伊豆から戻ってきた吾朗は、しばらく伊豆での桃木家での思い出が忘れられなくなっていた。
彼にとっては、今まで生きてきた中で、最高の夢のような夏休みであった。堂ヶ島へ家族で遊びに行った日・陽子が浴衣を着て行った下田のお祭り等々、長いようであったが短い三週間であった。
吾朗は、帰京するや否や、すぐ桃木家に礼状をしたため投函した。まもなく、奥さんから写真を多数同封した便りが届いた。
貴方がお帰りになられたあの日、娘息子が送りに行った駅から戻ってきてから、その日は一日、何もしゃべらず何か寂しい様子でしたよ。わずか三週間の間ではございましたが、陽子・一郎は貴方をおにいさんのように感じてきていたのではないかと察します。私どもも、息子がひとり増えたような感覚にさせていただいておりました。また、来年もぜひお越しくださいませ。。。。。。。
吾朗が感じていたように、桃木家の家族も同じような想いをしていたのであった。
この三週間のご縁がまさか、その後35年も続くとは彼も桃木家も夢にも思っていなかった吾朗である。
翌年は、結局お邪魔することなく過ぎていった吾朗最後の学生時代の夏休みであった。その間、四季折々の時候の挨拶等の便りの交流があったが、次第にその思い出も忘れ去っていった彼であった。
再び、桃木家を訪れたのは吾朗が28歳のときであった。そう、あの三週間の夏休み以来、8年ぶりの夏であった。桃木家の道筋は、もうはっきりと覚えていた吾朗である。
「ごめんくださ~い」「はぁ~い」と、玄関に出てきたのは、なんと大人になった陽子であった。まさか、陽子が居るとは思ってもみなかった吾朗はびっくりした。
桃木家も同じ思いであったろう。8年ぶりに訪れた桃木家は、家族がひとり減っていた。お大師様と近所から呼ばれていたおばあちゃんがすでに他界していた。
吾朗は仏壇に手を合わせながら、8年前のお礼を心の中で、そして今日こうして再び訪れることができたのはお大師様のおばあちゃんが引き寄せてくれたのでしょうと。。。。。
陽子は、なんと生まれて三か月ほどの赤ん坊を抱いていた。彼女の傍には夫らしき人物が。吾朗は陽子と、彼女の息子ばかり見ていて、その男性のことはほとんど記憶がない。吾朗と陽子は6歳違い、睦まじい歳の差と覚えていた吾朗であった。その後、いろいろ話をしていくうちに、陽子があの頃の夢であったスチュワーデスになり、しかも女性雑誌に写真入りで載ったことがあると、奥さんがその本を見せてくれた。やはり、中学生のころの彼女とは違い、大人っぽい陽子のスチワーデスの征服姿が載っていた。
そのころ、彼女に惚れた夫となる男性が、彼女のフライトが終え戻ってくるといつも、迎えにきておりそのうち結婚したのだということであった。今日はたまたま里帰りをしたということであった。その日に、偶然吾朗が訪れ、彼女の息子を膝の上に抱くとは。やはり、お大師様のおばあちゃんが引き合わせてくれたように想った吾朗であった。彼女たちは、まもまく東京へ戻っていった。
一郎は中学生のころ、三週間の滞在していた折に、吾朗が教えてあげた落語をすっかり覚えて、落語にはまっていたとのことで、学校の人気者になったという。彼もその頃は、東京で大学生になっていて、その時は逢う事はできなかった。
吾朗は陽子が、結婚し、子供まで出来ていたことに内心驚き、まだ若いのに。青春時代をもっと謳歌しても良かったのにと、吾朗は複雑な心境で、桃木家を後にしたのだった。 その後、桃木家と再会したのは吾朗が37歳のときであった。
つづく。。。。。。。。。