ
世界ミステリーch@YouTube

古代史を研究している素人ですが、辰砂の採鉱技術は最先端ということで驚きました。なぜなら畿内やその圏内の四国西部や東国には北部九州や半島南部、そして楽浪郡の土器がほとんど出土していないのです。ということは高度の技術は阿波の人が留学したか、独自に身に着けたのではないかということです。鉄の技術ですが、列島内で鉄鉱石を製錬する技術は6世紀ごろ日本に来たのですから、辰砂の高度技術だけが何故、3世紀に既に日本に来ていたのか?不思議ですね。

それから邪馬台国問題が解決しない理由は明らかです。多くの皆さんは魏志倭人伝の内容は当時の倭について正しく書かれているはずだから正しく解釈すれば分かるという、単なる思い込みだったことが、江戸時代から三百年研究していまだに見つからないことから分かります。つまり、邪馬台国への行程記事は政治的な理由で曖昧に記述されているのです(詳細は「【刮目天の古代史】邪馬台国の謎」参照)。自分で思いついた場所になるように、いか様にも解釈できるので、間違った空想が固着しているので古代妄想だと分かりました。

だから、魏志倭人伝の行程記事の内容は一旦横に置いて、その他の邪馬台国を記述した箇所に基づき候補地を探して、事実、つまり考古学や民俗学などの成果から推定するのが正しい方法だと分かります。

ですから、北部九州と緊密な交流のない畿内説や四国説などは邪馬台国ではないと結論付けられます。

そして、九州説が有力なのですが、魏志倭人伝には邪馬台国の地理的な情報として、「東に海を千余里渡ると、別の倭人の国が在る」とあり、5世紀の倭の五王が使節を送ってきた時代に書かれた范曄「後漢書」には別の倭人の国を狗奴国と明記しているので、倭の使節からの情報だと分かるのです。そして、九州説でこの条件に合う場所は周防灘に面した豊前地方、そして皇室の宗廟のある宇佐神宮あたりが有力な候補なのです。

実際、現代になって神宮の修復工事に際して、本殿下の亀山に石棺が見つかった情報があり祭神の比売大神である宗像女神卑弥呼の墓と言う伝承があります。しかし、宇佐神宮あたりは吉野ヶ里遺跡に匹敵する60ha規模の大集落があったので、「卑弥呼は女王になってから人前に現れず、城柵で囲われた居城に兵士に厳重に護られている」と記述されているので、宇佐神宮から山間部の要害堅固な山城に居住していたのではないかと弥生後期の集落を探しました。

宇佐市安心院町下毛に宮ノ原遺跡があり、日本書紀が宗像三女神が降臨した伝承地のひとつと記述した三女神社を発見しました。神社の西側にV字溝があり、そこから青銅製の矢じりが見つかっていますので、兵士に護られた卑弥呼の宮室かも知れないと考えていたのです。

そしてさらに西側500mほどの場所に、卑弥呼の墓「径百余歩の冢(ちょう)」つまり直径約150mの円形墳墓「三柱山古墳」を発見しました。その西側の原野の地名が「血野(現在は知野)」なのです。奴婢百余人を惨殺して殉葬した場所を示唆しています。

さらに南約400mの河原に同名の三女神社があり、墓の遥拝所になっていました。墓との間に土が高く盛られて直接、墓を目視できないようにされていますが、そこに横穴が掘られ、入り口に馬頭観音の石像が置かれていました。何とその地名が「ヒカケ」とあり「日欠け」つまり日食を示唆し、そこの横穴が後世になって神話の天岩戸をイメージして彫られたようなのです。

その他にも面白い話がありますが、卑弥呼はムナカタ海人族の姫巫女で、宮室で卑弥呼に太陽神が憑依し、口寄せされた神託を人々に伝えて政治を行うシャーマン王が卑弥呼の父赤坂比古(和邇氏の祖)だということが、当時の縄文系の人々の大集落の唐古・鍵遺跡で出土した鳥の格好をした巫(かんなぎ)と巫女が描かれた絵画土器片と天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神が宗像女神市杵島姫命であることから分かりました

 

その他にも近江八幡市の日牟礼八幡宮に不比等が訪れて、強権で社名を「日群社」に変更させた歌が残っており、もとは日食に因む「日蝕社(ひはえのもり)」だったと推理できる話もあります。

もしもご興味がわけば卑弥呼の情報満載の「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」をご参照ください。長々とお邪魔しました(#^.^#)




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