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【睡眠用】邪馬台国は見つからない...!!!【ゆっくり解説 】
古代史ヤバイ【ゆっくり解説】@YouTube
卑弥呼の正体の前に倭国大乱について言及するのは絶対必要です。これは考古学の成果で議論すべきです。二世紀後半の日本列島の中で倭国大乱の痕跡が見つかっています。
鉄鏃と銅鏃の出土状況を調べると、弓矢での集団戦の痕跡が分かります。環濠集落の溝などで矢じりが出土すれば、敵集団が集落を攻めたと分かります。まさか味方が自分の集落に弓を向けるはずないですから。
それを日本全国で調べた結果、戦跡が見られたのは、北部九州の吉野ヶ里遺跡などかなりの数の集落と熊本県菊池川沿岸の二つの集落(方保田東原遺跡・うてな遺跡)だけだったのです。つまり、北部九州の倭国と菊池川沿岸の勢力の戦争だったと分かります。
菊池は狗奴国の官狗古智卑狗の名前からとった地名だということで通説では菊池彦と言ってますが、方保田東原遺跡からは山陰や畿内の土器が見つかっていますので、菊池の集落は狗奴国の前線基地だと分かります。
そして、大分県大野川流域から阿蘇山麓にかけて鉄鏃が住居跡から大量に見つかっていますし、鉄製の武器の素材となる板状鉄斧が大量に見つかっています。これらは半島南部の鉄素材が運ばれて鉄製武器を菊池の前線基地に供給するコンビナートと考えられます。
ですから、狗古智卑狗は玄界灘沿岸部や山陰地方などのムナカタ海人族を束ねる王だったと推理できます(豊岡市久久比神社祭神の久々遅彦、スサノヲの子孫の出雲・丹後国王と推理)。また、狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコの誤り)は畿内の纏向遺跡を王都としていたと考えられます(実際は吉備から河内に拠点を移したニギハヤヒ大王の子孫で旧奴国王族)と推理しています(詳細は拙ブログ「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」をご参照ください(#^.^#)。
そして、福岡市や糸島市のいくつかの集落で銅鏃が住居跡から出土しており、倭国は半島が混乱していたので公孫氏との交易ができないので鉄不足になって青銅器を溶かして矢じりを作っていたと推理できます。
それらの銅鏃が菊池の二つの集落の環濠から発見されているのです。倭国の勢力が狗奴国の前線基地を襲撃したことを意味します。それまでは圧倒的に優勢だった久々遅彦の部隊が襲われたということです。
これは状況が大きく変化したことを意味します。204年に公孫氏が半島を平定し帯方郡を設置していますので、それまで劣勢だった倭国王(伊都国男王難升米)は早速、帯方郡に支援を求めて息を吹き返したと推理できます。
さらに、それによって戦争が終結し卑弥呼が登場することになるのですから、さらに何らかの大きな事件があったと分かります。
倭国軍の急襲によって久々遅彦が戦死したと推理しました(詳細は「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)・(その2)・(その3)狗古智卑狗の霊ライン?」参照)。倭国大乱の英雄が亡くなって前線の部隊は壊滅し、途方に暮れた玄界灘の海運を支配していたナンバーツー赤坂比古(和邇氏の祖、天理市和邇坐赤阪比古神社で宗像女神市杵島姫命が祭神として祀られている)が倭国王難升米に懐柔されて、狗奴国を裏切ったと推理しました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。
赤坂比古は縄文海人ムナカタ族の姫巫女が密室で発する太陽神の神託を解釈して部下や民に伝えるイセと呼ばれるシャーマン王なのです。唐古・鍵遺跡の線刻絵画土器に巫(かんなぎ、はふり)と巫女(はふりめ)の様子が描かれています(詳細は「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?(^_-)-☆」・「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」参照)。
つまり卑弥呼の正体は市杵島姫と呼ばれた宗像女神だったと推理しました。卑弥呼は不弥国(うみこく、宗像市田熊遺跡群)で生まれましたが、戦乱になって海に近い不弥国は物騒なので、宇佐市安心院町三柱山台地の要害堅固な居城宮ノ原遺跡に疎開していたと考えられます。宮室が三女神社です。日本書紀に宗像三女神が降臨した場所のひとつが葦原中ツ国の宇佐嶋とあり、宇佐市安心院町は和名抄の宇佐郡野麻郷に比定された土地で、院(女王)が疎開して安心したということが安心院の地名の由来だと考えています。つまり、邪馬台国はヤマコクを居城とする台(女王)の国という意味だったと分かります。長官は宇佐神宮を中心とする大規模集落に居て、卑弥呼を護る兵士は集落の規模から二百人程度で奴婢が百人くらいだと推理しています。魏志倭人伝にある径百余歩の冢(急造りの円形墳墓)「三柱山古墳」を発見しています(詳細は「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」参照)。
そして赤坂比古の傘下となった国々は倭国だった北部九州の国々以外の九州全土と中国西部、四国西部ですが、公孫氏が後ろ盾になり半島南部の鉄も仕入れて、交易で隆盛になったので、四国東部や和歌山まで狗奴国を裏切って倭国側についたことが、纏向遺跡の外来土器の変化から分かりました。つまり、狗奴国王は突然劣勢に立たされて、吉備では危険なので西側の防御として生駒山系のある纏向遺跡に遷都し、旧奴国の勢力を結集して巻き返しを図ろうという戦略だったと考えられます(詳細は「【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆」参照)。
この先の日本建国の話がありますが、長くなったので拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。お邪魔しました(#^.^#)
【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)
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