刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

古事記が教える「スサノヲと倭王帥升」の史実?!(^_-)-☆

2024-12-02 10:27:59 | 古代史

いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )

倭国王帥升のことだと思いますが、ご存じのとおり後漢書の原本が散逸していますので、原本を引いた文献から倭面土国王帥升が正しいようなのです。しかし、魏志倭人伝の記事から、倭国の中で王が居たのは伊都国男王だけですので、白鳥庫吉は面は回の俗字の囬の誤写と考えて、倭の囬土(ウィト)国王が正しいとしています。
 
師姓は「風俗通義」によれば周代以前から宮廷祭祀の楽師に与えた官位だそうですので、50年前に後漢光武帝から金印を賜った奴国の宮廷楽師だったと分かります。
 
つまり、奴国の楽師師升らが反乱を起こして倭国を奪い、王都を伊都国に遷したということが分かります。その物証は延光四年(125年)と記された黄銅製の室見川銘板です。内容が祭祀にこだわったものですので師升王が作らせた日本最古の金石文だと分かりました(詳細は「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」参照)。

 
そして、師升らの反乱で殺された奴国王が「古事記」から分かりました。
 
宋史王年代紀18代王素戔嗚尊が高天原神話の乱暴者の神スサノヲでした。八百万の神々がスサノヲを捕らえて拷問し、財産を奪ったことが書かれていました(注)。
 
師升は奴国王に成りすますために金印を手に入れようとスサノヲを拷問したのですが、いち早くスサノヲの部下のアズミ族が持って逃げ、途中で志賀島によって土の中に埋めたのです。それが江戸時代の百姓によってたまたま掘り出されたということです。
 
師升らは代わりに160名もの生口を献上して王に認められたわけです。
 
この史実は日本書紀の編纂者も分かっていたことが仲哀天皇四年に博多の奴国を儺縣としていることから判明しました。スサノヲの史実は平安時代にも知られており、疫病神の元締めとされ祇園御霊会や熊野信仰になっていることから分かります。
 
記紀が天皇の歴史書だという洗脳から覚めると古代史が分かってきますよ。詳細は「「記紀は天皇の歴史書」が古代妄想?(;^ω^)」をご参照ください。どうもお邪魔しました(#^.^#) 
 
(注)「於是八百萬神共議而、於速須佐之男命、負千位置戸、亦切鬚及手足爪令拔而、神夜良比夜良比岐その後、八百万の神々一同は相談して、須佐之男すさのおにたくさんの贖罪の品物を科した。また、髭と手足の爪とを切ってはらえをし、高天原たかまのはらから追放してしまった。)」(「古事記」上巻、訳は 「古事記・現代語訳「上巻」天照大御神と須佐之男命より引用)
***********************************************
 
@katumoku10
YOさん、こんばんは!
光武帝から金印を賜った王は、奴国16代王沫名杵尊(あわなぎのみこと)だと、宋史王年代紀から分かりますよ。17代王伊弉諾尊の父です。
 
この中で23代王彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)の四男が大和州橿原宮に遷都したとあります。
 
しかしこれは史実ではなく、彦瀲尊は大国主高野御子のことで、神武天皇は初代ヤマトの祭祀王の応神天皇の史実を誤魔化すために創作した初代天皇だと突き止めています。詳細は「王年代紀は記紀神話を正した!」をご参照ください(#^.^#)
 
【関連記事】

伊都国が鬼払いの発祥地か?(^_-)-☆

【驚き!】徐福が日本史を変えた!(@_@)

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )


邪馬台国は考古学・民俗学の成果から分かる!(#^.^#)

2024-12-01 15:55:02 | 古代史

いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )

【睡眠用】邪馬台国は見つからない...!!!【ゆっくり解説 】
古代史ヤバイ【ゆっくり解説】@YouTube

卑弥呼の正体の前に倭国大乱について言及するのは絶対必要です。これは考古学の成果で議論すべきです。二世紀後半の日本列島の中で倭国大乱の痕跡が見つかっています。

鉄鏃と銅鏃の出土状況を調べると、弓矢での集団戦の痕跡が分かります。環濠集落の溝などで矢じりが出土すれば、敵集団が集落を攻めたと分かります。まさか味方が自分の集落に弓を向けるはずないですから。

それを日本全国で調べた結果、戦跡が見られたのは、北部九州の吉野ヶ里遺跡などかなりの数の集落と熊本県菊池川沿岸の二つの集落(方保田東原遺跡・うてな遺跡)だけだったのです。つまり、北部九州の倭国と菊池川沿岸の勢力の戦争だったと分かります。

菊池は狗奴国の官狗古智卑狗の名前からとった地名だということで通説では菊池彦と言ってますが、方保田東原遺跡からは山陰や畿内の土器が見つかっていますので、菊池の集落は狗奴国の前線基地だと分かります。

そして、大分県大野川流域から阿蘇山麓にかけて鉄鏃が住居跡から大量に見つかっていますし、鉄製の武器の素材となる板状鉄斧が大量に見つかっています。これらは半島南部の鉄素材が運ばれて鉄製武器を菊池の前線基地に供給するコンビナートと考えられます。

ですから、狗古智卑狗は玄界灘沿岸部や山陰地方などのムナカタ海人族を束ねる王だったと推理できます(豊岡市久久比神社祭神の久々遅彦、スサノヲの子孫の出雲・丹後国王と推理)。また、狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコの誤り)は畿内の纏向遺跡を王都としていたと考えられます(実際は吉備から河内に拠点を移したニギハヤヒ大王の子孫で旧奴国王族)と推理しています(詳細は拙ブログ「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」をご参照ください(#^.^#)。

そして、福岡市や糸島市のいくつかの集落で銅鏃が住居跡から出土しており、倭国は半島が混乱していたので公孫氏との交易ができないので鉄不足になって青銅器を溶かして矢じりを作っていたと推理できます。

それらの銅鏃が菊池の二つの集落の環濠から発見されているのです。倭国の勢力が狗奴国の前線基地を襲撃したことを意味します。それまでは圧倒的に優勢だった久々遅彦の部隊が襲われたということです。

これは状況が大きく変化したことを意味します。204年に公孫氏が半島を平定し帯方郡を設置していますので、それまで劣勢だった倭国王(伊都国男王難升米)は早速、帯方郡に支援を求めて息を吹き返したと推理できます。

さらに、それによって戦争が終結し卑弥呼が登場することになるのですから、さらに何らかの大きな事件があったと分かります。

倭国軍の急襲によって久々遅彦が戦死したと推理しました(詳細は「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)(その3)狗古智卑狗の霊ライン?」参照)。倭国大乱の英雄が亡くなって前線の部隊は壊滅し、途方に暮れた玄界灘の海運を支配していたナンバーツー赤坂比古(和邇氏の祖、天理市和邇坐赤阪比古神社で宗像女神市杵島姫命が祭神として祀られている)が倭国王難升米に懐柔されて、狗奴国を裏切ったと推理しました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

赤坂比古は縄文海人ムナカタ族の姫巫女が密室で発する太陽神の神託を解釈して部下や民に伝えるイセと呼ばれるシャーマン王なのです。唐古・鍵遺跡の線刻絵画土器に巫(かんなぎ、はふり)と巫女(はふりめ)の様子が描かれています(詳細は「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?(^_-)-☆」・「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」参照)。



 

つまり卑弥呼の正体は市杵島姫と呼ばれた宗像女神だったと推理しました。卑弥呼は不弥国(うみこく、宗像市田熊遺跡群)で生まれましたが、戦乱になって海に近い不弥国は物騒なので、宇佐市安心院町三柱山台地の要害堅固な居城宮ノ原遺跡に疎開していたと考えられます。宮室が三女神社です。日本書紀に宗像三女神が降臨した場所のひとつが葦原中ツ国の宇佐嶋とあり、宇佐市安心院町は和名抄の宇佐郡野麻郷に比定された土地で、院(女王)が疎開して安心したということが安心院の地名の由来だと考えています。つまり、邪馬台国はヤマコクを居城とする台(女王)の国という意味だったと分かります。長官は宇佐神宮を中心とする大規模集落に居て、卑弥呼を護る兵士は集落の規模から二百人程度で奴婢が百人くらいだと推理しています。魏志倭人伝にある径百余歩の冢(急造りの円形墳墓)「三柱山古墳」を発見しています(詳細は「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」参照)。

そして赤坂比古の傘下となった国々は倭国だった北部九州の国々以外の九州全土と中国西部、四国西部ですが、公孫氏が後ろ盾になり半島南部の鉄も仕入れて、交易で隆盛になったので、四国東部や和歌山まで狗奴国を裏切って倭国側についたことが、纏向遺跡の外来土器の変化から分かりました。つまり、狗奴国王は突然劣勢に立たされて、吉備では危険なので西側の防御として生駒山系のある纏向遺跡に遷都し、旧奴国の勢力を結集して巻き返しを図ろうという戦略だったと考えられます(詳細は「【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆」参照)。

この先の日本建国の話がありますが、長くなったので拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。お邪魔しました(#^.^#)



【関連記事】

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)




通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )