2月11日は紀元節、4月3日は神武天皇祭とて、日の丸の旗をたてゝ、毎年祝ふことは、汝等の知る所なるべし。さて、紀元節とは如何なる日ぞ、神武天皇祭とは如何なるわけぞ、汝等之を知りたるか。
紀元節とは、神武天皇の始めて御位に即かせ給ひし日なり、神武天皇祭とは、神武天皇の崩ぜさせ給ひし日なり。神武天皇と申すは、我が天皇陛下の御先祖にましまして、今日吾等がつかへたてまつる天皇陛下は、それより122代の御子孫に當たらせたまふなり。
昔、たまたま手に入れた、
山縣悌三郎著『帝國小史 甲号 巻之一』
(文部省検定済小学校教科用書 明治26年)
の「第二 神武天皇」は、このように語り始めてます。
上記に続いて「東征」の挿話を織り込み、
最後に、
わるもの盡く平らぎしかば、天皇は、橿原の宮にて天皇の御位に即かせ給へり、之を我が國の紀元とす。其日は、2月の11日に當たれば、今に至るまで、之を紀元節として祝ふなり。かくて御在位76年にして、橿原の宮にかくれさせたまひき。御陵は、大和の畝傍山のふもとにあり。
と結んでいます。
明治の子供達は、
神武天皇と紀元節を、
教科書で(!)習っていたんですねえ。
長ずれば、
日本書紀にある、以下の大詔も習ったことでしょう。
「我東を征ちしより、茲に六年になりにたり。頼るに皇天の威を以てして、凶徒就戮されぬ。辺の土末だ清らず、余の妖尚梗れたりと雖も、中洲之地、復風塵無し。誠に皇都を恢き廓めて、大壯を規り慕るべし。而るを今運屯蒙に属ひて、民の心素朴なり。巣に棲み穴に住みて、習俗惟常となりたり。夫れ大人制を立てて、義必ず時に随ふ。苟くも民に利有らば、何ぞ聖の造に妨はむ。且当に山林を披き払ひ、宮室を経営りて、恭みて宝位に臨みて、元元を鎮むベし。上は乾霊の国を授けたまひし徳に答へ、下は皇孫の正を養ひたまひし心を弘めむ。然して後に、六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇に為むこと、亦可からずや。観れば、夫の畝傍山の東南の橿原の地は、蓋し国の墺区か。治るべし」
(「東征についてから六年になつた。天神の勢威のお蔭で凶徒は殺された。だが周辺の地はまだ治まらない。残りのわざはひはなほ根強いが、内州の地は騒ぐものもない。皇都をひらきひろめて御殿を造らう。しかしいま世の中はまだ開けてゐないが、民の心は素直である。人々は巣に棲んだり穴に住んだりして、未開のならはしが変はらずにある。そもそも大人(聖人)が制を立てて、道理が正しく行はれる。人民の利益となるならば、どんなことでも聖の行ふわざとして間違ひはない。まさに山林を開き払ひ、宮室を造つて謹んで尊い位につき、人民を安んずべきである。上は天神の国をお授け下さつた御徳に答へ、下は皇孫の正義を育てられた心を弘めよう。その後、国中を一つにして都を開き、天の下を掩ひて一つの家とすることは、また良いことではないか。見れば、かの畝傍山の東南の橿原の地は、思ふに国の真中である。ここに都を造るべきである」)
(geocities:神武天皇即位建都の大詔、神武天皇即位建都の大詔(現代語訳)
→http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/2024/k4.html)
ところで、
神武天皇・紀元節とくれば、
豊橋市民として、
是非お伝えしなければならないことがありまして・・・
豊橋公園内、吉田城址「金柑丸」は、
池田輝政公改修前の本丸があったとされる郭です。
とすれば、幾多の攻防があったわけで、
そのせいか、何時行っても、何か異空間の匂いがします。
此処は「豊城神社」ということにもなってまして、
鳥居と手水場はちゃんとあるのですが、
本殿も拝殿もなく、
どういうわけか神武天皇像があります。
吉田城7不思議のひとつです(←嘘です)。
傍らに以下の銘板(写し)があります。
略記
このご銅像は、明治27年、8年の日清戦役後建てられた戦勝記念碑上に奉安した、神武天皇のお姿であります。
お装いは、いずれ故実に基いて古代武人を模したものでしょう。しかし、お顔だけは、よりどころのないため、かしこくも明治大帝をお写し申し上げ原型にしたと言い伝えられております。その均整のとれた気高い風格といい、おのずからなる威厳の拝せられるのは、明治時代の代表的芸術のこもった傑作といはねばなりますまい。ただ遺憾なことは作者名のさだかでない点でありまして、これはあるいは当時の、封建的思想に支配され、上にはばかるきびしさと重いおきてがしからしめたとも考えられます。
ご銅像ならびに記念碑は、かつて、歩兵第18連隊の管区でありました、三河・遠江・駿河・伊豆4か国の広い浄財によって建ち、民間のひたむきな愛国魂のこもった権化であり崇敬の対象でもあったのでした。けれどもさきの太平洋戦争の惨たる敗戦により、もとの八町練兵場から、ひそかにご安泰の場所に遷座のやむなきに立ち至った次第でございました。
その後18年、社会情勢は著しく変転し、かつては国をあげての観念も、また建国の意識も大きくくずれ去ろうとしており、それのみか麗しい敬神崇祖の伝統も淡いほうまつと消えようとする痛ましささえ感じさせられるのでございます。
ためにご銅像はこの渦にまかれ漂はされて、たまたまご再建の議は二三度提唱されたことはありましても、ついに実現の運びとならずに終わりました。今、吉田城・本丸出ぐるわの一角保食神金柑丸稲荷を祭った清地に、ささやかながら仮のご座所を設け、再び待望のご銅像をまのあたり仰ぎ奉ることのできましたのは、20年を振り返り無量の感いよいよ深く胸迫るのを覚えずにはいられません。以上、つつしんでそのいきさつを略記し、これを後世に伝えることにいたしました。
玉くしげ みずらに風の 吹きやまば
この国原は 安らけくあらじ
昭和40年11月23日
豊橋市民 丸地右城
これとは別に、
制作費用として宮内省から100円下賜、
東京美術学校教授岡崎雪声氏のもとで作成された、
とする資料もあります。
なんでも、
〈大東亜戦争後、進駐軍より破棄命令が出されましたが、吉田城の下に隠すなどして保管〉
していたんだそうです。
う〜ん、
人間到る処青山有り、物事到る処歴史有り、
とでも言いましょうか、
神武天皇は、
このようにして「実在」しているんですね。
ついで、と言っては何ですが、
この際ですから「紀元節の歌」を。
いろんなバージョンがありますが、
ハーモニーが美しいダークダックスで。
紀元節
・・・ ・・・ ・・・ ・・・
*冒頭画像は、『名画にみる 國史の歩み』(近代出版社)より
右頁:神武天皇の御東征 野田九浦 筆 九州から畿内への進出
左頁:神武天皇の御即位 町田曲江 筆 2月11日は紀元節
*左頁、添え書きは以下のとおり
大和(奈良)に拠点を定められた神武天皇は、畝傍山のふもと橿原の地に宮殿を造り、初めて天皇の御位に即かれた。その御名を「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とたたえ、また神日本良磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)とも称し、後世に漢風の御諡を奉って神武天皇と申し上げる。
『日本書紀』によれば、御即位は西暦紀元前660年にあたる辛酉の年の元日と伝えられている。この日、神武天皇は正殿に三種の神器を安置して、荘重に儀式を挙げられたという。この年を紀元の第1年と数えれば、平成12年(西暦2000年)は皇紀2660年にあたる。
ただし、御即位を辛酉の年とするのは、大陸から伝来した讖緯説(数理哲学)に基いて、推古天皇9年(601)辛酉から1260年さかのぼった辛酉年を、「大変革命」の年と定めたもので、実年代はそれより数百年後の西暦1世紀ごろ(弥生時代中期)と考える説が明治時代からある。
この御即位日を太陽暦に換算すると2月11日にあたる。そこで明治6年に、この日は紀元節(今日では建国記念の日)と定められ、国民みんなで「建国を偲び、国を愛する心を養う」祝日とされている。
天皇は御即位に先立ち、「・・・恭しみて宝位(たかみくら)に臨み、元元(おおみたから=国民)を慎しむべし。・・・然る後、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした=天下)を掩ひて宇(いえ)と為さんこと、またよからずや」と建国の理想を宣言されたと伝えられる。
奥は畝傍山。右は高床式の簡素な宮殿。この絵は高等小学国史上巻に挿絵として使われた。
紀元節とは、神武天皇の始めて御位に即かせ給ひし日なり、神武天皇祭とは、神武天皇の崩ぜさせ給ひし日なり。神武天皇と申すは、我が天皇陛下の御先祖にましまして、今日吾等がつかへたてまつる天皇陛下は、それより122代の御子孫に當たらせたまふなり。
昔、たまたま手に入れた、
山縣悌三郎著『帝國小史 甲号 巻之一』
(文部省検定済小学校教科用書 明治26年)
の「第二 神武天皇」は、このように語り始めてます。
上記に続いて「東征」の挿話を織り込み、
最後に、
わるもの盡く平らぎしかば、天皇は、橿原の宮にて天皇の御位に即かせ給へり、之を我が國の紀元とす。其日は、2月の11日に當たれば、今に至るまで、之を紀元節として祝ふなり。かくて御在位76年にして、橿原の宮にかくれさせたまひき。御陵は、大和の畝傍山のふもとにあり。
と結んでいます。
明治の子供達は、
神武天皇と紀元節を、
教科書で(!)習っていたんですねえ。
長ずれば、
日本書紀にある、以下の大詔も習ったことでしょう。
「我東を征ちしより、茲に六年になりにたり。頼るに皇天の威を以てして、凶徒就戮されぬ。辺の土末だ清らず、余の妖尚梗れたりと雖も、中洲之地、復風塵無し。誠に皇都を恢き廓めて、大壯を規り慕るべし。而るを今運屯蒙に属ひて、民の心素朴なり。巣に棲み穴に住みて、習俗惟常となりたり。夫れ大人制を立てて、義必ず時に随ふ。苟くも民に利有らば、何ぞ聖の造に妨はむ。且当に山林を披き払ひ、宮室を経営りて、恭みて宝位に臨みて、元元を鎮むベし。上は乾霊の国を授けたまひし徳に答へ、下は皇孫の正を養ひたまひし心を弘めむ。然して後に、六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇に為むこと、亦可からずや。観れば、夫の畝傍山の東南の橿原の地は、蓋し国の墺区か。治るべし」
(「東征についてから六年になつた。天神の勢威のお蔭で凶徒は殺された。だが周辺の地はまだ治まらない。残りのわざはひはなほ根強いが、内州の地は騒ぐものもない。皇都をひらきひろめて御殿を造らう。しかしいま世の中はまだ開けてゐないが、民の心は素直である。人々は巣に棲んだり穴に住んだりして、未開のならはしが変はらずにある。そもそも大人(聖人)が制を立てて、道理が正しく行はれる。人民の利益となるならば、どんなことでも聖の行ふわざとして間違ひはない。まさに山林を開き払ひ、宮室を造つて謹んで尊い位につき、人民を安んずべきである。上は天神の国をお授け下さつた御徳に答へ、下は皇孫の正義を育てられた心を弘めよう。その後、国中を一つにして都を開き、天の下を掩ひて一つの家とすることは、また良いことではないか。見れば、かの畝傍山の東南の橿原の地は、思ふに国の真中である。ここに都を造るべきである」)
(geocities:神武天皇即位建都の大詔、神武天皇即位建都の大詔(現代語訳)
→http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/2024/k4.html)
ところで、
神武天皇・紀元節とくれば、
豊橋市民として、
是非お伝えしなければならないことがありまして・・・
豊橋公園内、吉田城址「金柑丸」は、
池田輝政公改修前の本丸があったとされる郭です。
とすれば、幾多の攻防があったわけで、
そのせいか、何時行っても、何か異空間の匂いがします。
此処は「豊城神社」ということにもなってまして、
鳥居と手水場はちゃんとあるのですが、
本殿も拝殿もなく、
どういうわけか神武天皇像があります。
吉田城7不思議のひとつです(←嘘です)。
傍らに以下の銘板(写し)があります。
略記
このご銅像は、明治27年、8年の日清戦役後建てられた戦勝記念碑上に奉安した、神武天皇のお姿であります。
お装いは、いずれ故実に基いて古代武人を模したものでしょう。しかし、お顔だけは、よりどころのないため、かしこくも明治大帝をお写し申し上げ原型にしたと言い伝えられております。その均整のとれた気高い風格といい、おのずからなる威厳の拝せられるのは、明治時代の代表的芸術のこもった傑作といはねばなりますまい。ただ遺憾なことは作者名のさだかでない点でありまして、これはあるいは当時の、封建的思想に支配され、上にはばかるきびしさと重いおきてがしからしめたとも考えられます。
ご銅像ならびに記念碑は、かつて、歩兵第18連隊の管区でありました、三河・遠江・駿河・伊豆4か国の広い浄財によって建ち、民間のひたむきな愛国魂のこもった権化であり崇敬の対象でもあったのでした。けれどもさきの太平洋戦争の惨たる敗戦により、もとの八町練兵場から、ひそかにご安泰の場所に遷座のやむなきに立ち至った次第でございました。
その後18年、社会情勢は著しく変転し、かつては国をあげての観念も、また建国の意識も大きくくずれ去ろうとしており、それのみか麗しい敬神崇祖の伝統も淡いほうまつと消えようとする痛ましささえ感じさせられるのでございます。
ためにご銅像はこの渦にまかれ漂はされて、たまたまご再建の議は二三度提唱されたことはありましても、ついに実現の運びとならずに終わりました。今、吉田城・本丸出ぐるわの一角保食神金柑丸稲荷を祭った清地に、ささやかながら仮のご座所を設け、再び待望のご銅像をまのあたり仰ぎ奉ることのできましたのは、20年を振り返り無量の感いよいよ深く胸迫るのを覚えずにはいられません。以上、つつしんでそのいきさつを略記し、これを後世に伝えることにいたしました。
玉くしげ みずらに風の 吹きやまば
この国原は 安らけくあらじ
昭和40年11月23日
豊橋市民 丸地右城
これとは別に、
制作費用として宮内省から100円下賜、
東京美術学校教授岡崎雪声氏のもとで作成された、
とする資料もあります。
なんでも、
〈大東亜戦争後、進駐軍より破棄命令が出されましたが、吉田城の下に隠すなどして保管〉
していたんだそうです。
う〜ん、
人間到る処青山有り、物事到る処歴史有り、
とでも言いましょうか、
神武天皇は、
このようにして「実在」しているんですね。
ついで、と言っては何ですが、
この際ですから「紀元節の歌」を。
いろんなバージョンがありますが、
ハーモニーが美しいダークダックスで。
紀元節
・・・ ・・・ ・・・ ・・・
*冒頭画像は、『名画にみる 國史の歩み』(近代出版社)より
右頁:神武天皇の御東征 野田九浦 筆 九州から畿内への進出
左頁:神武天皇の御即位 町田曲江 筆 2月11日は紀元節
*左頁、添え書きは以下のとおり
大和(奈良)に拠点を定められた神武天皇は、畝傍山のふもと橿原の地に宮殿を造り、初めて天皇の御位に即かれた。その御名を「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とたたえ、また神日本良磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)とも称し、後世に漢風の御諡を奉って神武天皇と申し上げる。
『日本書紀』によれば、御即位は西暦紀元前660年にあたる辛酉の年の元日と伝えられている。この日、神武天皇は正殿に三種の神器を安置して、荘重に儀式を挙げられたという。この年を紀元の第1年と数えれば、平成12年(西暦2000年)は皇紀2660年にあたる。
ただし、御即位を辛酉の年とするのは、大陸から伝来した讖緯説(数理哲学)に基いて、推古天皇9年(601)辛酉から1260年さかのぼった辛酉年を、「大変革命」の年と定めたもので、実年代はそれより数百年後の西暦1世紀ごろ(弥生時代中期)と考える説が明治時代からある。
この御即位日を太陽暦に換算すると2月11日にあたる。そこで明治6年に、この日は紀元節(今日では建国記念の日)と定められ、国民みんなで「建国を偲び、国を愛する心を養う」祝日とされている。
天皇は御即位に先立ち、「・・・恭しみて宝位(たかみくら)に臨み、元元(おおみたから=国民)を慎しむべし。・・・然る後、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした=天下)を掩ひて宇(いえ)と為さんこと、またよからずや」と建国の理想を宣言されたと伝えられる。
奥は畝傍山。右は高床式の簡素な宮殿。この絵は高等小学国史上巻に挿絵として使われた。
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