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#2025-01-26 00:20:11に記事にしましたが、纏向遺跡で出土した九州の土器について詳しい情報が得られましたので本文の末尾に(注2)を追加しました。よろしければ、ご確認ください(#^.^#)
#2021-10-30 12:24:05に記事にしましたが、纏向遺跡を長年にわたり発掘調査されてきた関川尚功氏が2020年に纏向遺跡は邪馬台国ではないという考古学の証拠をあげて発表されて畿内説の勢いがなくなったようでしたが、驚くことにまた2023年3月に考古学の専門家で桜井市纏向学センター所長の寺沢薫氏が「卑弥呼とヤマト王権」中公選書を出されて、纏向遺跡に邪馬台国があったという説を主張されましたので少し混乱気味です。
YouTubeでもいくつか寺沢薫氏のこの著書に影響を受けて、登録者数1.1万人で2453 本もの高校日本史のオンライン講座動画をアップされている人気YouTuberが「YouTubeの邪馬台国論争 箸墓古墳は3世紀という考古学を認めるか認ないか、が分水嶺 【卑弥呼と邪馬台国】」のような動画の中でタイトルのような主張をされています。この方の別の動画「寺沢薫著 「卑弥呼とヤマト王権」を読む① プロローグ【邪馬台国2025-1】」に纏向説を否定する根拠を述べたのですが、完全に無視されました。削除されていないだけましですが(;^ω^)
影響力のある寺沢氏も含めてまともな反論を無視するのは古代妄想と断じるしかないので困った問題だと思います。もう一度、最初にご紹介した「箸墓古墳が3世紀か4世紀かで決まるかのような」動画に以下のような反論をしようか少し思案しているところです。
寺沢氏がプロローグの中で以下のように述べておられます(pp.17-18)。
「邪馬台国とは奈良盆地の東南部を占める狭義の「やまと」の領域、つまり私の言う「ヤマト国」を指し、女王卑弥呼は纏向遺跡に居たという考えを明らかにした。(中略)三世紀の巨大な遺跡として有名なのだが、(中略)邪馬台国畿内説の最有力候補となっている遺跡なのだ。
とはいえ、邪馬台国や卑弥呼をめぐる論争はあくまで文献学上の問題である。考古学のデータがどれだけ蓄積されていっても、文献を解釈するほどにモノ(遺跡や遺物)じたいから情報を引き出し、邪馬台国の位置や卑弥呼の実像を直接的に叙述することはむずかしい。だからといって、まま見受けられることだが、独断的な文献解釈をベースに考古学のデータの一部を切り出して自説の整合性を取りつくろう手法は本末転倒もはなはだしい。
モノから有効な情報を可能な限り引き出し、考古学から得られた知見をもとに最も合理的で精緻な独自の歴史像を組み立て、そのうえで文献との整合性を逐一検証し、どれだけの歴史叙述ができるか、二段構えの論理的な手段を踏む必要がある。そこに十分な状況証拠と理論的説得力が得られたとき、邪馬台国論争にも王手を突きつけることができるはずである。」
この内容は刮目天の主張するアブダクションによる科学的手法に似てはいますが、決定的に違うことは「独自の歴史像」が文献とは別に存在するかのような主張なのです(一部、信ぴょう性のあるシナの文献は使用しているようですが)。文献の内容が無ければモノはモノでしかなく、モノ自身が語る内容は限られるはずです。具体的に文献にある人物とモノの関連で具体的な「誰が、いつ、何をした」などの歴史叙述ができるのです。東洋史家の岡田英弘先生が教えてくれたように「考古学は歴史学の代用にならない」ということなのです。寺沢氏の言う「独自の歴史像」というのがF .エンゲルスの「家族、私有財産および国家の起源」の唯物論的考察で得られた歴史像だとすると、これと整合性の取れるように文献解釈を行うことになりますので、正解とはならないのです。
たとえば、水田稲作が導入された弥生時代になって起こった戦争の原因を、人口の増加・資源不足(適地や水の奪い合い)・蓄積された富の略奪・思考的変化とするのが従来の定説のようになっていました。受傷人骨の数と甕棺の数を福岡平野・宝滿川上・中流域で調査して、従来の弥生時代開始の年代観(紀元前5世紀から前4世紀)では人口密度が高いほど受傷人骨が多いことは言えたようですが、弥生時代が紀元前10世紀に始まる歴博の年代に変わり、そのようなことは言えないことが分かってきました(中田朋美等「弥生時代中期における戦争」情報考古学Vol.24No.1-2,2019)。
戦争とは国家間の武力闘争ですから、対立国家が生まれないと戦争になりません。列島内で対立する国家に分裂したのは107年に後漢に朝貢した奴国宮廷楽師の師升の反乱が原因だと分かりました。つまり師升が奴国王を殺して奪った倭国と旧奴国の王族が吉備で立てた狗奴国や出雲・丹後王国の対立が原因で戦争が起こったので、弥生後期後半(二世紀末)の倭国大乱が日本列島で初めて発生したのです。その結果、戦況が一方に傾き卑弥呼が登場したのですが、倭国が拡大したために、狗奴国は吉備から纏向遺跡に遷都したのです(詳細は「其の國、本亦男子を以て王と爲(な)す!(^_-)-☆」参照)。
これは弥生後期後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて、環濠の溝で発見された矢じりが戦争の痕跡と見て、戦場は北部九州の倭国と山鹿市・菊池市の狗奴国の前線基地に限定されることが分かりました。狗奴国側の前線基地から山陰や畿内の土器が出土し、兵士を呼び寄せて倭国側の集落を襲ったと分かりました。さらに調査結果を考察すると狗奴国側の集落の環濠から、倭国側の銅鏃が出土していたので狗奴国の官狗古智卑狗が倭国に襲撃されて戦死したために、倭国が狗奴国側の一部の勢力を取り込んで卑弥呼を女王に共立したので戦闘が収まったと推理しました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。
実際は、卑弥呼は宗像女神市杵島姫で太陽神の神託を口寄せする姫巫女で、倭国を統治する女王ではありませんが、師升王の子孫の本当の倭国王難升米が政治的な理由で、倭国の王都を卑弥呼の居城として、戦略上重要な場所(帯方郡から東南万二千里で魏のライバルの呉を挟み撃ちする邪馬台国)に居たことにしたのです。ですから、いまだに邪馬台国問題が解決していないのです。
ですから、自説に都合の好い文献解釈をし、関川氏の主張する不都合な反論を無視していますので正解が得られないのです。正しい反論には仮説を修正しなければならないのです。纏向遺跡はヤマト王権成立した古代史の最も重要な遺跡であるのは間違いないので、卑弥呼が纏向遺跡にやって来て王権が成立したという説は成り立たないのです。
ということで前置きが長くなりましたが、以下の記事にお付き合いください(;^ω^)
箸墓近くに「卑弥呼の宮殿」邪馬台国は纒向か
2021/10/27 08:00 小畑 三秋 産経新聞
タイトルから見て邪馬台国大和説を否定するのかと期待して読んだら、またガッカリしました。
いわゆる邪馬台国が奈良県桜井市の纏向遺跡にあったとする説は、多くの史料・証拠から否定され、学術的には今や九州説が主流と言っていいと思います。しかし、相変わらず、マスメディアがいい加減な論説記事を発表するので、素人はまだ畿内説が有力な学説として生きていると考えてしまいます。
すでに「考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国」という書籍を、長年、橿原考古学研究所の所員として纒向遺跡の発掘・調査に携わってきた専門家の関川尚功氏が出しています。この研究グループが提唱している大和説を、立場上否定しにくいしがらみなどがあると拝察されますが、真実を探求する学者として勇気を持って大和説を否定されたことはとても立派な態度だと思います。

マスメディアは本来ならば、こういう真っ当な学者の説を取り上げて、邪馬台国問題に興味を持っている多くの読者に紹介するのが使命ともいえるはずです。専門家による学術的な論争を踏まえて、マスメディアが中立な立場でそれらを紹介するものであるべきですから、もしもこの記事の発信者が大和説を否定するものに異議があるのならば、学会などの場で正面から論争を挑むべきだと思うのですが、それを避けて従来の説で塗りつぶすようないい加減な論説記事ですから困ったものです。
纏向遺跡は三世紀初頭に三輪山の西側の山麓一帯に突如出現した大集落です。当時の列島で最大級の広さを誇る遺跡です。ヤマト王権のシンボルである前方後円墳の発祥地で、遺跡に水田跡が見られない、祭祀を中心とする政治都市です。掘立柱建物の住居跡から、王族や各地の首長クラスの人物が集まっていたことがわかります。大型の建物は祭祀などを行った場所でしょう。当時の祈祷に使ったと思われる桃の種が大量に見つかっています。

このような纏向遺跡が邪馬台国にふさわしい当時の大集落だからといっても、三世紀の倭国の様子を記述した「魏志倭人伝」に記述された以下のような倭国の特徴に合わないのですから、邪馬台国ではないと本当は最初から分かっているのです。権威ある学者が提唱するので有力な学説だと思い込まされてきただけです(紫字で示した原文とカッコ内の翻訳文はwiki「魏志倭人伝」より引用)。
①「竹箭或鐵鏃或骨鏃(竹の矢は、あるいは鉄の鏃(やじり)、あるいは骨の鏃である)」
奈良県全体の鉄鏃の出土数はわずかです。福岡県・熊本県・大分県の方が圧倒的に多い。
②「倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾・・・所有無與儋耳・朱崖同(倭の水人は、好んで潜って魚やはまぐりを捕らえ、体に入墨をして、大魚や水鳥の危害をはらう。後に入墨は飾りとなる。・・・風俗・習慣・産物等は儋耳(廣東儋県)・朱崖(廣東けい山県)と同じある)」奈良県は海に面してはいないので、九州辺りの風俗に近い。
③「倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣(倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みな、裸足である)」奈良県は温暖な土地とは言えない。
④「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種(女王国の東、海を渡ること千余里、復、国があり、みな倭種である)」纏向遺跡の東側も、南側であっても深い山地で、いきなり海を渡るという表現は出来ない。
⑤「其死、有棺無槨、封土作冢(人が死ぬと、棺はあるが槨(そとばこ)は無く、土で封じて塚をつくる)」畿内の墓には木製などの槨がある。
⑥「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩(卑弥呼が死んだので大いに塚をつくった。径は百余歩)」卑弥呼の墓が箸墓のような前方後円墳であるとは書かれておらず、直径約150mの円墳であり、そのような墓は纏向遺跡の周囲に見られない。
さらに、この新聞記事には以下の読者をミスリードする内容があり看過できません。
通常の集落遺跡では地元の土器が大半を占めるが、纒向遺跡では、東海や山陰、瀬戸内、九州などの特徴をもつ土器が15%ほどに上ることが分かった。いずれも3世紀を中心とした土器で、邪馬台国の時代と重なった。
しかし、発掘された外来の土器について上の記事で述べている九州の土器が見られるというのは全くウソではないようなのですが、非常に少なく、外来土器の1%以下なので、以下のデータに現れません。そのことを言わないと、九州の人々まで他の地方の人々と同じように来ていたと読者が誤解します。
搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 |
: |
49% |
     |
北陸・山陰系 |
: |
17% |
    |
河内系 |
: |
10% |
 |
吉備系 |
: |
7% |
   |
近江系 |
: |
5% |
 |
関東系 |
: |
5% |
 |
播磨系 |
: |
3% |
 |
西部瀬戸内海系 |
: |
3% |
 |
紀伊系 |
: |
1% |
(wiki「纏向遺跡」より)
寺沢氏も外来系土器の下図のデータを載せながら、上掲書本文p.70で「近年、土器の形式から搬入元を推定するだけでなく、土器の胎土から製作地を特定する分析方法が広がり、纏向遺跡でもより詳細で、より広範な搬入元が推定されるようになった。リストに挙がっているのは、瀬戸内海ルートでは吉備中心に、讃岐、阿波、播磨、伊予、周防ないし長門、そして筑紫。」と記していますから驚きました。
そして、纏向遺跡で出土した九州系の土器が判明しましたので(注2)に述べます(^_-)-☆(2025.1.29 追加)

九州の人々がほとんど纏向遺跡に現れていないという事実は、邪馬台国が纏向遺跡ではないことを明確に示す証拠と言えるものなのです。北部九州は列島で最初に開けた場所で、奴国や伊都国に弥生時代の倭国の王宮や交易センターが存在しましたし、祭祀に用いられる青銅器の製造工場をもつ大集落のある地域です。大陸や半島の文化を取り入れる玄関口なのです。卑弥呼の時代の纏向遺跡に楽浪系の土器も出土していません。纏向遺跡で行われた前方後円墳での祭祀に各地から人々が来ていますが、北部九州の人々が来ていないのです。ここが遅くとも二世紀には倭国と呼ばれていた領域に間違いないのですから、それと敵対する纏向遺跡は狗奴国以外に考えられないということです(注1)。邪馬台国の南に狗奴国が在ったとする「魏志倭人伝」の記述を疑った方が良いということなのです。「魏志倭人伝」は、当時の魏の実力者司馬懿が政治的目的で邪馬台国への行程などを誤魔化して魏使の報告書に書かせたものを基にした記事だったと突き止めました。詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください!(2025.1.27 青字追加)
(注1)纏向遺跡の最古の前方後円墳は石塚古墳で、210年頃築造ですから、纏向1式の年代です。刮目天はニギハヤヒ大王の直系の子孫の初代狗奴国王卑弥弓呼(「ひこみこ」の誤写か)の墓と推理しました。この頃にも、その後の大王か有力者と思われる人物の葬儀にも九州の人々は来ていないのですから、北部九州の倭国は敵対勢力と推理できます。ちなみに、土器の種類ですが、鉢・高坏・器台は葬儀や他の祭祀で使われるもので、纏向1式が最も多いですから重要な儀礼が行われことが分かります。
(注2)山田隆一「集落遺跡からみた古墳時代前期社会の研究 -近畿における広域流通の視点から-」(2019年3月期関西大学審査学位論文)に畿内の遺跡で出土した北部九州系土器について下図のとおり、6カ所の遺跡で僅か7点、纏向遺跡では1点のみで、さらに纏向石塚古墳の盛土から1点で、それぞれ以下のとおりです(p.134)。

纒向遺跡(奈良県桜井市) 土坑1から出土した複合口縁壷(4-1)の口縁屈曲部7)である。口径 29.5㎝の大型品。口縁外面に斜格子の線刻文、屈曲部に刻み目を巡らせる。常松氏は形態の特徴から、製作地を福岡平野すなわち「奴国」域を第一候補にあげ、西新式古段階に位置付けている。 他に採集資料であるが、南九州系(4-3)とされる土器8)がある。壷の胴部破片で、ハケ状工具で刻み目を施文した突帯を巡らせており、報告者の石野氏は弥生時代終末~古墳時代初頭期で南九州の成川式に比定している。
7)常松幹雄「大和・纒向遺跡における北部九州の壷形土器」『庄内式土器研究』3 庄内式土器研究会 1992
8)石野博信「纒向遺跡採集の「南九州」系土器」『青陵』第 59 豪奈良県立橿原考古学研究所 1986
纒向石塚古墳盛土内9) 石塚古墳第8次調査において墳丘盛土内から土器片 3,616 点が出土し、その内の1点が北部九州系とされている。頚部と肩部の境に刻み目を施した貼り付け突帯の巡る複合口縁壷(4-2)である。淡い褐色を呈し、器壁は厚い。伴出した土器から庄内0~1式に位置付けられる。
9)橋本輝彦「纒向遺跡の発生期古墳出土の土器について」『庄内式土器研究』14 庄内式土器研究会1997
また、畿内の遺跡で出土した北部九州系の土器に関して、以下の通りまとめられています(p.134)。
北部九州系土器は、畿内ばかりでなく、ほとんど他地域には流出しないようである。現状で、その原因のひとつが「北部九州系土器の形態や胎土の特徴に乏しいことによる認識不足」によるとして、それが解消されて資料の増加を見込んだとしても、大枠はそれほど動かないと考える。当時、北部九州地域には西新町遺跡、博多遺跡群を港津に、比恵・那珂遺跡群という巨大拠点が存在するにも関わらずである。そのことはおそらく、一部の例外を除いて、西新町遺跡で多量に出土する半島系土器が他地域には流出しないし、博多遺跡群で確認された高度な鍛冶技術が伝播することがないことにも通じる。これらは、そこに半島からの渡来人が居住したために生じた特殊な状況によるのであろうが、そうであっても半島的な文物や高度な技術がストレートに日本各地に伝播するような社会でなかったこともまた確かなのである。
ということで、三世紀前半(卑弥呼の時代・庄内1・2式)において、魏志倭人伝に伊都国の一大率が女王への外国からの贈り物を検査して間違いなく送り届けるとあるので、以上のように伊都国と纏向遺跡との緊密な交流は見られないことから、纏向遺跡に邪馬台国があったとする説は否定されます。
しかし、247年の卑弥呼の死後の内戦の結果、全国各地のムナカタ海人族を傘下にした大国主・台予の倭国の時代には、敵対する纏向遺跡を中心とする畿内・東海の狗奴国勢力の領域を除き、下図のとおり大国主傘下の各地に高温鍛冶の痕跡が見られる(247~270年頃、庄内3式)。当時の先端技術を惜しげもなく傘下に放出し各地の発展に尽くしたので、大国主は、後世、最も人気のある神様として様々な名前で日本全国で祀られています。(2025.1.29 追加)

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まだ箸墓が卑弥呼の墓なの?!(;´Д`)卑弥呼のあとの女王台与(トヨ)の墓ですよ!
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆




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