刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】今年の大発見(その2)!

2024-12-30 16:57:45 | 古代史

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#今年の大発見は、古代史最大の謎のひとつ、天智天皇の正体です。日本書紀では天武天皇と兄弟だとしていますが、とても信じられません。天武天皇の素性とともに日本書紀が一番隠したい史実のひとつだったのです。これが分かりましたので天皇陛下のルーツもはっきりしてきました。

万葉集研究家の渡辺康則氏が「捏造された天皇・天智天皇(上・下)」(大空出版)の中で、謎の数々を整理していただき、さらに「聖徳太子は天皇だった」(大空出版)で聖徳太子は蘇我蝦夷とされた人物で、ヤマトの大王(おおきみ)であり、天智・天武天皇の両親の舒明天皇も皇極・斉明天皇もフェイクだと推理しています。

記紀では応神天皇を初代とするヤマトの大王は、前回ご説明した、奴国宮廷楽師の帥升(正しくは師升)らの反乱で殺された奴国王スサノヲの直系の、縄文海人ムナカタ族を束ねた王(出雲・丹後王国、豊岡市久久比神社祭神久々遅彦、王の襲名)の子孫なのです。最後の久々遅彦の大国主高野御子が師升が奪った倭国を取り戻して、列島の主要部をほとんど傘下にして外交上台与を倭国女王卑弥呼の宗女(一族の後継者)として魏・西晋に朝貢した倭国王でした。つまり、初代奴国王天御中主の末裔の倭国王ということになりますので、大国主の子孫は正統な天皇なのです。

師升らの反乱を脱出したスサノヲの弟ニギハヤヒが吉備で奴国を再興し、その子孫の狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコ)が遷都した纏向遺跡で旧奴国勢力を集め、最終的に大国主と女王台与らを討って日本を統一したのです。日本書紀がハツクニシラススメラミコトとした崇神天皇です。

ところが、呉が西晋に滅ぼされたので、次は西晋に朝貢していた倭国を討った狗奴国が西晋に討たれることを怖れたのです。崇神天皇は大国主らの祟りと考えて大国主と台与の間の子ホムダワケ(日本書紀の応神天皇、大田田根子)をヤマトに呼び寄せて、邪馬台国(ヤマト国)の後継者としてヤマトの祭祀王に立てたのです。そして兄スサノヲの子孫と弟ニギハヤヒの子孫の和解のために、大和盆地に古くから住んでいたスサノヲ・大国主系の豪族(波多氏、葛城氏など)も呼び寄せたのです。ニギハヤヒ系の豪族(物部氏、中臣氏など)は大和盆地の外の河内・和泉方面にと住み分けしたようです。本来正統な倭国王の大国主から武力で倭国を奪ったので、狗奴国王ヒコミコ崇神天皇系の豪族は大国主の祟りを最も怖れ、大和盆地から出たのだと思います(^_-)-☆。

崇神天皇が崩御すると、ホムダワケがヤマトの大王応神天皇に即位し、スサノヲ・大国主系とニギハヤヒ・崇神天皇系の両勢力から妃を出し、皇子が生まれました。応神天皇が崩御すると皇位継承の争いが起こり、大王を出した勢力が権力を握ったので、反対勢力による天皇暗殺が繰り返されたのが、4・5世紀の状況だったのです(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その2)(その3)」参照)。

倭の五王最後の雄略天皇の時代に、倭国の領土だった半島南部の任那・加羅の維持・存続が厳しい情勢になったので、強大な中央集権による半島支配を目指し、倭国内での本格的な武力行使に踏み切りました。雄略天皇はニギハヤヒ・崇神天皇系の吉備王・尾張王などの豪族や、それに味方した葛城氏や、彼らに支援された皇位継承権のある市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ、履中天皇の皇子)まで討ちました。そのために雄略天皇崩御後の皇位継承がかなり困難な状況になりました(注1)。

そのような状況から、ヤマトの大王不在の時代が続きましたが、両勢力が再び和解し、履中天皇の曽孫の武烈天皇を即位させ、任那・加羅の鉄鉱山を確保するために、百済を馬韓伯済国の嶋君に奪わせました。武烈天皇が後継者を決めずに崩御すると、雄略天皇によって吉備から追い払われた崇神天皇系の欽明天皇が九州物部氏などの支援でヤマト入りし、大王に即位しました(注2)。

欽明天皇崩御後に皇太子の敏達天皇が即位しました。600年に遣隋使を送ったアメノタリシヒコです。日本書紀はこの時代に、物部・中臣氏と蘇我氏の崇仏廃仏戦争があったとされていますが史実ではなく、蘇我馬子とされた応神天皇の子孫が敏達天皇を討ってヤマトの大王を取り返した用明天皇のことだと推理しました。607年に隋の煬帝に送った有名な聖徳太子の手紙から、用明天皇が送ったものだと判明しました。つまり、アメノタリシヒコは二人いたのです(詳細は「【わかった!】アメノタリシヒコの正体!」参照)。

これによって日本書紀が記した飛鳥時代の話はほとんどが、天智天皇と藤原鎌足の出自を隠すために創作した話だということが、古事記の暗号を解くことによって分かりました。複雑に絡み合った推理小説のような内容だったのですよ(^_-)-☆

詳しい話は、2024-10-12 08:27:33 に天智天皇に関する記事を以下にまとめましたので、よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

【刮目天の古代史】天智天皇の謎?( ^)o(^ )

【関連記事】

【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?
百済の歴史はどこかおかしい!502年に馬韓の伯済国の倭人斯摩(しま、百済武寧王)が武烈天皇と事前の盟約があって、百済王を討って、百済を乗っ取ったと推理できます(^_-)-☆

【わかった!】隅田八幡神社人物画像鏡のなぞ(^_-)-☆

和歌山県橋本市隅田(すだ)八幡神社所蔵の青銅製で径19.9cmの人物画像鏡です。その周縁部の漢字48字の銘文に古代大王名などの人名が記されています。古代史解明のための重要な資料ですので国宝に指定されています。



任那(みまな)の正体は?(@_@)

ヤマト王権が3世紀末に成立して、その後の政治情勢は半島の動向と関係があります。倭国と半島の強い絆は何なんでしょうか?

(注1)雄略天皇崩御後に吉備稚媛に唆された星川皇子の乱が起こり、大国主の母方の大伴室屋らに討たれて、皇太子白髪皇子清寧天皇)が「翌年正月即位即位2年、皇子がいないことを気に病んでいたところ市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟が播磨で発見されたと報告を受ける。翌年に天皇のはとこに当たる二人を宮中に迎え入れ億計王を東宮、弘計王を皇子とした。即位5年正月崩御」という話も出来過ぎていて信用できません。雄略天皇崩御から市辺押磐皇子の孫の武烈天皇がヤマトの豪族とニギハヤヒ系の豪族の和解によって即位するまで空位だったと推理しています。

(注2)欽明天皇は、雄略天皇に討たれた吉備の豪族の上道臣氏の人物だと推理しています。欽明天皇の父とする継体天皇は欽明天皇の史実を隠すために登場させた架空の天皇なのです。磐井の乱もデタラメです(詳細は「隠された倭王と創作された継体天皇?( ^)o(^ )」参照)。wiki「上道臣」によれば、「上道臣は、吉備国上道郡一帯を支配した上道国造を務めた豪族で、孝霊天皇の皇子・稚武彦命を祖先とする、と伝えられている。

鉄・塩・瀬戸内の海上交通を牛耳り、大王と姻戚関係を結び、内外の軍事行動に深く関与することで、王権中枢に参画したようである。『日本書紀』巻第十には、応神天皇の妃として、御友別命の妹である兄媛の名前がある[1]

造山古墳岡山市新庄下)・作山古墳総社市三須)・両宮山古墳赤磐市穂崎・和田)など、天皇陵に匹敵する巨大古墳は、上道臣や下道臣下道国造)その首長の権力の現れである。」とあり、ニギハヤヒ・崇神天皇系の吉備王で、その子孫が天智天皇だと考えられます。中大兄はナーガ(龍蛇神)国の正統な後継者という意味ですよ(^_-)-☆

今年もあと一日です。お陰様で、いろいろと古代史の謎が解けました。さらに詳細を明らかにしていく予定ですので、来年も、どうぞよろしくお願いいたします。それでは、一日早いですが、良いお年をお迎えください(;^ω^)

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【刮目天の古代史】今年の大発見(その1)!

2024-12-29 17:58:45 | 古代史

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#今年も残すところあとわずかになりました。

この一年、皆様の励ましのおかげでいろいろと古代史の謎が分かってきました。

心より、御礼申し上げます。

それでは早速、今年の大発見(その1)を発表します。2024-02-20 03:10:35 に掲載しました以下の記事です。

赤坂今井墳丘墓の被葬者は?(^_-)-☆


丹後半島は古代史の謎がたくさん詰まった場所です。簡単に説明します。

紀元前108年に前漢の武帝が半島に漢四郡を置き、楽浪郡などの華僑が東夷と積極的に交易を開始したので、弥生時代の中期後葉から縄文海人ムナカタ族が丹後半島の集落(途中ヶ丘遺跡など)で勾玉などを作って、直接、楽浪郡や半島南部、交易の中継点の壱岐市原ノ辻遺跡などで交易していたようです。糸魚川のヒスイで勾玉を作るだけでなく、管玉の素材の碧玉やガラス素材も華僑から手に入れて作った玉類は人気の商品になっていたようです。

奴国王はそれに目を付けて王族を伊都国に置いて、壱岐原ノ辻遺跡での交易を管理するようになりました。真番郡が廃止になると、原ノ辻遺跡に交易のために来ていた華僑を伊都国の王宮三雲遺跡の番上地区に呼び寄せて、ムナカタ族には奴国の交易センター(福岡市比恵・那珂遺跡群)に持ってくるように命じ、列島の珍しい産品を華僑から注文を取って奴国で仕入れて利ザヤを稼いでいたと推理しています。

後漢光武帝は倭国をシルクロードの最東端として重視し、西暦57年に奴国16代王沫名杵尊(あわなぎのみこと)に朝貢させて金印を授けて華僑の取引を保護させました。さらに交易で儲けるために奴国王は王子伊弉諾尊(いざなぎのみこと、十七代王)と山陰地方の最大集落妻木晩田遺跡を拠点とするムナカタ族の有力者アタカタスミの娘イザナミとの政略結婚をさせ、王族レベルでの最初の混血が行われました。

誕生したスサノヲ(十八代王)は成人になると母方のムナカタ族の支配地の丹後半島の玉造集落を整備し(京丹後市奈具岡遺跡)、勾玉などを持って辰韓の製鉄現場(慶州市隍城洞遺跡)に出かけました。鉄素材を奴国に供給させるようにして、列島内で鉄の独占を図りました。三国史記の新羅第四代王脱解王のモデルになったと推理しています(詳細は「新羅の脱解王が奴国大王?」参照)。

スサノヲは奴国王になっても王宮(須玖岡本遺跡)を留守することが多く、ムナカタ族と生活を共にし、銅鐸祭祀を豊岡市気比などで行ったようです。そしてたまに王宮に帰還すると宮廷楽師らに銅鐸祭祀を伝統的な奴国の宮廷祭祀に取り入れるように命じたのだと推理しています。そのために楽師らは反乱を起こし、スサノヲを捕らえて奴国王に成りすますために拷問して金印の在りかを聞き出そうとしたようです。しかし、いち早くスサノヲの部下のアズミ族が金印を持って逃亡し、途中、志賀島に寄って土の中に隠したので、スサノヲは殺されたのでしょう。師升らは107年に後漢安帝にスサノヲの部下ら160人も奴隷として献上し、倭国王に認められた模様です。

弟ニギハヤヒと王子イタケルらは師升らの反乱を逃れて出雲に落ち着きます。ニギハヤヒは吉備の裏切り者を討って、瀬戸内海航路を抑えて、吉備の王都(倉敷市上東遺跡)で隆盛になり、奴国を再興しました。ニギハヤヒ大王は亡くなると楯築王墓に葬られたと推理しています。後にその子孫が纏向遺跡に遷都して、ヤマト王権を成立させました。

出雲王イタケルが亡くなると、八束命(出雲国風土記の国引き神話の神八束水臣津野命の略称、記紀のニニギノミコトのモデル)が出雲市西谷で大型四隅突出型墳丘墓を作り、吉備の奴国王や山陰・北陸や対馬などの有力者を呼んで王位継承の儀礼を行いました。各地の首長クラスがこの首長継承儀礼を採用したので、従来から行われていた祖霊・穀霊の銅鐸祭祀は衰退し、これが古墳時代に引き継がれて行ったと考えています。

八束命は日本海沿岸部に割拠しているムナカタ海人族を束ねる王(豊岡市久久比神社祭神久久遅彦、王の襲名)となって、祖父を殺した倭国王に復讐するために、大分県大野川流域から阿蘇山麓にかけて鉄製武器製造の鍛冶集落群を整備しました(詳細は「国引き神話は史実だった?(その1)(その5)西谷墳墓群の被葬者は?」・「消された出雲・丹後王国の謎!(その1)」参照)。

八束命が亡くなると日高彦(記紀のホホデミ)が西谷九号墓に八束命を葬り、スサノヲの故地の豊後半島に王宮(豊岡市竹野町竹野)を遷しました。

後漢王朝が衰退し、半島支配が緩んで韓人・濊人などが暴れたので倭国も楽浪郡との交易が途絶え、衰退気味になりました。日高彦は菊池川流域に前線基地(方保田東原遺跡、うてな遺跡)を築き、山陰や畿内の兵士を呼び寄せて倭国の領域(佐賀平野・筑後平野など)を頻繁に襲撃しました。

倭国を滅亡寸前まで追い詰めましたが、204年に公孫氏が半島を平定し、帯方郡を設置したので倭国は息を吹き返しました。急襲されて油断していた日高彦が討たれたと推理しました。後継者の高野御子(後の大国主)はまだ幼少だったので、ムナカタ族の有力者赤坂比古(和邇氏の祖、卑弥呼の父)が遺骸を居城(京丹後市峰山町赤坂)まで運び葬ったと推理しました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」・「消された出雲・丹後王国の謎!(その2)」参照)。

大活躍していた王を喪い途方に暮れていた赤坂比古が倭国王難升米(なしょめ、師升王の後継者の意味)に懐柔されて、九州・中国西部、四国のムナカタ族が赤坂比古の傘下になったので倭国はたちまち隆盛になりました。卑弥呼(記紀の宗像三女神市杵島姫)はムナカタ族の姫巫女です。赤坂比古は宮室で太陽神の神託を聞いて、部下たちに神託を伝えるシャーマン王と推理しています(詳細は「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?(^_-)-☆」参照)。


 

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伊勢神宮の怪ってか?(;^ω^)

2024-12-28 13:14:06 | 古代史

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伊勢神宮の怪 Sakaki@YouTube

多くのみなさんは記紀神話が江戸時代にできたと聞いたら信用しないかもしれませんが、本当ですよ。それまでの日本神話は日本書紀が作った神話が神仏習合、修験道や道教などの影響で、記紀神話とは全く異なるナーガ(龍蛇神)信仰の中世日本紀というものに変貌していたのです(斎藤英喜「読み替えられた日本神話」講談社現代新書)。

現存する最古の歴史書「古事記」は、9世紀に突然表に出てきたもので、正史に記録はないですし、日本書紀が参照した痕跡もないのです。

日本書紀は天武天皇が編纂を命じたのですが、完成したのは崩御34年後なのです。当時の権力者は藤原不比等でした。不比等にとって都合の悪い建国時代の史実を神話を創って誤魔化し、人代の歴史も相当改ざんされていることが事実、つまり考古学や民俗学などの成果から判明しました。

古事記は日本書紀によって隠された史実をそれとなく暴露する暗号書だったのです。暗号を解けば古代史の真相が現れてきました。詳しくは「刮目天の古代史 記紀に基づく想像は古代妄想だった?(;´Д`)」をご参照ください。

日本の建国過程から卑弥呼の正体も推理できました。仮説は事実で検証していますよ(#^.^#)

そうそう、伊勢神宮のことですが、創建は文武天皇の時代ですよ。天皇で行幸したのは持統天皇とされた鵜野讃良だけで、明治になるまで天皇はどなたも行幸していません。江戸時代までは天照大神はヘビだという噂ですから(詳細は「伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)(その2)」・「アマテラス大神はヘビだった?」などをご参照ください。

お邪魔しました(;^ω^)。


斎王(さいおう)とは、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えた未婚の皇族女性です。飛鳥時代から南北朝時代にかけて約660年間にわたって斎王制度が続き、60人以上の斎王が存在しました。
 
斎王の主な役割は、年に3回、10月の神嘗祭と6月と12月の月次祭の時にお詣りすることでした。また、斎王は神に仕える身ゆえに恋をすることも許されず、伝説には己の命を絶って身の潔白を証明した斎王や、恋ゆえに斎王を解任されたり、恋人と引き裂かれたりした斎王もいます。
 
斎王は王朝文学に登場し、そのモデルとされることがしばしばでした。平安時代後期の良子内親王ややす子内親王、徽子女王、規子内親王など、多くの斎王が王朝文学に登場しています。特に、光源氏を慕う六条御息所は、琴の名手で歌才に秀でた徽子女王がモデルになったといわれています。

Google検索「斎王」のAIによる概要より

実は斎王は伊勢神宮の斎宮と加茂神社の斎院の2カ所があり、位の高い内親王などは加茂神社に奉仕しています。斎王の役割は「神の妻」なのですから神は男神です。江戸時代には荻生徂徠山片蟠桃などを筆頭にかなりの人がそう考えていましたし、明治以降も津田左右吉、松前健などは男神説をとっています。正体は大国主です。外宮は女王台与です。猿田彦とアメノウズメは日本書紀が創作した二人の分身ですよ(詳細は「「神」はサルタヒコを示す暗号文字だった?!」など参照)-☆

 

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「倭の五王」は九州王朝の大王ではなかった!(;^ω^)

2024-12-26 09:39:52 | 古代史

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九州王朝説(きゅうしゅうおうちょうせつ)は、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府(だざいふ)がその首都であったとする説であるwiki「九州王朝説」より)。戦前から学者の間でも主張されていましたが、古田武彦「失われた九州王朝」(朝日文庫 1993)が大人気となり、学者・アマチュアによってこれに派生する様々な仮説が登場しました。しかし、学会で論争となり、安本美典「虚妄の九州王朝」(梓書院 1995)などによって九州王朝説が批判され、現在では古田氏の説を継承する「古田史学の会」などで研究活動が続けられています。この会の事務局長正木裕氏が以下の動画で文献や考古学資料をもとに「倭の五王」が北部九州の大王と主張されていましたので、いつものように不躾なコメントをしました。よろしければまたお付き合いください(#^.^#)

本当の「倭の5王」 -- 不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル古代ミステリー 正木裕講演@YouTube

とても参考になるいいご講演を有難うございます。

現存する最古の正史「日本書紀」は天皇の歴史書ではなく、藤原不比等が不都合な史実を隠すために捏造した勝者の歴史書だということが分かりました。現存する最古の歴史書の古事記は、9世紀の学者が日本書紀の勉強会で突然表に出してきたもので、正史に記録はありませんし、日本書紀が古事記を参照した痕跡もないのです。基本的に日本書紀に添って日本書紀とは異なる話を入れることにより隠された史実をそれとなく暴露する目的の暗号書だったと分かりました。

この暗号を解くと、高天原に最初に降り立った天御中主神は宋史王年代紀の初代奴国王天御中主で、狗邪韓国(任那)から福岡市吉武高木遺跡に遷都した呉の王族だったということが分かります。つまり日本は古の倭の奴国でした(詳細は「王年代紀は記紀神話を正した!」「「記紀は天皇の歴史書」が古代妄想?」参照)。

スサノヲが高天原を追放される時に、八百万の神々から拷問を受けて、全財産を取り上げられて追放された話を古事記が書いていますが、史実は107年に後漢安帝に160人の生口を献上した倭国王帥升(正しくは、奴国宮廷楽師の師升)が反乱を起こし、金印の在りかを白状させるために十八代奴国王スサノヲを拷問したと分かりました。これによって倭国大乱の原因も判明し、考古学の成果から卑弥呼の正体まで推理できました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。また、三世紀後半の日本建国の戦いの痕跡も考古学の成果から分かり、日本書紀が崇神天皇の四道将軍から応神天皇即位までの約350年の話に引き延ばして創作したことも判明しました(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。

地図をクリックするとGoogle Mapに飛びますのでお楽しみください(#^.^#))

さらに古事記の崩年干支から空白の150年に隠された二人の天皇と倭の五王の正体も分かりましたし(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その2)(その3)」参照)、アメノタリシヒコが二人いたことも、天武天皇と兄弟にされた天智天皇の系譜も古事記から推理できました(詳細は「【刮目天の古代史】天智天皇の謎?」参照)。不比等が隠したかったことを推理すると古代史の真相が分かってきました。

 

ということで、スサノヲ・大国主の子孫の応神天皇系ヤマトの大王と、吉備・北部九州を拠点としたニギハヤヒ大王を祖とする狗奴国(旧奴国)王の勢力との権力争いが四世紀から七世紀まで続いたので、九州にあたかも別の王朝があったように見えたと考えられます。詳しくは刮目天の古代史をご参照ください。お邪魔しました。


(左クリックで拡大)

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消された皇祖神ニギハヤヒはスサノヲの弟?!(^_-)-☆

2024-12-24 19:32:05 | 古代史

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【ゆっくり解説】おとぎ話で語れない恐ろしい末路!吉備・温羅伝説の謎!!

にっぽんぽん【ゆっくり日本史解説】@YouTube

いい話題を有難うございます。これは日本書紀で吉備津彦とされた一般には物部氏の祖神ニギハヤヒの吉備平定の史実を誤魔化した話ですよ。

日本書紀は天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと騙されていますが、崩御して34年後に藤原不比等によって完成させられた勝者藤原氏のための歴史書でした。

平安時代の貞観年間の前あたりから地殻変動や火山活動が活発になって地震や津波や噴火が頻発し、世の中が乱れたので、備中国一宮吉備津神社の吉備津彦には特別な神階が与えられていることから、天智天皇の孫光仁天皇から今上天皇までの歴代天皇の祖神だったと分かったのです。

ニギハヤヒ大王は吉備で奴国を再興して、ヤマト王権の基礎を築いた人物です。楯築王墓に葬られています。楯築神社のご神体の亀石というヘビを象った弧帯文石に人の顔が彫られていますが、奴(ナーガ・龍蛇神)国王ニギハヤヒ大王の顔ですよ(^_-)-☆

この人面蛇体の神はシナの三皇神話の筆頭、人類の始祖神とされる天皇伏羲と同じなのですから、天皇のルーツだと分かりました(詳細は「【大発見!】天皇家のルーツの証拠!(*^▽^*)」。
 
話が長くなったので、つづきはブログ記事にしました。よろしければご参照ください(#^.^#)
 
何故吉備なのかですが、ニギハヤヒの兄が、宋史 王年代紀十八代奴国王スサノヲだったのです(詳細は「王年代紀は記紀神話を正した!」参照)。スサノヲは丹後半島で玉造工房を整備し、半島南部の鉄を仕入れて、奴国を隆盛にした大王でしたので王宮を留守にすることが多く、宮廷楽師らの反乱で殺されて、倭国を乗っ取られた史実があったのです。


古事記がこの史実を暴露していました。乱暴者の神スサノヲを八百万の神々が捕まえて拷問し、全財産を贖罪として奪って高天原を追放したと書かれています(注1)。
 
107年に後漢安帝に生口を献上した倭国王帥升の正体が奴国宮廷楽師の師升だということが文献から分かりました。江戸時代に発見された金印ですが、反乱を起こした師升が奴国王にすり替わるためにスサノヲを拷問して金印の在りかを聞き出そうとしたものだと分かります。ところが、いち早くスサノヲの部下が持って逃げる途中、志賀島によって埋めて隠したものだったのです。そのために捕らえたスサノヲの部下160人を奴隷として献上して倭国王に認められたということだったのです(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)」参照)。
 
この史実の発見は古代史の謎を解く最初の大きなカギだったのです(^_-)-☆
 
この師升らの反乱から弟ニギハヤヒと王子イタケルらは祖母イザナミの実家の縄文海人ムナカタ族の手助けで妻木晩田遺跡(むぎばんだいせき)に逃げました。イタケルは出雲を与えられて成長しましたが、ニギハヤヒは、父王イザナギ(十七代奴国王伊弉諾尊)に吉備を任されたかつての部下が旧奴国(狗奴国)を裏切って倭国の交易センター比恵・那珂遺跡群に出入りして交易で隆盛になっていたので、討伐したと推理しています。
 
出雲王イタケルの子八束命がムナカタ族を束ねる王となって、スサノヲの縁故で半島の鉄を仕入れて隆盛になり、倭国攻略の戦略で大分県大野川流域から阿蘇山麓に鉄製武器製造の鍛冶集落群を造りました。一方、後漢王朝の衰退で半島が混乱して倭国が衰退していたので、八束命の子日高彦(狗奴国の官狗古智卑狗、豊岡市久久比神社祭神の久久遅彦は王の襲名)が菊池川流域に前線基地を作り、倭国の佐賀平野・筑紫平野などを攻撃し、で倭国を滅亡寸前まで追い詰めました。倭国大乱です。ところが半島を平定した公孫氏が帯方郡を設置し、倭国王難升米は公孫氏の支援を受けて、油断していた菊池川の方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡などを襲撃して、油断していた日高彦を討った事件がありました。
 
これによって日高彦のナンバー・ツーのムナカタ族赤坂比古(和邇氏の祖)が狗奴国を裏切り、卑弥呼が登場します。赤坂比古と娘卑弥呼の居城が宇佐市安心院町宮ノ原(みやのはる)遺跡です。倭国大乱に二は海に面した不弥国(うみこく、宗像市田熊遺跡群)から要害堅固な山城に疎開していました。三女神社が卑弥呼の宮室とされた場所だと推理しています。
 
卑弥呼の死後に狗奴国の追討軍が倭国に到着しましたが、先代赤坂比古の後を継いだ卑弥呼の弟赤坂比古が卑弥呼の死を知って戦意喪失したので、倭国王難升米は金印を持って半島に逃亡した模様です。
 
無傷で倭国を手に入れた追討軍の大将の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、ニギハヤヒ大王の子孫、記紀のカグツチ)が狗奴国王を裏切って倭国王に立ったので、日高彦の後を継いでムナカタ族の王となって副将として参戦していた高野御子(記紀の武内宿禰)がそれに不服として、内戦が起こりました。高野御子に加勢した弟赤坂比古の活躍で尾張王を討って、高野御子が倭国を取り戻しました。丁度倭国に来ていた帯方郡使張政の進言で十三歳の台与(記紀の神功皇后のモデル)を外交上、卑弥呼の後の女王として魏を後ろ盾として、結局、狗奴国を裏切ってしまいます。高野御子は列島に散らばっていたムナカタ族を傘下にしたので、後世に大国主と呼ばれます。
 
大国主の倭国に押し潰されそうになった狗奴国は、腹いせに大国主傘下の無防備な集落青谷上寺地遺跡などを襲撃して、老人・女性や子供まで虐殺しています。そして父の仇討ちのために尾張王建稲種命(熱田神宮祭神、ヤマトタケルのモデル)が九州遠征し、苦難の末に大国主・赤坂比古そして台与を討ち、九州を参戦した狗奴国王の部下(物部氏の祖)に占領した北部九州の統治を任せて、纏向遺跡に凱旋します。卑弥弓呼大王から直ぐに、大国主傘下を平定する命をうけて東国遠征の途中で戦死します。尾張王のあとを継いだ尻綱根命が尾張勢を率いて、丹後半島や北陸道などを鎮撫し、狗奴国王(記紀の崇神天皇)が日本を統一します。
 
ところが、280年に呉が西晋によって滅ぼされ、シナが統一されましたので、西晋に朝貢していた倭国を討ったので仕返しを怖れて狗奴国は大混乱したようです。大国主・台与の祟りということで狗奴国王は大国主と台与の子ホムダワケを探し出して、大国主と台与の鎮魂のためにヤマトの祭祀王(応神天皇)に即位させて、箸墓で台与を、桜井茶臼山古墳で大国主を改葬しました。つまり、西晋の追討を逃れるために、狗奴国を邪馬台国の後継国として、狗奴国の王都(纏向遺跡)をヤマトと呼ぶことにしたと推理しました。なお、仲哀天皇が応神天皇の父というのは誤魔化しですよ(詳細は「仲哀天皇の謎?( ^)o(^ )」参照)。
 
以上がヤマト王権成立の仮説の概略です(文末の図参照)
 
日本書紀では尾張王建稲種命の仇討ちを景行天皇の九州遠征の話として誤魔化していますが(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)」参照)、民話の猿カニ合戦はこの史実から作られたものです(詳細は「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」「抹殺された尾張氏の謎(その1)(その2)抹殺された尾張氏の謎(その3)尾張と言えばカニだ~わ!」参照)。また、崇神天皇紀の四道将軍、日本武尊の東海遠征や仲哀天皇の熊襲征伐、神功皇后による応神天皇の即位までの約350年の話を創って、三世紀後半の日本建国の史実を誤魔化したということが考古学や民俗学などの成果から判明しました(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。
 
712年に完成されたとされる現存する最古の歴史書「古事記」は、九世紀の日本書紀の勉強会で突然表に出されたものなのです。正史に古事記の記録はなく、日本書紀で参照した痕跡も見当たりません。日本書紀が隠した史実をそれとなく暴露する暗号書だったのです(詳細は「「記紀は天皇の歴史書」が古代妄想?」参照)。
 
最初の暗号は高天原に最初に降り立ったのが天御中主神としています。紀元前4世紀初頭の福岡市吉武高木遺跡で日本最初の王墓群が発見されています。初代奴国王天御中主、二代王天村雲尊、三代王天八重雲尊と王妃や王族の墓がありました。天村雲尊の木から三種の神器が揃って見つかっています。四代王天爾聞尊(あめのににぎのみこと)の墓は春日市須玖岡本遺跡の最古の王墓だと推理しています。祖父から王権の印(レガリヤ)として後に草薙剣とされた天叢雲剣を与えられて福岡平野を平定した史実から、日本書紀の天孫降臨神話が創作されたのですよ(詳細は、「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。(2024.12.25 赤字訂正)
 
初代奴国王の天御中主の名前は、ナーガ(龍蛇神)を信奉する倭人の王という意味なのです。紀元前473年に滅んだ呉の王族が半島南部の倭人に助けられて逃げ、恐らく寒冷化による治安の悪化の影響で九州に遷都したのでした。ここから日本の歴史が始まったわけですが、日本人の本当の神話は、上で述べたように中国(なかつくに)の三皇神話だったのです(詳細は「中国神話は日本人の神話だった?」参照)。
 
初代奴国王天御中主の子孫のニギハヤヒ大王は宋史 王年代紀の十九代奴国王天照大神尊、先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日命だったのです。神武東征神話ではヤマトに先に降り立っていた天孫で、逆らう義理の兄のナガスネヒコを斬って神武天皇が即位する話は、ニギハヤヒの子孫が大国主(トビ・トミで蛇神)を討って初代ヤマトの祭祀王が即位した史実から創作しています。古事記はナガスネヒコが大国主(トビヒコ)と暴露しています。大国主の国譲り神話も、高天原から送り込まれた神タケミカズチとフツヌシはそれぞれ尾張王建稲種命と狗奴国王の部下(物部氏の祖)のことなのです(詳細は「国譲り神話は都合の悪い史実を隠すためだった!」参照)。
 
これで記紀神話の正体がお分かり頂いたと思います(^_-)-☆
 
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於是八百萬神共議而、於速須佐之男命、負千位置戸、亦切鬚及手足爪令拔而、神夜良比夜良比岐その後、八百万の神々一同は相談して、須佐之男すさのおにたくさんの贖罪の品物を科した。また、髭と手足の爪とを切ってはらえをし、高天原たかまのはらから追放してしまった。)」(「古事記」上巻、訳は 「古事記・現代語訳「上巻」天照大御神と須佐之男命より引用)
 
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