角灯と砂時計 

その手に持つのは、角灯(ランタン)か、砂時計か。
第9番アルカナ「隠者」の、その俗世を生きる知恵を、私にも。

#078 「基準値」実は結構イイカゲン

2015-07-26 07:43:00 | 原子力の光と影と
放射性物質はもちろん、
PM2.5だったり、ちょっと前にはダイオキシンだったり、

世の中には、
人体に有害で健康被害をもたらす「危険」な物質が沢山あります。

で、それぞれ、
ここまでなら「安全」という「基準値」が決まっています。

以前は、
この「基準値」自体が広く云々されることは、
ほとんどありませんでした。

ところが福島第一原発事故以来、
専門家もそうでない方も、
実に様々な見方を披露するようになりまして・・・

そんな折、
たまたま書店で手にしたのがこの本です。


「ブルーバックス」というだけで、
中高生だった頃を懐かしく思い出したりするわけですが、
それは置いといて、

『基準値のからくり〜安全はこうして数字になった』です。

賞味期限、食品の化学物質、放射線量、PM2.5、水質、血圧から電車内の携帯電話まで、
私たちはさまざまな基準値に囲まれて、超えた/超えないと一喜一憂して暮らしています。
しかし、それらの数字の根拠を探ってみると、じつに不思議な決まり方をしているものが多いのです。
たとえば、お酒はなぜ「20歳から」なのか、知っていますか? 
基準値とは、その「からくり」を知らなければ、無用の不安や油断を生むだけの数字になってしまうのです。
本書では「基準値オタク」を自称する俊英研究者4人が、基準値誕生に潜む数々のミステリーに斬り込みます!

(講談社BOOK倶楽部→http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062578684

という内容なんですが、
まずは〈少し長い「まえがき」〉から引用します。
(下線引用者)

 基準値が脚光を浴びるのは、たいてい、身の回りから予期せぬような化学物質などが見つかって、その基準値を超過したときだ。するとテレビや新聞などで政府関係者や有識者が、
「十分に安全を見越して定めた基準値なので、多少超えても心配する必要はありません」
「現在は基準値以下になっているので安全です」
 などと説明する。第一原発の事故では、それが顕著だった。食品や飲み水から検出された放射性物質について、内閣官房長官や原子力安全委員らは「安全」と繰り返した。これに対して、
「基準値以下でも安全とは思えない」「基準値が十分に低いとは思えない」
 と反発する人たちや、
「そもそも政府関係者や有識者のいう『安全』は信頼できない」
 という人たちまでがいて、メディアやインターネットなどで激しい論陣を張った。
 そうした状況を見て気づかされたのは、政府関係者や有識者がいう「安全」と、いくら説明を聞いても頑として納得しない人たちにとっての「安全」とは違う、ということだった。
 そもそも安全とは何だろう? 私たちはなんとなく「安心」は主観的な感情で、「安全」という状態は客観的・科学的に定められると考えがちだが、本当にそうだろうか。

 放射能汚染について、政府関係者や有識者がいう「基準値以下だから安全」とは(彼らが安全の意味を正しく理解していると解釈すれば)、「受け入れられないと社会が合意したリスク」よりも低いから安全、という意味である。これに反発する人たちのいう「基準値以下でも安全とは思えない」とは(実際のリスクの程度を知ることの難しさはおいて)、「自分にとっては受け入れられないリスク」だから安全ではない、といっているのである。安全という言葉を違う意味で使っているのだから、議論がかみ合うはずがない。
(現代ビジネス:講談社ブルーバックス前書き図書館→http://gendai.ismedia.jp/articles/-/39614

私自身、なんとなく感じていたのは、
そういうことだったのですね、であります。

加えて、主に政治的理由から、
「フクシマはキケンでなければならない」人達も、
少なからずいるようで、

とにかく普通に暮らしたい、
普通の暮らしに戻りたい、
そういう人を困らせています。

だったら、どうするのか。

少なくとも「政治」としては、
「安全です」というのではなしに、
「リスク管理」について説明し、
できるだけ多くの人に得心していただくしかありません。

リスク管理とは、

①ゼロリスクに基づくリスク方法
②受け入れられるリスクに基づく方法
③費用との兼ね合いで決める方法

の3原則があって、

例えば、
避難(20mSv/年)、除染(1mSv/年)という基準は、
②に沿っているわけですが、

受け入れられる範囲が変われば変わるという、
もともと、絶対的なものではなかったのです。

〈あとがき〉からも引用しましょう。
(下線引用者)

 私たちはみな、安全に対してはとても強い関心を持っている。そのため、基準値をめぐっては越えた/超えないで一喜一憂したり、感情的な議論が交わされたりすることもある。それにもかかわらず、基準値自体の意味や、数字の根拠を考えてみたり、調べてみたり、専門家に尋ねてみたりした人はほとんどいないのではないだろうか。
 世の中のさまざまな分野の安全に関する科学的知見は、数多くの仮定や前提を用いて、最終的には基準値という単一の数値に換算され、それらがセーフティネットとなって、私たちの毎日の暮らしを守ってくれている。しかし、社会はつねに変化している。新しい技術や製品が現れ、人々の行動パターンは変化していく。科学的知見もどんどん更新されていく。いつの間にか基準値の前提条件が変わってしまっていることは、往々にして起きる。そのことに私たちが気づくのは、たいてい事故や事件が起きてからである。
 基準値は私たちが安全に暮らしてていくための重要な基盤であるにもかかわらず、基準値をどのように設定すべきかについての科学は確立しているとは言いがたい。そういう学問分野がこれまでなかったのである。教科書に載っているような従来型の科学では、問題に対する正解は一つに決まっていた。これに対して、基準値をどのようにして決めるかというプロセスでは、科学的なデータにもとづきながらも、仮説を置いたり、推計を試みたりと、裁量の余地が大きい。そして最後には、どのレベルを「受入れられるリスク」と判断するかという社会的合意も必要となる。これが従来型の科学とは違うレギュラトリーサイエンスであり、いまの日本に足りないのは、このような科学を専門とするレギュラトリーサイエンティストなのである。


どうでしょう。

未だアチコチでくすぶっている、
福島産は危ない/大丈夫、
福島には戻れない/いつでも戻れる、
の争いが、どれほど不毛かが解るというものです。

というか、
当事者でないものがワーワー言う時期は、
もう過ぎたという気もしますね。

それでも福島産は嫌だ、という人は、
静かに(!)それを避けていればイイのだし、

(賠償金とのカラミがあってちょっと複雑ではありますが)
福島に戻るも戻らないも、
それぞれで判断すれば良いと思います。

さて、全て停まっていた国内の原発。

九州電力の川内原発が、来月にも再稼働することになりそうです。

(産経新聞7/26大阪6版より:Web版→http://www.sankei.com/life/news/150724/lif1507240026-n1.html

「ようやく」か「とうとう」かは判りませんが、

そこで人為的に核分裂を起こし、
放射性物質が生成している以上、
間違いなくリスクはあります。

けれど、
安全だから、危険だから、
ではなく、

それでも必要なのか、それゆえに不要なのか、
そこを論じなければならないと思います。

何しろ「受け入れられるリスク」なのかどうか、
判断するのは自分なのですから。


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