刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

古事記は何でも知っていた?( ^)o(^ )

2025-01-31 16:50:53 | 古代史

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【古事記一新】第三十一話・古事記に投馬國が載っている件

北行古事記一新ちゃんねる@YouTube

とても面白く拝見させていただきました(#^.^#)
確かに、古事記に崇神天皇を御眞木入日子印恵命とあるのは、卑弥呼が金印を賜ったのは崇神天皇の時代だと示唆していますね。古事記を書いたのは多人長ですが、彼は至る所で史実のヒントを残してくれていました。古事記の崩年干支は空白の世紀と倭の五王の謎を解くカギでした(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その2)(その3)」参照)。

みなさん驚かれると思いますが、記紀は天皇の歴史書ではありませんよ。日本書紀は編纂を命じたのは天武天皇ですが、崩御34年後の720年に完成させたときの権力者は藤原不比等ですから。その後の藤原氏の栄華の基礎を築いた人物なのです。日本書紀は権力の正統性を主張する勝者の歴史書です。3世紀までの建国時代の史実は神話を創って隠し、人代も相当歴史改ざんを行っていたのが、事実、つまり考古学や民俗学などの成果から分かりました。

一方先に完成したとされる古事記は9世紀の学者多人長が日本書紀の講えんの講師をしたときに突然表に出してきたものなのです。正史に古事記の記録もないですし、日本書紀が古事記を引用したり、参照した痕跡もないのです。日本書紀が隠した史実を先ほどのとおり、それとなく暴露する目的の暗号書だったのです。いくつも見られる古史古伝というのも古事記と同じ目的でしょう。

では古事記が何故、推古天皇で終わっているかですが、天武天皇の後に即位したとする持統天皇が皇后から即位したというあり得ないウソを誤魔化すための前例なので、これも真っ赤な嘘だから、それ以上書けなかったのですよ(*´Д`)

隋書倭国伝にあるとおり当時の大王(オオキミ、天皇)はアメノタリシヒコなのですから、どちらを信じますか?

天皇(大王)が皇統の万世一系の男系男子というのは、天皇のルーツを考えれば当然だからです。天皇のルーツはシナの三皇神話の筆頭の天皇伏羲です。魏略逸文にある「倭人は太伯の後裔」と考えられていた証拠が倉敷市楯築王墓の神社のご神体亀石という弧帯文石です(詳細は「【大発見!】天皇家のルーツの証拠!」参照)。

そして600年に倭国王の政治理念を語った人物と607年に聖徳太子の手紙とされるものを煬帝に送った人物は別人で、ふたりのタリシヒコが存在したことが分かりました(詳細は「【刮目天の古代史】天智天皇の謎?」参照)。兄と弟の政治理念は、日本建国の過程を調べて分かりました。

新唐書・宋史に書かれた王年代紀にヒントがあります。「日本は古の倭の奴国」です。先ほどの太伯の後裔、つまり天御中主が紀元前473年に滅んだ呉の王族ですが、半島南部を経由して、紀元前4世紀初頭に福岡市早良平野に遷都したのです。吉武・高木遺跡に初期三代の奴国王と妃・王族の墓が発見されています。皆さんは記紀を天皇の歴史書だと信じているので、気が付かないのです(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。

隋書倭国伝に見られる兄は、第18代奴国王素戔嗚尊で、記紀神話の暴れん坊の神で高天原を追放されたことになっています。奴国宮廷楽師の師升らが反乱を起こし、スサノヲを拷問して殺して倭国を奪ったことが古事記にありますよ。金印の在りかを白状させるために拷問したのです。しかし、スサノヲの部下がいち早く持ち去り、逃げる途中で志賀島に寄って土の中に埋めたのです。江戸時代になって百姓が発見した本物ですよ。それで107年に160名ものスサノヲの部下らを奴隷として後漢に献上して倭国王に認められたのです。この事件が原因で倭国大乱が起こり、卑弥呼が登場し、最終的に日本が建国されます(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。

クーデターを逃れたのが王子イタケルですが、出雲王となり、その三代の子孫(八束命・日高彦・高野御子)が縄文海人ムナカタ族を束ねる王となって倭国大乱から日本建国で大活躍したのです。記紀では日向三代の神話にしています(詳細は「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!」参照)。

そしてスサノヲの弟も逃げて、裏切り者の吉備の勢力を討って、奴国を再興します。さきほどの楯築王墓の被葬者で、19代王天照大神尊、先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日命ニギハヤヒ大王です。

 

 

日本書紀はこの史実を吉備津彦(イサセリヒコ)の鬼退治で誤魔化していますが、平安時代の貞観期の前あたりから地殻変動が活発になり、地震・津波・火山噴火が頻発して治安が悪化したので、備中国吉備津神社吉備津彦命と淡路国一宮伊弉諾尊に皇族に与える特別な神階「品位(ほんい)」を差し上げて祈っているので、吉備津彦が皇祖神ニギハヤヒ大王と分かりました。

神武天皇は本当の初代ヤマトの祭祀王応神天皇の史実を誤魔化すために創作した虚像ですが、ニギハヤヒ大王の子孫の崇神天皇が、大国主高野御子(記紀の武内宿禰)・女王台与(記紀の神功皇后)を討って日本を統一したのです。ところが、ある事情でふたりの子応神天皇(大田田根子)を呼び寄せて両親の鎮魂祭祀を行わせ、狗奴国(纏向遺跡)を邪馬台国の後継国にしたので、ヤマトと呼ぶことにしたのです。

しかし、応神天皇崩御後にスサノヲ・大国主系豪族とニギハヤヒ系豪族の権力争いが繰り返し起こり、ようやく天智天皇の孫の光仁天皇・桓武天皇になって両者の争いが終了して、今上天皇までニギハヤヒ大王の系統が続いていることを突き止めました。

女帝が存在しないことは天皇家の菩提寺泉涌寺で歴代天皇を仏式で祀っていますが、明治になるまで江戸時代の二人の女性天皇は天皇として祀られていないことが分かりました。架空の女帝持統天皇を創作したので、二人の前例(推古天皇と皇極・斉明天皇)と、その後の女帝も藤原氏によって創作されていたという重要なことが分かりました(#^.^#)

長い話になって申し訳ありませんでした(^^;)


あ、日本書紀の神功皇后紀に卑弥呼や台与の記事が注記されてますが、高市皇子の長男長屋王が政権を握った時代に書き入れたと推理しています。書き忘れましたが、天武天皇崩御後に高市皇子が即位していたのです。長屋王の広大な屋敷跡から出土した木簡に長屋親王とありますので分かりました。ですから持統天皇は存在しないのです(^_-)-☆
日本書紀や続日本紀などが天皇の歴史書だと信じていると誤魔化されますね(#^.^#)

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邪馬台国大和説は過去の学説だよ!(^_-)-☆

2025-01-30 00:00:11 | 古代史

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#2025-01-26 00:20:11に記事にしましたが、纏向遺跡で出土した九州の土器について詳しい情報が得られましたので本文の末尾に(注2)を追加しました。よろしければ、ご確認ください(#^.^#)

#2021-10-30 12:24:05に記事にしましたが、纏向遺跡を長年にわたり発掘調査されてきた関川尚功氏が2020年に纏向遺跡は邪馬台国ではないという考古学の証拠をあげて発表されて畿内説の勢いがなくなったようでしたが、驚くことにまた2023年3月に考古学の専門家で桜井市纏向学センター所長の寺沢薫氏が「卑弥呼とヤマト王権」中公選書を出されて、纏向遺跡に邪馬台国があったという説を主張されましたので少し混乱気味です。

YouTubeでもいくつか寺沢薫氏のこの著書に影響を受けて、登録者数1.1万人で2453 本もの高校日本史のオンライン講座動画をアップされている人気YouTuberが「YouTubeの邪馬台国論争 箸墓古墳は3世紀という考古学を認めるか認ないか、が分水嶺 【卑弥呼と邪馬台国】」のような動画の中でタイトルのような主張をされています。この方の別の動画「寺沢薫著 「卑弥呼とヤマト王権」を読む① プロローグ【邪馬台国2025-1】」に纏向説を否定する根拠を述べたのですが、完全に無視されました。削除されていないだけましですが(;^ω^)

影響力のある寺沢氏も含めてまともな反論を無視するのは古代妄想と断じるしかないので困った問題だと思います。もう一度、最初にご紹介した「箸墓古墳が3世紀か4世紀かで決まるかのような」動画に以下のような反論をしようか少し思案しているところです。

寺沢氏がプロローグの中で以下のように述べておられます(pp.17-18)。

邪馬台国とは奈良盆地の東南部を占める狭義の「やまと」の領域、つまり私の言う「ヤマト国」を指し、女王卑弥呼は纏向遺跡に居たという考えを明らかにした。(中略)三世紀の巨大な遺跡として有名なのだが、(中略)邪馬台国畿内説の最有力候補となっている遺跡なのだ。

 とはいえ、邪馬台国や卑弥呼をめぐる論争はあくまで文献学上の問題である。考古学のデータがどれだけ蓄積されていっても、文献を解釈するほどにモノ(遺跡や遺物)じたいから情報を引き出し、邪馬台国の位置や卑弥呼の実像を直接的に叙述することはむずかしい。だからといって、まま見受けられることだが、独断的な文献解釈をベースに考古学のデータの一部を切り出して自説の整合性を取りつくろう手法は本末転倒もはなはだしい。

 モノから有効な情報を可能な限り引き出し、考古学から得られた知見をもとに最も合理的で精緻な独自の歴史像を組み立て、そのうえで文献との整合性を逐一検証し、どれだけの歴史叙述ができるか、二段構えの論理的な手段を踏む必要がある。そこに十分な状況証拠と理論的説得力が得られたとき、邪馬台国論争にも王手を突きつけることができるはずである。

この内容は刮目天の主張するアブダクションによる科学的手法に似てはいますが、決定的に違うことは「独自の歴史像」が文献とは別に存在するかのような主張なのです(一部、信ぴょう性のあるシナの文献は使用しているようですが)。文献の内容が無ければモノはモノでしかなく、モノ自身が語る内容は限られるはずです。具体的に文献にある人物とモノの関連で具体的な「誰が、いつ、何をした」などの歴史叙述ができるのです。東洋史家の岡田英弘先生が教えてくれたように「考古学は歴史学の代用にならない」ということなのです。寺沢氏の言う「独自の歴史像」というのがF .エンゲルスの「家族、私有財産および国家の起源」の唯物論的考察で得られた歴史像だとすると、これと整合性の取れるように文献解釈を行うことになりますので、正解とはならないのです。

たとえば、水田稲作が導入された弥生時代になって起こった戦争の原因を、人口の増加・資源不足(適地や水の奪い合い)・蓄積された富の略奪・思考的変化とするのが従来の定説のようになっていました。受傷人骨の数と甕棺の数を福岡平野・宝滿川上・中流域で調査して、従来の弥生時代開始の年代観(紀元前5世紀から前4世紀)では人口密度が高いほど受傷人骨が多いことは言えたようですが、弥生時代が紀元前10世紀に始まる歴博の年代に変わり、そのようなことは言えないことが分かってきました(中田朋美等「弥生時代中期における戦争」情報考古学Vol.24No.1-2,2019)。

戦争とは国家間の武力闘争ですから、対立国家が生まれないと戦争になりません。列島内で対立する国家に分裂したのは107年に後漢に朝貢した奴国宮廷楽師の師升の反乱が原因だと分かりました。つまり師升が奴国王を殺して奪った倭国と旧奴国の王族が吉備で立てた狗奴国や出雲・丹後王国の対立が原因で戦争が起こったので、弥生後期後半(二世紀末)の倭国大乱が日本列島で初めて発生したのです。その結果、戦況が一方に傾き卑弥呼が登場したのですが、倭国が拡大したために、狗奴国は吉備から纏向遺跡に遷都したのです(詳細は「其の國、本亦男子を以て王と爲(な)す!(^_-)-☆」参照)。

これは弥生後期後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて、環濠の溝で発見された矢じりが戦争の痕跡と見て、戦場は北部九州の倭国と山鹿市・菊池市の狗奴国の前線基地に限定されることが分かりました。狗奴国側の前線基地から山陰や畿内の土器が出土し、兵士を呼び寄せて倭国側の集落を襲ったと分かりました。さらに調査結果を考察すると狗奴国側の集落の環濠から、倭国側の銅鏃が出土していたので狗奴国の官狗古智卑狗が倭国に襲撃されて戦死したために、倭国が狗奴国側の一部の勢力を取り込んで卑弥呼を女王に共立したので戦闘が収まったと推理しました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

実際は、卑弥呼は宗像女神市杵島姫で太陽神の神託を口寄せする姫巫女で、倭国を統治する女王ではありませんが、師升王の子孫の本当の倭国王難升米が政治的な理由で、倭国の王都を卑弥呼の居城として、戦略上重要な場所(帯方郡から東南万二千里で魏のライバルの呉を挟み撃ちする邪馬台国)に居たことにしたのです。ですから、いまだに邪馬台国問題が解決していないのです。

ですから、自説に都合の好い文献解釈をし、関川氏の主張する不都合な反論を無視していますので正解が得られないのです。正しい反論には仮説を修正しなければならないのです。纏向遺跡はヤマト王権成立した古代史の最も重要な遺跡であるのは間違いないので、卑弥呼が纏向遺跡にやって来て王権が成立したという説は成り立たないのです。

ということで前置きが長くなりましたが、以下の記事にお付き合いください(;^ω^)

 

箸墓近くに「卑弥呼の宮殿」邪馬台国は纒向か
2021/10/27 08:00 小畑 三秋 産経新聞


タイトルから見て邪馬台国大和説を否定するのかと期待して読んだら、またガッカリしました。
いわゆる邪馬台国が奈良県桜井市の纏向遺跡にあったとする説は、多くの史料・証拠から否定され、学術的には今や九州説が主流と言っていいと思います。しかし、相変わらず、マスメディアがいい加減な論説記事を発表するので、素人はまだ畿内説が有力な学説として生きていると考えてしまいます。

すでに「考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国」という書籍を、長年、橿原考古学研究所の所員として纒向遺跡の発掘・調査に携わってきた専門家の関川尚功氏が出しています。この研究グループが提唱している大和説を、立場上否定しにくいしがらみなどがあると拝察されますが、真実を探求する学者として勇気を持って大和説を否定されたことはとても立派な態度だと思います。



マスメディアは本来ならば、こういう真っ当な学者の説を取り上げて、邪馬台国問題に興味を持っている多くの読者に紹介するのが使命ともいえるはずです。専門家による学術的な論争を踏まえて、マスメディアが中立な立場でそれらを紹介するものであるべきですから、もしもこの記事の発信者が大和説を否定するものに異議があるのならば、学会などの場で正面から論争を挑むべきだと思うのですが、それを避けて従来の説で塗りつぶすようないい加減な論説記事ですから困ったものです。

纏向遺跡は三世紀初頭に三輪山の西側の山麓一帯に突如出現した大集落です。当時の列島で最大級の広さを誇る遺跡です。ヤマト王権のシンボルである前方後円墳の発祥地で、遺跡に水田跡が見られない、祭祀を中心とする政治都市です。掘立柱建物の住居跡から、王族や各地の首長クラスの人物が集まっていたことがわかります。大型の建物は祭祀などを行った場所でしょう。当時の祈祷に使ったと思われる桃の種が大量に見つかっています。


このような纏向遺跡が邪馬台国にふさわしい当時の大集落だからといっても、三世紀の倭国の様子を記述した「魏志倭人伝」に記述された以下のような倭国の特徴に合わないのですから、邪馬台国ではないと本当は最初から分かっているのです。権威ある学者が提唱するので有力な学説だと思い込まされてきただけです(紫字で示した原文とカッコ内の翻訳文はwiki「魏志倭人伝」より引用)。

「竹箭或鐵鏃或骨鏃(竹の矢は、あるいは鉄の鏃(やじり)、あるいは骨の鏃である)」
奈良県全体の鉄鏃の出土数はわずかです。福岡県・熊本県・大分県の方が圧倒的に多い。
「倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾・・・所有無與儋耳・朱崖同(倭の水人は、好んで潜って魚やはまぐりを捕らえ、体に入墨をして、大魚や水鳥の危害をはらう。後に入墨は飾りとなる。・・・風俗・習慣・産物等は儋耳(廣東儋県)・朱崖(廣東けい山県)と同じある)」奈良県は海に面してはいないので、九州辺りの風俗に近い。
「倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣(倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みな、裸足である)」奈良県は温暖な土地とは言えない。
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種(女王国の東、海を渡ること千余里、復、国があり、みな倭種である)」纏向遺跡の東側も、南側であっても深い山地で、いきなり海を渡るという表現は出来ない。
「其死、有棺無槨、封土作冢(人が死ぬと、棺はあるが槨(そとばこ)は無く、土で封じて塚をつくる)」畿内の墓には木製などの槨がある。
「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩(卑弥呼が死んだので大いに塚をつくった。径は百余歩)」卑弥呼の墓が箸墓のような前方後円墳であるとは書かれておらず、直径約150mの円墳であり、そのような墓は纏向遺跡の周囲に見られない。

さらに、この新聞記事には以下の読者をミスリードする内容があり看過できません。

通常の集落遺跡では地元の土器が大半を占めるが、纒向遺跡では、東海や山陰、瀬戸内、九州などの特徴をもつ土器が15%ほどに上ることが分かった。いずれも3世紀を中心とした土器で、邪馬台国の時代と重なった。

しかし、発掘された外来の土器について上の記事で述べている九州の土器が見られるというのは全くウソではないようなのですが、非常に少なく、外来土器の1%以下なので、以下のデータに現れません。そのことを言わないと、九州の人々まで他の地方の人々と同じように来ていたと読者が誤解します。

搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 49%
北陸・山陰系 17%
河内系 10%
吉備系 7%
近江系 5%
関東系 5%
播磨系 3%
西部瀬戸内海系 3%
紀伊系 1%

(wiki「纏向遺跡」より)

寺沢氏も外来系土器の下図のデータを載せながら、上掲書本文p.70で「近年、土器の形式から搬入元を推定するだけでなく、土器の胎土から製作地を特定する分析方法が広がり、纏向遺跡でもより詳細で、より広範な搬入元が推定されるようになった。リストに挙がっているのは、瀬戸内海ルートでは吉備中心に、讃岐、阿波、播磨、伊予、周防ないし長門、そして筑紫。」と記していますから驚きました。

そして、纏向遺跡で出土した九州系の土器が判明しましたので(注2)に述べます(^_-)-☆(2025.1.29 追加)



九州の人々がほとんど纏向遺跡に現れていないという事実は、邪馬台国が纏向遺跡ではないことを明確に示す証拠と言えるものなのです。北部九州は列島で最初に開けた場所で、奴国や伊都国に弥生時代の倭国の王宮や交易センターが存在しましたし、祭祀に用いられる青銅器の製造工場をもつ大集落のある地域です。大陸や半島の文化を取り入れる玄関口なのです。卑弥呼の時代の纏向遺跡に楽浪系の土器も出土していません。纏向遺跡で行われた前方後円墳での祭祀に各地から人々が来ていますが、北部九州の人々が来ていないのです。ここが遅くとも二世紀には倭国と呼ばれていた領域に間違いないのですから、それと敵対する纏向遺跡は狗奴国以外に考えられないということです(注1)。邪馬台国の南に狗奴国が在ったとする「魏志倭人伝」の記述を疑った方が良いということなのです。「魏志倭人伝」は、当時の魏の実力者司馬懿が政治的目的で邪馬台国への行程などを誤魔化して魏使の報告書に書かせたものを基にした記事だったと突き止めました。詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください!(2025.1.27 青字追加)



(注1)纏向遺跡の最古の前方後円墳は石塚古墳で、210年頃築造ですから、纏向1式の年代です。刮目天はニギハヤヒ大王の直系の子孫の初代狗奴国王卑弥弓呼(「ひこみこ」の誤写か)の墓と推理しました。この頃にも、その後の大王か有力者と思われる人物の葬儀にも九州の人々は来ていないのですから、北部九州の倭国は敵対勢力と推理できます。ちなみに、土器の種類ですが、鉢・高坏・器台は葬儀や他の祭祀で使われるもので、纏向1式が最も多いですから重要な儀礼が行われことが分かります。

(注2)山田隆一「集落遺跡からみた古墳時代前期社会の研究 -近畿における広域流通の視点から-」(2019年3月期関西大学審査学位論文)に畿内の遺跡で出土した北部九州系土器について下図のとおり、6カ所の遺跡で僅か7点、纏向遺跡では1点のみで、さらに纏向石塚古墳の盛土から1点で、それぞれ以下のとおりです(p.134)。

纒向遺跡(奈良県桜井市) 土坑1から出土した複合口縁壷(4-1)の口縁屈曲部7)である。口径 29.5㎝の大型品。口縁外面に斜格子の線刻文、屈曲部に刻み目を巡らせる。常松氏は形態の特徴から、製作地を福岡平野すなわち「奴国」域を第一候補にあげ、西新式古段階に位置付けている。 他に採集資料であるが、南九州系(4-3)とされる土器8)がある。壷の胴部破片で、ハケ状工具で刻み目を施文した突帯を巡らせており、報告者の石野氏は弥生時代終末~古墳時代初頭期で南九州の成川式に比定している。

7)常松幹雄「大和・纒向遺跡における北部九州の壷形土器」『庄内式土器研究』3 庄内式土器研究会 1992

8)石野博信「纒向遺跡採集の「南九州」系土器」『青陵』第 59 豪奈良県立橿原考古学研究所 1986

纒向石塚古墳盛土内9) 石塚古墳第8次調査において墳丘盛土内から土器片 3,616 点が出土し、その内の1点が北部九州系とされている。頚部と肩部の境に刻み目を施した貼り付け突帯の巡る複合口縁壷(4-2)である。淡い褐色を呈し、器壁は厚い。伴出した土器から庄内0~1式に位置付けられる。

9)橋本輝彦「纒向遺跡の発生期古墳出土の土器について」『庄内式土器研究』14 庄内式土器研究会1997

また、畿内の遺跡で出土した北部九州系の土器に関して、以下の通りまとめられています(p.134)。

 北部九州系土器は、畿内ばかりでなく、ほとんど他地域には流出しないようである。現状で、その原因のひとつが「北部九州系土器の形態や胎土の特徴に乏しいことによる認識不足」によるとして、それが解消されて資料の増加を見込んだとしても、大枠はそれほど動かないと考える。当時、北部九州地域には西新町遺跡、博多遺跡群を港津に、比恵・那珂遺跡群という巨大拠点が存在するにも関わらずである。そのことはおそらく、一部の例外を除いて、西新町遺跡で多量に出土する半島系土器が他地域には流出しないし、博多遺跡群で確認された高度な鍛冶技術が伝播することがないことにも通じる。これらは、そこに半島からの渡来人が居住したために生じた特殊な状況によるのであろうが、そうであっても半島的な文物や高度な技術がストレートに日本各地に伝播するような社会でなかったこともまた確かなのである

ということで、三世紀前半(卑弥呼の時代・庄内1・2式)において、魏志倭人伝に伊都国の一大率が女王への外国からの贈り物を検査して間違いなく送り届けるとあるので、以上のように伊都国と纏向遺跡との緊密な交流は見られないことから、纏向遺跡に邪馬台国があったとする説は否定されます。

しかし、247年の卑弥呼の死後の内戦の結果、全国各地のムナカタ海人族を傘下にした大国主・台予の倭国の時代には、敵対する纏向遺跡を中心とする畿内・東海の狗奴国勢力の領域を除き、下図のとおり大国主傘下の各地に高温鍛冶の痕跡が見られる(247~270年頃、庄内3式)。当時の先端技術を惜しげもなく傘下に放出し各地の発展に尽くしたので、大国主は、後世、最も人気のある神様として様々な名前で日本全国で祀られています。(2025.1.29 追加)



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まだ箸墓が卑弥呼の墓なの?!(;´Д`)卑弥呼のあとの女王台与(トヨ)の墓ですよ!
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆







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【邪馬台国問題】闇が深いのはどこの渡来人?!( ^)o(^ )

2025-01-29 09:50:54 | 古代史

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#YOさん、先ほどご意見を承りました。不愉快な目に遭わせてしまい大変申し訳ございませんでした。まあ、この界隈にはいろいろな方がおられるのだなと、実感しました。マスメディアが面白おかしく、学問的な混乱を煽っているのも一因ですね。生意気言うようで恐縮ですが、専門家といわれる方が、もっと科学的な思考を身に着けて、国民の前でハイレベルの討論していただく必要があるなと感じています。これに懲りずに、またいいコメントをください。どうも有難うございました((^^;)

昨日の記事の中でご紹介した動画「【闇が深い古代史】アマテラスに消された太陽神「伊勢津彦」の正体とは?(シン・きー歴史沼チャンネル@YouTube)」にいつもいいコメントくださるYOさんを見かけたのでやり取りしました(以下のYOさんとのやり取りは、前回の記事のコメント欄にありますので、ご興味があればご参照ください)。

そして @ラッキー純-h2x  さんが阿波説を支持する論文があると紹介してくれたので、この方ともやり取りしましたが、驚くほど熱烈な阿波説の方で、別のまともなご意見の@fujisan1006という方のコメントに@ラッキー純-h2x  さんがコメントしたので、参入したところ、どういう訳かYOさんとのやり取りまで、わたしのコメントも一部別の方とのやり取りは残っているようですが、ほとんど消されるという、今までに体験したことのない面白いことがありましたので、以下に記録しておきます!

感想!ですが、都合の悪いコメントにしっかり反論できないので、消すのかな!
この界隈の方はナイーブな方たちだな(;^ω^)

よろしければ、また、お付き合いください(#^.^#)

@YO-high
正直言えば、阿波説は「論文」も出てないので、まだまだ認知されてない状況ですね。
なので、誰か論文を書いて欲しいところです。査読されないとスタートラインにも立てない状況だってこと。
また、遺跡などの発掘も重要ですので、早急に発掘調査して欲しいところです。ようは「物証」が欲しいんですよ。
論文が出てない以上考古学では「無視」されてる現状ですので、何とかして欲しいところですね。

@ラッキー純-h2x
”阿波邪馬台国説”を裏付ける材料となる考古学論文の紹介「集落遺跡からみた古墳時代前期社会の研究 -近畿における広域流通の視点から-

こんなのがありました。

@katumoku10
YOさんこんばんは!
おっしゃるとおりです。専門家に認知されていない説は学説ではないということですね。阿波説が有力だという物証が学術論文に発表されていないので無視されるというのも事実でしょう。
YOさんは、ここが邪馬台国だと分かる決定的な物証って何だと思いますか?
金印とか鏡とか絹織物だとか鉄鏃は見つけた人が容易に持ち運びできるので決定的な物証にはなりにくいと思います。ですから遺跡と遺構でしょう。
纏向遺跡を邪馬台国だとする説は、ヤマト王権発祥の大集落だということが物証とされているようですが、魏志倭人伝の邪馬台国に関する記述を無視しているので九州説の専門家は認めていないと思います。長年纏向遺跡の発掘調査を担当された関川先生が纏向遺跡は考古学から見て邪馬台国でないと断定されているのですが、寺沢先生は関川先生や安本先生と論争せずに、反論を無視して纏向説に固執されているようです。纏向説は、古代妄想の世界だと感じています。
ですから、この世界は異常なのです。通常、学会で結論が出ない問題の場合、とことん論理的な議論で、学術的な反論に耐えられなければ自説を撤回するのが学者として正しい姿勢でしょう。マスメディアを使って太鼓鳴らすのは如何なものかと!

ですから、こういう状況でどんな物証があれば、偏見のない多くの国民がその説を支持するか知りたいのです。
刮目天は大分大学名誉教授の故富来隆先生が最初に昭和28年に学説として発表された宇佐説を支持し、物証などを探して卑弥呼の居城「宮ノ原遺跡」と径百余歩の冢(ちょう)「三柱山古墳」を発見しましたが、学術論文にしても古代妄想の専門家には否定されるでしょうね(;^ω^)
ですから、今のところ学術論文ではなく興味のある多くの方が自分のアタマで判断できるようにブログ記事にしています。
決定的な物証について、YOさんのお考えを教えて下さい!よろしくお願い致します(#^.^#)

@katumoku10
 @ラッキー純-h2x  さん いい論文のご紹介、有難うございます。今、ざっと見ましたが邪馬台国については述べていないと思います。阿波・讃岐系の土器は纏向遺跡で出土していますが、「近畿での北部九州系土器をあつかった。北部九州系も流通拠点に出土が確認できるが、わずか7点である。北部九州には西新町遺跡、博多遺跡群を港津に、拠点となる比恵・那珂遺跡群が存在するも、韓半島から伝わった高度な技術や物資がストレートに各地に伝播するような社会でないことがわかった。」とあります(p.3)。阿波が、纏向遺跡と同様に、北部九州や韓半島だけでなく帯方郡との緊密な交流の証拠がないのならば、残念ながら邪馬台国は阿波になかったという結論になりますね!

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@fujisan1006
ごめんなさい正直このコラボはあまり見たくなかったです。
私はどの説も否定しません、真実みたいに言い切っている人達が嫌です、みたいに語る人に限って情弱とかキツい言葉を平気で投げつけるんですよね。
そして得てして、そういう人に限って自分の頭にない説には否定的になる。

言い切る人がいる事であたかもそれが正解かのように広まってしまうとご指摘されていますが、結局の所何が正解かは誰にもわからない訳ですよね。
その言い切っている方の説が実は正解という可能性だってある訳で、後は一人一人が自分で判断してその人にとってスッキリする説を探って行くしかないしそれで良いと思うんです。
何だか上から目線で否定ありきの動画に感じてしまいました。

@ラッキー純-h2x
おっしゃるとおり。

言いきりや断定口調は表現の自由です。

ただ情弱や妄想というのは表現の自由ではすまされません。

あと断定口調を使えばある説が広がるわけではない。

そこに論理性や整合性が無ければ広がりませんよ。

そもそも阿波説が広がって何か困ることでもあるのですかね。

むしろアンチ阿波説派のいう妄想とか情弱という表現が広がる方が問題だと思いますよ

@katumoku10
 @ラッキー純-h2x  さん、前半は同じ意見ですが、上で述べたように阿波が邪馬台国ではないことはご紹介いただいた論文から分かりましたよ(;^ω^)

@ラッキー純-h2x

その内容は?

私は論文の存在を示したでけで中身は読んでませんので簡単に説明して下さい。

@katumoku10
@ラッキー純-h2x さん YOさんのコメントにあなたが論文を紹介していますよ。以下のコメントです。読んでいないのならば、じゃあ読んでみてくださいネ。

@ラッキー純-h2x
1 日前
”阿波邪馬台国説”を裏付ける材料となる考古学論文の紹介「集落遺跡からみた古墳時代前期社会の研究 -近畿における広域流通の視点から-

こんなのがありました。

 

@ラッキー純-h2x
 @katumoku10  

読んで無いのに阿波が邪馬台国ではないことが論文から分かったのですか?

@katumoku10

​@ラッキー純-h2xさん  私はざっと読んだのですよ。アンタが阿波説を裏付ける論文として紹介したのに読んでないと言ってたのですから、どうなってんの?


@ラッキー純-h2x
結局ざっと読んだだけで阿波が邪馬台国ではないことが証明できなかったわけですね?

@katumoku10
 @ラッキー純-h2x  はははは
あんたは天才だな!

@fujisan1006
 @ラッキー純-h2x  あなたのような粘着質な阿波説論者がいる事で、あなた自身が阿波説が毛嫌いされる原因にもなっている事をご理解された方がよろしいかと思います🙇

@ラッキー純-h2x
たしかに粘着質や情弱、盲目的といった言葉を使うアンチ阿波説派は、阿波説派だけでなく一般の歴史好きの方からも毛嫌いされているようです。

この動画のコメント欄でも多くの指摘がされてますね。

@ラッキー純-h2x
ありがとうございます。

ところで刮目天さんとFujisanは言葉遣いが似てますね。

「どの説でも良い」「どの説もあり」という主旨のコメントされている方も全員、同一人物かのように言葉遣いや内容が似ている印象を受けます。

アンチ阿波説なのも同じ。

出没時間もほぼ同じですしね。

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【刮目天の古代史】古代史の闇に光を当てるには?!(^_-)-☆

2025-01-28 13:21:06 | 古代史

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【闇が深い古代史】アマテラスに消された太陽神「伊勢津彦」の正体とは?
シン・きー歴史沼チャンネル@YouTube

多くの皆さんは驚かれると思いますが、日本神話は日本書紀の中で作られたもので、太古からの伝承ではないのですよ。風土記で語られている伝承の多くは、日本神話から創作された話なのです。だから伊勢津彦の話も国譲りした大国主神話の連想で作られたので、そっくりなのです。猿田彦神も大国主の分身として作られた神で、天孫を導く神として日本書紀に登場しますが、三世紀までの日本建国の主役だった縄文系海人ムナカタ族の王の史実を誤魔化すために神話が創作されたのです。万物に霊魂が宿るアニミズムも創作されたもので、太陽神やヘビ神は縄文系海人族が古くから信仰していたのです。

それで、もっと驚くと思いますが、記紀神話は江戸時代に作られた神話ですよ。日本書紀よりも先に完成したとされている古事記は、実は九世紀の学者が突然表に出してきたもので、正史にその記録はないですし、日本書紀が参照した痕跡も見当たらないのです。

調べると、日本書紀が隠した史実を藤原氏に悟られないようにして、暴露する暗号書だったのです。出雲口伝や竹内文書など様々な古史古伝も古事記と同様の目的で作られたもので、見つかった時に言い訳できるように荒唐無稽な話にして史実を示唆しているので、一生懸命解読してもほとんど真相には至ることができないと思います。真相が分かると、どのようなトリックなのかが逆に分かるだけの話です。

古事記ですが、それまで祭祀関係の氏族が細々と伝えてきたのですが、国学者本居宣長が発掘して絶賛したのです。その影響を受けた神道家平田篤胤が宣長の解釈した記紀神話に基づき復古神道を提唱しましたが、それが幕末の志士に大人気になって、明治新政府が国家神道を創設して学校で国史を教えるようになったので、戦後の日本人も何となく日本古来からの伝承だと洗脳されているのですよ。

それまでの日本神話は伊勢津彦の話のような日本書紀からの連想で作られた神話や、神仏習合、修験道、道教などの影響を受けた中世日本紀と呼ばれるナーガ(龍蛇神)信仰の神話に変貌していたのです(斎藤英喜「読み替えられた日本神話」講談社現代選書)。

明治政府が神仏分離令を出すと、全国で廃仏毀釈運動が起こり、それまで神様を祀っていた寺院が打ち壊されて、僧侶が無理やり還俗させられる暴力的な日本版文化大革命が起こったのです。あまり酷いので、来日していた米国の東洋美術史家のA.フェノロサなどの働きで寺院が復興されて現在の形になっているのです。

神と仏を分かつもの ~明治維新の廃仏毀釈 | 戦国ヒストリー

(神と仏を分かつもの ~明治維新の廃仏毀釈)

 

皆さんは記紀が天皇の歴史書だと習っているので、疑いませんが、事実、つまり考古学や民俗学などの成果から日本書紀の記事は藤原不比等が都合の悪い史実を誤魔化すために歴史改ざんしたことが分かりました。

日本書紀の内容がデタラメだと気づいた津田左右吉の研究から、余り進んでおらず、むしろ逆に、正しく解釈すると真実が現れるという思い込みで紀年論などの研究を行っています。でも、そのやり方では真相を復元できません。

先ほどのとおりどこにウソがあるか、何を誤魔化したのか不比等の意図を推理して、仮説を立てて、事実で検証を繰り返し、仮説の修正、拡張、詳細化を行っていくアブダクションという発見的な推論法によって科学的に解明できることを示しました。よろしければ、詳しくは「【刮目天の古代史】謎の古代史を科学的に解明する」をご参照ください。どうも、お邪魔しました。(;^ω^)

【古代史問題の科学的解決手法

 

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倭国大乱の原因が分かれば、ヤマト王権成立まで分かる!(^_-)-☆

2025-01-27 15:02:38 | 古代史

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倭国の大乱 鉄資源をめぐる北九州勢力と畿内吉備勢力の争い【福永伸哉「邪馬台国から大和政権へ」】

日本史オンライン講座@YouTube

 

いい話題を有難うございます。
倭国大乱の原因と内容を正しく理解すれば、卑弥呼の正体もヤマト王権成立過程も分かりますよ!

大乱の原因は107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升が、57年に後漢光武帝から金印を賜うまでに隆盛となっていた奴国王を討って倭国を奪ったクーデター事件です。帥升は奴国宮廷楽師で祭祀を任されていた人物だと推理しました(帥姓は西晋の時代に師姓から改姓されたのです。師姓は周代以前から宮廷祭祀を行う楽師の官位を表す姓なのです)。

この奴国王が、宋史王年代紀18代奴国王素戔嗚尊(スサノヲ)だったのです。日本書紀ではこの史実を、高天原神話を創って誤魔化しましたが、古事記は真相を暴露しています。乱暴者の神スサノヲを捕らえた八百万の神が拷問し、全財産を奪ったとあります。金印を奪うために拷問したのですが、いち早くスサノヲの部下が持ち出し、逃げる途中で志賀島に立ち寄り土の中に隠したのです。この金印が、江戸時代の百姓によって偶然発見されたのです。金印が手に入らなかった師升はスサノヲの部下160人を奴隷(生口)として後漢に献上し、倭国王に認められたのです(詳細は「【刮目天の古代史】倭国王帥升のなぞ」参照)。

師升の反乱を逃げたスサノヲの弟ニギハヤヒは吉備を任されていた父イザナギ(16代王伊弉諾尊)の部下が奴国を裏切ったので討ち、吉備を平定して奴国を再興したのです。王年代紀19代王天照大神尊とされています。先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日命として物部氏の祖とされていますが、日本書紀は吉備津彦(イサセリヒコ)の鬼退治の伝承を作り、史実を誤魔化しました(詳細は「【刮目天の古代史】消された吉備の大王ニギハヤヒの謎?」参照)。

でも、現在の天皇の祖神であることが平安時代に吉備津彦を皇祖神として伊弉諾尊と一緒に祀っていますので正体が判明しました。そして、倉敷市楯築王墓の被葬者だということも、墳頂の神社のご神体の亀石(弧帯文石)がシナの三皇神話の筆頭の天皇伏羲と同じ人面蛇体で、魏略逸文にある「倭人は太伯の後」を裏付けるものだったことが分かりました。記紀神話で、最初に高天原に降り立った神天御中主が新唐書・宋史王年代に初代奴国王だとあります。江南の海人族の信奉するナーガ(龍蛇神)国王(奴国王)という意味ですから、BC.473年に滅んだ呉の王族で、呉の先祖が夏王朝を興した禹、その祖神天皇伏羲に繋がります。つまり、天皇のルーツも判明しました(詳細は「【大発見!】天皇家のルーツの証拠!」参照)。

 

また、奴国王スサノヲの王子イタケルらも祖母イザナミの実家のムナカタ海人族に助けられてイタケルは出雲王になります。その子孫がスサノヲゆかりのムナカタ族を束ねる王として、裏切り者の師升の一族の倭国に復讐します。後漢末の朝廷の内乱で統治が緩んだ半島で韓人・濊人が強勢になって暴れたので倭国は楽浪郡との交易が廃れ、衰弱します。

イタケルの子八束命(出雲国風土記国引き神話の神八束水臣津野命の略称)は半島南部の鉄をスサノヲのコネで入手し、鉄のネットワークを作って隆盛になります。その跡を継いだ日高彦(魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗、豊岡市久久比神社祭神久々遅彦)は熊本県菊池川流域に前線基地を築き、山陰や畿内から兵を呼び寄せ、倭国の領土の佐賀平野・筑紫平野などを攻撃したのが倭国大乱です。この戦いで日高彦が戦死して、玄界灘を支配していたムナカタ族の有力者赤坂比古(卑弥呼の父、和邇氏の祖)が倭国王難升米に懐柔されたのです。卑弥呼の太陽神のお告げによって政治を行う条件で狗(旧)奴国王卑弥弓呼(ヒコミコ)を裏切ったのです(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

そのため狗奴国王は吉備から纏向遺跡に王都を遷し、全国に展開していた旧奴国の勢力を呼び集めて、247年に倭国追討軍を送ります。卑弥呼の死後の内戦に勝利した高野御子(日高彦の御子)が狗奴国を裏切り、13歳の台与を外交上女王に立てて倭国王となり、列島各地のムナカタ族が傘下となったので、記紀神話で大国主とされます。出雲・丹後王国三代(八束命・日高彦・高野御子)の史実が記紀の日向三代神話で誤魔化されています(詳細は「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!」参照)。

狗奴国王(記紀の崇神天皇)が尾張王(記紀の景行天皇)を派遣して、最終的に大国主・台与らを討って日本を統一したのですが、狗奴国の後ろ盾だった呉が西晋に滅ぼされます。西晋に朝貢していた倭国を狗奴国が滅ぼしたので、西晋に追討されることを怖れ、大国主と台与の子ホムダワケ(応神天皇)をヤマトの祭祀王として呼び寄せ、狗奴国を倭国の後継国ヤマト(邪馬台国)と呼んだのです。両親の鎮魂のために桜井茶臼山古墳と箸墓を造り祭祀を行ったのがヤマト王権の成立となります。かなり端折りましたので、詳しくは「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)


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10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)


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