ハーパーBooks『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い』
「ナチスによる大量虐殺はなかった」 そう主張する、イギリス人歴史家アーヴィング。 彼を“史実を歪曲したホロコースト否定者”と断じたユダヤ人歴史学者リップシュタットは、反対に名誉毀損で訴えられる。 裁判に勝つには、ホロコーストが事実だと法廷で証明するしかない。 だが予想に反し、アーヴィングの主張は世間の関心を集めていく―。 実際にあった世紀の法廷闘争の回顧録。 映画原作!
*ハーパーコリンズ オフィシャルサイト:『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い』
→http://www.harpercollins.co.jp/hc/books/detail.php?product_id=11173
ホロコーストの有無を争う裁判。
リアルでニュースになってたのを、うっすらとではありますが憶えてます。
いやいや、いくら何でも「無かった」は無いだろう、と思っていましたが、
正直に言えば、ま、どうぞやっててください、くらいの感覚でした。
でもやはり、アチラでは違うんでしょうね。
映画にもなりました。
で、つい(DVD)観ちゃいました。
1994年、アメリカのジョージア州アトランタにあるエモリー大学でユダヤ人女性の歴史学者デボラ・E・リップシュタット(レイチェル・ワイズ)の講演が行われていた。彼女は自著「ホロコーストの真実」でイギリスの歴史家デイヴィッド・アーヴィングが訴える大量虐殺はなかったとする“ホロコースト否定論”の主張を看過できず、真っ向から否定していた。
アーヴィングはその講演に突如乗り込み彼女を攻め立て、その後名誉毀損で提訴という行動に出る。異例の法廷対決を行うことになり、訴えられた側に立証責任がある英国の司法制度の中でリップシュタットは〝ホロコースト否定論“を崩す必要があった。彼女のために、英国人による大弁護団が組織され、アウシュビッツの現地調査に繰り出すなど、歴史の真実の追求が始まった。
そして2000年1月、多くのマスコミが注目する中、王立裁判所で裁判が始まる。このかつてない歴史的裁判の行方は…
*映画『否定と肯定』公式サイト
→http://hitei-koutei.com/
この映画、英国BBC制作だからなのか、
ハリウッド流のガチな主張のぶつかり合いではなく、
法定ドラマとしては、ちょっとした変化球。
事実としてもそうだったようですが、
被告となった米国人教授は、裁判では一言も喋らないままなんです。
原告側の思惑にのせられないよう、
弁護団がチームとしてそういう戦術をとりました。
元来、主張を貫くことを良しとしてきた主人公の、
それなのに口を封じられる苦悩などは、ちょっとした見どころだと思います。
被告側勝訴というのは「歴史的事実」でもあるし、
映画を楽しむのに支障はないと思いますが、以下、少々ネタバレします。
ますは判決文。
本官には 以下の推論が
穏当で納得のいくものである
すなわち
原告は自らの思想信条のため
意図的に史実を偽造し
歴史的証拠の歪曲や
改竄まで行った上で
事実として提示したのである
故に 正義を養護する
当法廷としては―
被告に有利な判決を
下すものとする
いやあ、我が国の、あの人やその人の、あるいは、あの新聞やその雑誌のこと思わずにはいられませんね。
お次は、判決後の記者会見で、ようやく喋ることをゆるされた主人公です。
彼の自由を阻む判決です
表現の自由を
妨げる判決と言う人も
そうではない
私が闘ったのは―
悪用する者から
その自由を守るためです
何でも述べる自由は
あっても―
ウソと説明責任の放棄だけは
許されないのです
意見は多種多様ですが―
否定できない事柄が
あるのです
こちらもやはり、あの人やその人の、あるいは、あの新聞やその雑誌の・・・以下略で。
それにしても、
英国では「訴えられた側に立証責任がある」というのは、
今でもそうなんですかね。
何か、あの人(っていうか、この人だけは名指ししちゃうけど枝野君)お得意のセリフみたいで困ってしまいます。
ただ、この裁判での被告は「無」でなく「有の証明」をすれば良い、という点が違いますけどね。
あと、ワタクシ的に面白いなと思ったところ。
裁判初日、
判事入廷の際に英国人スタッフに「お辞儀をして」と耳打ちされた主人公は、
「(私は)アメリカ人よ お辞儀はしないわ」なんて言い放つんですが、
判決日には、皆とともにお辞儀をするようになってまして。
「チーム」の一員になったという意味でもあるのでしょうけど、
ああ、英国の映画だなあ、と。
ということで、映画『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い』、
直球ばかりじゃ飽きちゃうよ、という方にオススメです。
『否定と肯定』12月8日(金)TOHOシネマズ シャンテ他全国ロードショー
・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・
おまけ。
以下、映画の脚本を書いたデイヴィッド・ヘアによる原作本の「まえがき」から。
インターネットのこの時代、誰もが自分の意見を述べる権利を持っていると主張するのは、一見したところ、民主的なことのように思われる。確かにそうだ。しかしながら、すべての意見に同等の価値があると主張するのは致命的な過ちだ。事実に裏打ちされた意見もあれば、そうでない意見もある。そして、事実の裏打ちがない意見ははるかに価値が低いと言っていい。〜〜〜言論の自由には、故意に偽りを述べる自由が含まれているかもしれないが、同時に、その偽りを暴く自由も含まれている。
わたしたちはいま、“ポスト真実(トゥルース)”の時代を迎えつつある。政治の世界ではとくにそうだ。そこでは、公人がなんの根拠もないことを主張し、そのあとで「まあ、これはわたしの意見だが」とつけくわえることで主張を正当化することが許されているらしい。まるで、その言葉が免罪符となるかのように。それは違う。そんなペテン師連中は、免罪符にはならないということを肝に銘じるべきだ。リップシュタット/アーヴィングの裁判についてじっくり考えれば、そのゴールに到達する一助となるかもしれない。
ふふっ、あの人やその人の、あるいは、あの新聞やその雑誌の・・・
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